推しはユン様!!

一帆

第1話


 久しぶりに我が家に帰ってきた俺は、玄関の前で顔をほころばせた。

 

 玄関の脇に植えてあるライラックの木を見上げる。もう花の季節は終わってしまい、葉が陽の光をうけてキラキラしている。花なんかに興味はなかったのだが、亜希が玄関に木を植えたいのよねぇって言うから、俺が植えたのだ。ライラックの手入れはお父さんの仕事ねと言うから、俺はせっせと剪定をしたり肥料をやった。だから、この花だけは忘れられない。

 

 ―― 俺がこの花の持つ花言葉を知っていることは内緒だ。


 俺は満足して頷くと、家の中に入った。ライラックのポプリが入ったガラスの瓶を見つけた。今年もちゃんと咲いたんだな。見られなかったことは残念だが、ほっとした気持ちになる。

 だから、俺は、玄関横の部屋に入った途端、あまりにも変わった部屋に思わず声をあげてしまった。


「おい」


 俺の声は亜希には聞こえない。テーブルの上のコップの水がカタカタっと揺れたが、亜希は全く気づかずテレビを見ている。


 俺は仕方なく部屋の中を見回す。電動ベッド。テーブルセット。大きなテレビ。介護用カート。杖。そこまでは理解できる。有希あたりが母さんのためにと買ったのだろうと思い当たるからだ。亜希もずいぶん年を取った。この前見た時よりも一回り小さくなっている。しわしわの手。曲がった背中。紫がかった白髪は、随分薄くなっている。


 ―― しかしだ!! しかし、なんだこれは??


 テレビの前に高く積まれたDVDの山。雑誌。化粧品。ピンクのクッション。

 極めつけには、亜希のベッドの横に等身大の若者のポスターが張られている。見たことのない奴だ。白いスーツを着て、胸元を僅かにはだけさせている。気障なやつ。この部屋にはあまりにも場違いのようで、俺は目を疑った。

 大音量で流れているテレビを見ると、そいつが「家まで送りましょう」と言いながら、女性に笑いかけていた。亜希は頬を赤らめながらせっせと何かをメモしている。


 「……いい年をしてなにをやっているんだか」 


 おれのため息にも似た呟きは、亜希の耳には届かない。俺は仕方なく、部屋の中をうろつき始めた。すると、戸棚にも、テーブルにもそいつの写真が飾られていることに気が付いた。


 ―― どれだけ飾っているんだ? 


 年寄りなのに何をしているんだかと呆れと怒りが混ざったような気持ちになる。

ムッとした顔で俺は亜希の顔をみた。顔を赤らめながらテレビを見ている亜希は、生き生きとして輝いている。この前、見た時とは全く違う。楽しいという気持ちが溢れている。怒る気力もうせる。


 亜希の好きな本が並んでいる本棚に、俺や子ども達の写真が、肩身狭そうに小さくなっているのを見つけた。それも、二つだけ。

 一つは満開のライラックの下、ピンクのワンピースの有希と、髪ぼさぼさでジャージ姿の弘幸とポロシャツの俺。亜希が写っていないから、おそらく亜希が撮った写真にちがいない。少しだけ斜めになっている三人の姿。まっすぐに写真を撮れないのか、だいたい亜希はいい加減な奴で、あの時だって……。……あの時? おぼろげな思い出さえも思いだせず、俺は小さく首をふった。

 もう一つは、青くて小さい花の本を手にして笑っている亜希とむっとした顔をした俺。亜希が持っている本をよく見ようと顔を近づける。かろうじてアルプスの文字が見えた。背景に写る山はおそらくアルプス。となると、スイスに行った時の写真か? 何も思いだせない。ただ、俺、もっと嬉しそうな顔をすればよかったと反省をする。

 

 思い出というのは、少しずつ忘れてしまう。忘れまいとぎゅっと握りしめても、砂のようにさらさらと零れていってしまう。亜希や子ども達との想い出が俺にとってかけがえのない尊いものだと気づくには、あまりにも遅かった。


