8:洞窟の奥 3

 ハッと気づいたアイラは、思わず見回そうとした。しかし体が上手く動かせない。

 動かせない、だけじゃない。感覚がなんだか変だ。

 倒れたアイラをワルダートが抱き起こして、楽な姿勢を取らせてくれたところらしい。らしい、というのは、それがなんとなくしかわからないからだ。ワルダートの手が触れているのが、自分の背中という感じがしない。まるで着ぐるみ越しに背中をなでられているみたいに遠い。

 なんだか声もぼんやりしているし。

 もしかして私、死んじゃった?

 死ぬ直前ってだんだん意識が薄れていくものだと思っていたけど、こんな中途半端な薄れ方なの?

 思っていた感じと違う、と戸惑っていたアイラは、聞こえてきたのが自分の声だと気づいてさらに驚いた。

「ダメです、子供を殺すのは……。そんなひどいこと、絶対ダメ」

 しゃべっているつもりなんてないのに口が勝手に動いている。

 しかも、やけに苦しそうな声だ。そこでようやく、倒れたとき吐き気に襲われていたことを思い出した。今はと言うと苦痛からはすっかり解放され、苦しそうな自分を他人事みたいに眺めている。

 もしかして本当に他人なのかも。状況のおかしさに、そんなことまで考える。魂が抜けた一瞬で別の人が体に入っちゃったんだ。そして毒による体の不調を全部その人に押しつけている。深緑の目と日に焼けたおさげ髪を新しく手に入れたその少女に。

