人は『尊い』存在を必要とする

井上みなと

第1話 人は『尊い』存在を必要とする

「学校に『ゴシンエイ』というものが来るそうです」


 夕飯どき、真琴が北星に学校で聞いた話を報告した。


「ああ、東京の学校にも配られることになったか」

「『ゴシンエイ』というのを、先生はご存じなのですか?」

「うん。天皇の写真だよ。『御真影』と書くんだ」


 北星が空中に字を書いて見せると、真琴が首を傾げた。

 真琴が首を傾げたのは、文字がわからないからではなく、その御真影の意味だった。


「なぜ『御真影』というものが学校に来るのでしょう」

「真琴は人里から離れてる期間が長かったから、感覚的にわからないか」


 食事を終えてからゆっくり話そうということで一事中断となり、膳を片付けた後、北星が説明を始めた。


「そもそもは明治のはじめの頃に、奈良県知事が県庁に飾りたいからと、天皇の写真を求めたところから始まったんだ」

「なぜその知事は写真を飾りたかったのでしょう?」

「お公家さん出身の知事だったからね。そういうあたりもあるのかもしれない。そこから天皇の絵や写真が県庁だったり、官立学校に飾られるようになって、それが小学校にも広がってきたようだ」


 経緯はわかったが、真琴にはやはりその意味がわからない。


「なぜそんなに『御真影』というものを配ったり、受け取ったりしたいのでしょうか」

「ん~、政府の目論見やらもあるかもしれないけど、何かを信じたい人が結構いるからじゃないかな」


 真琴にはやはりピンと来ない。


「むしろおまえのような年の子よりも、教師側の意識なのかもしれないね。御一新があったのが20年前。みんなまだ誰かを尊いと思いたい気持ちが強いんだよ」

「誰かを、なんですか?」

「うん。そもそも昔は大名がいて、みんなそれに従ってきた。大名を尊び、忠誠を誓っていたんだね。給金をくれて、その給金を代々保証してくれる人でもあるから当然、みんな主君のために頑張るぞーだったわけだ」


 ところが、と北星が続ける。


「御一新でその関係が崩れてしまった。もう藩もないし、藩主もいない。明治のはじめ頃までは元藩主が県知事をしてるところもあったみたいだけど、それもすぐになくなった。忠誠を誓う相手がいない」

「それは……困ることなのでしょうか?」

「もちろん、明治の世になって、もう従わなくていいぞー、自由だという人もいたと思う。でも……割とみんな何かに寄りかかりたいんだよ」


 真琴には通じなさそうだなと内心で思いつつ、今後のためと思い、北星は説明を続けた。


「自分で考えて自分のことをどうにかするって意外と難しいんだ。それより何か『尊い』と思えるものを信じて、それを基準にして行動したり、尽くすほうが動きやすい」

「基準、ですか?」

「そう。御一新の前までは藩主を尊び、忠誠を誓い、藩主のため、藩のために動くのが正しいことだった。しかし、その枠組みが消えると、一部の人には自由でも、多くの人には指針がなくなってしまったんだよ。だから、その代わりに天皇の写真だ」


 話が『御真影』のことに戻る。


「藩がなくなり、常識も変わってしまった現在。忠誠の対象を祈りの対象を求めている。その対象となるのが『御真影』になるのだろうね。藩主の代わりに今度は天皇を『尊い存在』として信じることで、心の安定を図るんだ」

「なんだか……よくわかりませんが、でも何かを『尊い』と思っていたくて、それが藩主から天皇に代わって『御真影』というのがその象徴だということはわかりました」

「うん、それで合ってる。まぁ、天皇の絵なんて新聞にも載ってるのだけど、一種の儀式的なもので飾るのだろうね」


 儀式か、と真琴は納得した。


 藩というものが無くなって、平等だぞと言われたなら好きにすればいいのにと真琴は思うが、明治の世になってからは新宗教に走る人も多く、人は寄りかかりどころを求めているのかもしれない。


 それも藩主と同じかそれ以上に尊い存在。

 この『尊い』人のために頑張れると思える人。

 それが、あるいは、明治における天皇という存在だったのかもしれない。

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