 亜希が、俺のことを忘れてしまって、他の男に想いを寄せるのも仕方がないことかもしれないな……。


 俺はひどく悲しい気持ちで、仏壇の前に座り込んだ。







「こんにちわ!! おじいちゃんが大好きな三原堂のおはぎ買ってきたよ」


 元気いっぱいの声と共に、部屋の扉が開いて、薄桃色のパーカーを着た少女が入ってきた。外は暑かったのか、少しだけ額に汗をにじませている。誰だろうと俺は首を傾げる。……、もう、俺が覚えているのは、亜希、弘幸、有希だけだ。


「おや、りん」


 亜希が声の方を見る。穏やかな亜希の声に、りんと呼ばれた少女は、有希か弘幸の子どもだろうと勝手に結論づけた。俺はりんのそばに近寄る。りんは気づかない。亜希も気づかない。俺は空気のような存在に過ぎないのだ。仏壇の横に飾られた盆提灯が一瞬チカチカと瞬く。


「おばあちゃん、またユン様ビデオをみていたの?」

 

 亜希が見ていたテレビを見て、少し呆れたようにりんが言う。


「ああ。ユン様はほんとうにかっこいいからねぇ」


 亜希が頬を赤らめて、視線を下に向けると頬に手をおく。まるで、恋する乙女じゃないか! このポスターの男は、ユンと言うのだな。もやもやっとした気持ちを飲み込むようにポスターの男を睨む。


「またまた、そんなこと言ってぇ。お盆だから、おじいちゃん、家にいるかもよ?」

「そうだろうかねぇ……」


 顔をあげて、亜希が部屋の中を見渡した。亜希の視線が、俺の前で止まる。亜希の目が細くなって、俺の方を気がした。だから、俺は、精一杯の笑顔を作って右手をあげる。でも、亜希の表情に変化はない。奇跡はそう簡単にはおこらないのかもしれないと苦笑する。

 りんが仏壇におはぎを供えると、伏鐘をチーンと鳴らして線香をあげた。俺はぐいっと引っ張られる感じを受ける。しかし、今日はお盆。死者が里帰りする日。亜希が焚いた線香を目印に馬に乗って急いで帰ってきた。それなのに、亜希の世界はユンという俳優で一杯だった。


 りんは立ち上がると、亜希のそばに座ってテレビ画面を見始めた。手でぱたぱたと顔を仰いでいる。


「ねえ、おばあちゃん。おばあちゃんにとって、ユン様ってなんなの?」


 俺は、リンの言葉にドキリとする。死者だというのに、心臓がどくどくするのがわかる。


 ―― いいぞ、りん! 俺も知りたい。


 亜希は、等身大のポスターをしばらく眺めて、それから顔をゆっくりと崩した。その表情はまるではにかむ少女のようだった。


「生きていく理由」


 ―― なんじゃそりゃ。


 俺が理解できないでいるのに、りんはうんうんと頷いている。


「『推しが尊い』ってやつだね。いいなぁ。私にもそんな人、現れないかなぁ……」

「りん、おしがとうといって、なんだい? だいたい、お前、日本語を間違えている」


 りんの言葉に亜希が首を傾げる。俺も傾げる。りんが右手を振りながら笑う。

 

「いいの、いいの。今は、『推しが尊い』といえば、推しの存在は自分にとってかけがえのないものって意味なんだよ」

「なんだい、それ。今時の若い者の言葉は本当によくわからないねぇ」

「フフ……。私から見たら、部屋にユン様のポスターを張って、グッズを集めて、追っかけ旅行をするおばあちゃんは十分若いと思うけど……?」

「ふふふふ。そうかい?」


 嬉しそうに亜希が笑う。りんがきょろきょろっとテーブルの上を眺める。目当ての麦茶のボトルを見つけると、手を伸ばした。

 

「……。おじいちゃん、聞いていたら拗ねそうだね」

「そうかねぇ。おじいちゃん、しょうがないやつだなと言って、一緒にユン様のビデオを見てくれるよ。おじいちゃん、韓流ドラマ好きだったからねぇ……」

「そうかなぁ……」

「そんなものだよ。おじいちゃんがライラックの花言葉を忘れない限りは、大丈夫」


  亜希が視えないはずの俺の方をみて、茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せた。






 りんが帰ったあと、テーブルには、温かい日本茶が入れられた俺の湯飲み茶わんが置かれた。その位置はテレビが見れる特等席だった。



                               おしまい




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