“攻めの三左”、参る!

佐倉伸哉

本編

 元亀元年(西暦1570年)8月20日。織田信長は畿内に再進出してきた三好三人衆を征伐すべく、岐阜を出陣。主力の大半を率いて摂津に向かった。

 戦は序盤から数で圧倒する織田方が優勢。三好三人衆勢は織田方の勢いに押され、野田・福島の両城に籠城した。このままの勢いで織田方が勝つ――そう思われた。

 その状況を覆したのは、それまで中立を保っていた石山本願寺だった。

 9月12日夜半。石山本願寺の早鐘が打ち鳴らされると、石山本願寺の兵が突如として織田方に襲い掛かった! この思わぬ参戦に三好三人衆勢も士気を取り戻して加勢。さらに、翌13日に石山本願寺の手の者が淀川の堤を切ったことで、逆流した水が織田方の陣を呑み込み、多数の死傷者を出した。石山本願寺が反織田の旗幟を鮮明にしたことで、形勢は一気に反織田方に傾いた。

 石山本願寺の挙兵は、他の反織田勢力にも影響を及ぼした。3ヶ月前に姉川の戦いで大敗した朝倉・浅井も、息を吹き返した。越前に戻っていた朝倉勢は信長率いる主力が摂津方面で釘付けになっている事を見越して、近江へ進出。北近江・浅井家と合流して、琵琶湖西岸から一気に京を奪取しようと南進を開始したのだ! その数、およそ三万!

 琵琶湖西岸は延暦寺の影響が大きく、反対に織田の影響が及ばない地域。その延暦寺も信長を快く思っていなかった事もあり、朝倉・浅井の連合軍は滞りなく琵琶湖の西岸を南へ進む事が出来た。信長を始めとした主力勢が摂津に張り付いている状況で、京はがら空き。もし今、朝倉・浅井の両軍が京に雪崩れ込めば、これまで京を押さえていた織田方の優位も一気に逆転する恐れがある。

「させるかよ……」

 朝倉・浅井の両勢が京に迫っている報せを受けた男が、ボソッと呟いた。

 森“三左衛門さんざえもん可成よしなり。信長が尾張に居た頃から付き従っている家臣で、信長からの信頼厚い人物だった。特に、槍の名手として知られ、自慢の十文字槍を手に数多の戦場で武功を稼いできたことから、別名“攻めの三左”の異名を持っていた。

 信長もまた、一度は退けたものの朝倉・浅井の動きを警戒していた事もあり、琵琶湖西岸から京を目指す途上にある要衝ようしょうの宇佐山城に可成を置き、万一の事態に備えていた。

「しかし、殿。朝倉・浅井の手勢はおよそ三万に対して、我等は一千。正直、かなり厳しいかと……」

 家臣が険しい表情で可成に打ち明ける。宇佐山城は堅牢とは言い難く、森勢が籠城したとしても朝倉・浅井の両勢が損害覚悟で攻め立てれば間違いなく破られてしまうだろう。

「まぁ、普通に考えればそうだろうな。だがな……」

 可成は家臣の考えに理解を示した上で、意味ありげな表情で続けた。

「敵も恐らく城に籠もると思っているだろうが――敢えて、裏を掻いたらどうなるか?」

 可成の指摘に、家臣達も思わず目を見開いた。面々の反応を確かめてから、可成は不敵な笑みを浮かべて言い放った。

「それに、“攻めの三左”と呼ばれるオレは、正直城に籠もるのは性に合わない。ならばいっそ、攻めて攻めて攻め倒してみようじゃねぇか」


 9月16日、森可成率いる手勢一千は宇佐山城を出て、坂本に進軍。街道を封鎖した上で、南進してきた朝倉・浅井の両勢に襲い掛かった! まさか一千の兵で奇襲を仕掛けてくるとは予想していなかった朝倉・浅井の両勢は劣勢に立たされ、緒戦は森勢の勝利で終わった。

「やりましたな! 殿!」

 損害は軽微けいび、戦果は上々。思いがけない勝利に喜ぶ家臣だったが、可成の表情は冴えない。

「たった一回勝っただけだ。次は相手も本気で掛かってくる。それに……」

 そこで言葉を区切った可成は西の山の方を顎で示してから、苦い表情を浮かべて言った。

「……比叡山が、妙に静かなのが怪しい」

 可成の意図する事に、家臣達の表情も青ざめる。

 数日後、可成の懸念は現実のものとなった。

 琵琶湖西岸一帯に影響力を有していた一大勢力の延暦寺が、石山本願寺の挙兵に呼応する形で朝倉・浅井方にくみしたのだ。16日の敗戦で一度は兵を退いていた朝倉・浅井に延暦寺の僧兵が加わった軍勢が、再度京へ向けて行軍を再開したのだ!

