贄の交替

井ノ下功

尊きを守るため


 舟は木立の隙間をゆったりとすり抜けて行く。透き通った水面に弱々しい木漏れ日が揺れる。が軋む音。遠くで魚の跳ねる音。鳥の羽ばたきが聞こえてふと訪れた静寂に、男は小さく身動みじろぎをする。


「ここらが限界だぁね」


 森の真ん中あたりで舟がゆるりと停まる。男は長靴を履いて舟を降りた。透明な水に膝まで浸かる。

 船頭に礼を言って歩き出す。櫓の音が遠ざかっていくのを背中で聞きながら、森の奥へ。


(この森は神聖な場所だった)


 足の下では柔らかな土がわずかに蹴り上げられて煙のように舞う。その影から小さな生き物が飛び出てきては、素早く土に潜り直す。


(はじめ、水はなかったらしい。なかった時代のことなど知らないが)


 どれだけ透明であっても質量は変わらない。水に纏わりつかれた足はひどく重く、男は普段よりずっと遅い歩みで目的地を目指す。

 雑然と立ち並ぶ木々は細くて白い。触ると滑らかでなんとも心地よいが、反面どこか温みのない感触のようにも思えて男はあまり好きになれなかった。上を見ると空を覆うように葉が生い茂っている。

 ふと爪先が何か硬いものを蹴った。

 透明なおかげでよく見える。石の欠片。それもレンガのようである。よくよく見ると、似たようなレンガ片が水底に並んでいる。歯抜けの部分を補えば長方形を作り出すだろう。どうやら朽ち果てた家の跡らしい。


(遺跡……いや、遺構、と呼ぶのだったか)


 男は偏った博識を誇る少年から聞いた単語を思い出す。


(目的地が近いらしいな)


 集落だったのだろうか、遺構はあちらこちらに点在している。小さな白い魚の群れがそれらの隙間を我が物顔で泳いでいく。レンガの下を住処と定めた生物もいるらしい。ぷくぷくと小さな泡が立っている。

 腐った林檎がどこへともなく流れていくのを目で追って、ふとその目を上げたときに男は見つける。


(あそこか)


 一軒だけ残された家。終わりが見えた道行きほど平坦なものはない。男はパシャパシャと水を蹴り上げて進む。

 灰色がかったレンガで組まれた、円形の家である。家というよりは一階しかない塔のような出で立ちをしている。扉の前には階段。

 男は階段を上がってようやく水から解放されると、長靴を脱ぎ片手に持つ。もう一方の手で戸を叩く。

 はーい、と女の声がして、すぐに扉が開かれた。


「あら、郵便屋さん?」


 純白の髪がさらりと揺れて男の目を奪った。


「珍しいこともあるのね。良かったらお茶でも如何かしら」

「いえ。今日は雨になると聞いているので」


 水位が上がったら帰れなくなる。男は無愛想に断り、それ以上引き止められる前にと素早く鞄から手紙を取り出す。それは真っ黒い封筒に金の文字で『神域の贄さま宛』と書かれていた。

 つっけんどんに差し出す。


「あら。それは……」


 女の白い指が何か尊いものへ触れるように恭しく封筒をつまむ。


「……珍しいこともあるのね」

「では、俺はこれで」

「ちょっと待って」


 男は踵を返すのをやめた。

 白い女の金色の瞳が申し訳無さそうな色を湛えて弧を描く。


「急ぐから、ちょっとだけ待ってちょうだい。すぐに返事を書きたいの」


 そう言われては郵便屋として立ち去るわけにはいかない。男は沈黙し、階段に腰を下ろすことを返事に代える。女は苦笑じみた表情を浮かべて戸を閉める。


 魚が跳ねる音を三回までは聞いていた。背後で扉が開く。船を漕いでいた男ははたと我に返って立ち上がる。

 白い女が白い手の中の白い封筒をすっと差し出す。


「お待たせ。これ、お願いね」

「わかりました」


 宛先にはいっそ不吉に思えるほど黒い繊細な文字で『セレンディア城主さま』と書かれている。男が出発した場所であった。


「この場所、美しいでしょう?」


 唐突な語り出しにも男は少しもたじろぐことなく、淡々と手紙をしまいながら耳を傾けた。


「森に水が入ってきたんじゃないのよ。湖に森が生えたの」

「え」

「うふふ、そうよね、そう思うわよね」


 女は男の動揺を見透かして笑う。


「神話だけれどね。湖の乙女が森の神を誘惑して、無理矢理連れてきちゃったらしいの」

「はぁ」

「そうしたらこんなふうに木がどんどん生えてきちゃってね。湖は壊れ、乙女は死んでしまった。湖から溢れた水は近くの村を流した。乙女の手のひらの上で踊らされた森の神は怒って、代わりの娘を要求した――」

「……」

「美しい場所よ。そして恐ろしい場所でもあるわ」


 雨が降れば水は逆巻き、風が吹けば木が倒れる。一度迷えば出てくることは叶わない。ゆえに誰も近付かぬ神域。

 女は微笑む。諦めたような、受け入れたような、慈しむような、そんな微笑。


「じゃあ、よろしくね、郵便屋さん」

「確かに承りました」


 男は長靴を履き直して今度こそ踵を返した。

 透明な水の中を進む。

 木漏れ日はもう消え去り、暗い影が水底に揺蕩っている。雨が降り出すのは時間の問題であろう。小さな魚群が怯えたように泳ぎ回って、男の足のすぐそばを右往左往する。

 頬に最初のひと粒が当たったのは、森の出口が見えてきたときである。

 男は疲れをおして走った。雨足が彼を追い立てるように一気に強まる。

 男がほうほうの体で神域から脱した瞬間、空が光り、雷が落ちた。そして前も見えぬほどの豪雨が襲いくる。


(……防水をしっかりしておいて良かったな)


 男は痛みを感じるほど強い雨に打たれながら、ゆっくりと神域を後にした。

 そのあと、あの女がどうなったかなど知る由もない。

 だが男は数日後に偶然、船頭と再会する。船頭は水煙草をぷかぷかとふかしながら気怠げに言った。


「豪雨のあとになぁ、城から来たってぇ娘っ子を一人、あんたと同じとこまで乗せてったよ。なんだか奇妙に真っ白い娘っ子だったぁなぁ」



   おしまい



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贄の交替 井ノ下功 @inosita-kou

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