「しかしアイラ……殿。相手はグールですよ」

「幼獣とはいえ、爪も牙もある。安全のため殺しておくに越したことはありません」

 マルヤムとザナバクが困ったように言うが、少女はいやいやと首を振った。

「子供まで皆殺しなんて、かわいそう……。本当は大人のグールだって、殺すの、いけなかったのに」

「殺したくなかった、と?」

 アイラは慌てて少女の口をふさごうとした。しかし止めるすべもなく、だって、と少女は続けた。

「グールは家を守ろうとしただけなのに、それを皆殺しにするなんて。そんなの盗賊と一緒じゃないか。盗賊みたいなことしたくなかった」

 それでも、一度狩りの姿勢に入ったグールを大人しくさせる方法はなかった。

 腹をくくって剣を抜いたはずなのに、今や少女は「やりたくなかった」と駄々をこねている。その言葉にアイラが焦るのは、それが本心だったからだ。

 別人が入り込んだわけじゃない。どうやら毒を食らったショックで、感情と理性がバラバラになってしまったらしい。

「そんなの戦士として、誇りある行動じゃない。だから……」

 グールを殺さなければこちらが全滅していた、なんてこと、理性をなくした〈アイラ〉には関係ない。

 ああ、暴走した自分を客観的に見つめなきゃいけない日が来るなんて。防衛本能の一種だというなら、いっそ気絶したかった。

 みっともなく騒ぐ〈アイラ〉に呆れながらも、感情が切り離されているからか、恥ずかしさがあまりないことが救いだ。

「毒で殺すのに反対したのも戦士の誇りのため?」

「卑怯なやり方はしたくなかったから」

 誰に問われたかもよく考えず、反射的に口が答える。すぐに目の前にひるがえったのは、見慣れたローブの裾だった。

「やっぱおまえ、わざとかよ。危ないだとか言っときながら、かえって危険な道をわざわざ選んだわけだ。くっだらねえ」

「くだらなく、ない」

 笑うギュンツに、〈アイラ〉が怒るのが感じられた。にらまれても構わずギュンツが続ける。

「毒は卑怯で剣は正当? どっちにしたって殺すくせに、死に方を選ばせてやろうとはお優しいことで。そうだ、戦士の生き様に敬意を表してこいつを打つのはやめにするか」

 手の上でくるりと回るのは注射器だ。引き金を備えた黒い筒には小窓がついており、黄色い液体が中で揺れるのが見えた。

「大事な大事な誇りのためにあえてリスクを取ったわけだが、その覚悟、この解毒薬でなかったことにできるぜ? 使うか使わないか、選べよ戦士サマ」

 楽しそうに問うそれは、アイラを弄ぶためだけの質問だろう。わざわざ用意した解毒薬、ギュンツにしてみれば使わない理由がない。

 アイラにしたってそう。

 ここで死ぬわけには。

「いらない」

 〈アイラ〉は首を振った。

 アイラは頭を抱えた。

「私がグールを殺して、グールも私を殺そうとした。相打ちになったならそれが運命だ。薬は、使いたくない」

 もしかして自分はこのまま死ぬんだろうか。死因は感情の暴走ということになるだろうか。そんなロマンチックな最期は想定していなかった。とても自分らしいとは思うけど。

 ギュンツはさすがに驚いたようだった。アイラ自身びっくりしているのだから当然だ。薄青の目に戸惑いが浮かぶ。

「なあ」

 つぶやくように言った。

「死にたいときに簡単に死ねるってのは、どんな気分だよ」

 言葉の意味を深く考える時間はなかった。ギュンツはアイラの腕をつかむと、乱暴に袖をまくり上げた。

「ちょっと! いやだって言ってるのに!」

「選べとは言ったが尊重してやるとは言ってねえ」

「ふざけないで、薬なんていらないから!」

「おいそこの、手伝え」

「失礼、アイラ殿」

 マルヤムがワルダートとアイラの間に入り、暴れる手足を押さえた。そのスキにギュンツがアイラの左手に注射針を刺す。

 針が刺さったのは一瞬だったが解毒薬の効き目は抜群で、気づいたときには意識と体が元通りひとつに戻っていた。

(あ……。戻っ、た?)

 声や呼吸や体温が自分のものとして感じられる。

 自分の意志で体が動くってなんて素晴らしいことだろう。

 五感のおまけに体調不良もついてきたのは、まあ、仕方ないことだ。それでも解毒薬のおかげなのか、分離状態の直前に感じていたほど激しい吐き気はなかった。

 ゆっくり見回すと周りでは、ワルダートやギュンツやマルヤムがせわしなく言葉を交わしていた。

「鎮静剤が必要かしら?」

「薬はダメだ、解毒薬に変な影響が出ちまう。縄取ってこい縄」

「ラクダの綱しかないぞ」

 アイラを拘束する相談をしているような気がする。

 暴れようとしたのだから当然か、とため息をつきつつも、黙ってしばられるのは嫌だ。アイラは恐る恐る、なおも左手をつかんでいるギュンツの袖を引いた。

「ごめん、もう大丈夫……。助けてくれて、ありがとう」

「ああ。……正気に戻ったか?」

 正気、と言われてふと首をかしげる。

 さっきまでの自分は狂乱状態だったのだろうか。

 体が二重にブレているような違和感が収まると、確かに混乱していた心の動きを思い出せた。でも、混乱だけじゃなかったと思う。グールを殺したくなかったのも本当、毒が報いなら受けなければと思ったのも本当だ。

 だから、狂気だったと簡単に切り捨てることはできないけど、感情に任せて死んでしまわないよう踏みとどまるために理性があるのだろう。

「あのさ、ギュンツ」

「何だ?」

 ギュンツは、さっき自分が言ったことなど忘れたように首をかしげる。

「ううん……何でもない」

 触れちゃいけないような気がして、アイラは言葉を濁した。

「それで結局、どういうことになったので?」

 ザナバクが困ったように頭をかいた。アイラの様子にハラハラしながらも仔グールを警戒していたらしく、剣は抜いたままだ。ワルダートがアイラをちらりと見てから答えた。

「そうね、子供は殺さずにおきましょう」

「いいのでしょうか?」

「元々、親ほどの危険性はないわ」

 アイラへの気遣いもあるだろうが、実際、まだ力の弱い仔グールが暗がりから出てくる気配はなかった。鳴き声だけがしきりに聞こえてくる。

「それにこの分なら、そろそろ巣穴をあとにできそうだし」

 砂嵐は洞窟に避難したときがピークだったようで、グールを巡るごたごたの間にだいぶ静かになっていた。マルヤムが洞窟の出口を見やった。

「収まるまで、あと十分ほどでしょうか」

「砂漠へ出たら、まずは本隊との合流を目指すわ。襲撃の首謀者を突き止めるのはそのあとよ」

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砂漠の戦士アイラ 矢庭竜 @cardincauldron

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