 この時、可成の元には信長の弟・織田信治が二千の兵と共に救援に駆け付けたが、数の上では大きく劣る状況に変わりは無かった。

兵庫助ひょうごのすけ

 可成が呼ぶと、一人の男が現れた。

 各務かがみ“兵庫助”元正もとまさ、元は斎藤家の家臣だったが斎藤家滅亡後は縁故を頼って可成に仕官。その後は森家の家老として可成を支えていた。

「これはお主にしか頼めない、大切な役目だ」

 可成の言葉に、元正は背筋を正して次の言葉を待つ。

「一千の兵を預ける。宇佐山城に戻り、朝倉・浅井の両勢を何としても食い止めよ。何があっても打って出てはならぬ。絶対に、だ」

「承知しました」

 頭を下げる元正に、可成はその肩に手を置きながら付け加えた。

「……頼んだぞ」

「はっ」

 元正が下がっていくのを見届けると、可成はすぐに救援で駆け付けてくれた信治の元に赴いた。

三左さんざか、いかがした?」

「……この三左、一生のお願いに参りました」

 只ならぬ口上に、信治は穏やかな笑みを浮かべながら訊ねた。

「それはそれは、家中で槍の名手として名高い三左ともあろう者のお願いとは。して、どのような願いじゃ?」

 可成は一瞬唇を噛み締めるような仕草を見せた後、一思いに言い切った。


「――この三左と、死んで下され」

 

 可成が発したとんでもない一言に、信治の家臣が驚愕の表情を浮かべていた。主君の弟である信治に、家臣の可成が「死んでくれ」とは何事か。あまりに不遜な物言いにその場で斬られてもおかしくなかったが……信治は笑みを崩さずに答えた。

「皆まで言うな。三万の朝倉・浅井に対抗するには、死ぬ覚悟で挑まなければ止められない。いや……差し違えてでも止めるつもりか」

 信治の言葉に、可成は黙って首を垂れた。信治は「ふぅ」と息を一つ漏らすと、努めて明るい声色で答えた。

「……相分かった。その願い、うけたまわった」

 信治の返事に、可成は地面に額がつく程に頭を垂れた。そうする事でしか、感謝の気持ちを表せなかった。


 9月20日。京を目指して南進する朝倉・浅井・延暦寺の連合軍に、森可成と織田信治の手勢二千が襲い掛かった。火の出る勢いで攻め立てた森勢は、朝倉方の先鋒で朝倉家重臣の朝倉景鏡かげあきら勢を押し返すなど、一時健闘した。しかし、浅井対馬・玄蕃の手勢二千が側面から攻撃を仕掛けると一気に形勢は崩れ、さらに朝倉中務なかつかさ・山崎吉家・浅井長政本隊がそこに加わり、織田方は時を追う毎に数を減らしていった。

 可成も当初は一千の兵を率いていたが、度重なる戦闘の中で徐々に数を減らしていき、最終的には周りに数騎を残すまでとなった。

(畜生……腕が、重い……)

 今日だけで数え切れない雑兵を倒してきた自慢の十文字槍も、激戦を物語るように穂先が削れ、血糊ちのりがベッタリと張り付いている。鎧は返り血に染まり、肌には無数の傷がついていた。疲労から体が重く、息も上がりつつある。

 家臣達には「城に籠もるのは性に合わない」と見栄を張ったが、これだけ攻めまくったら充分だ。そろそろ、最後の仕上げといこうじゃねぇか。

 可成の鬼気迫る勢いに気圧され、敵の兵は遠巻きに囲んで向かって来る気配は無い。そんな中、可成は大きく息を吸い込むと、力いっぱい叫んだ。

「オレの名は森三左衛門! オレの首を獲って名を挙げたい奴は掛かって来い!」

 可成が叫ぶと、周りを囲んでいた兵士達は顔を合わせてから一斉に掛かってきた。その反応に可成は「根性なしが」と吐き捨てると、十文字槍を握り直して敵中に突撃していった。


 この戦で森可成、織田信治は討死した。朝倉・浅井の両勢はさらに南進するが、その先にある宇佐山城で可成から後を託された元正率いる織田勢一千が懸命に防戦した。21日には山科が焼き討ちに遭い、京まであと一歩の所まで迫ったが、22日に近江方面の報せを受けた信長は直ちに撤退を決断。急いで京へ向かった。信長が向かっている間も元正率いる手勢が懸命に朝倉・浅井の両勢を引き留め、朝倉・浅井の両勢は24日までに一千の損害を出していた。信長も同日に宇佐山城へ入り、信長が駆け付けたと知った朝倉・浅井の両勢は一旦比叡山まで兵を退いた。

 すんでの所で京が陥落するのを防いだ信長は、玉砕覚悟で朝倉・浅井の侵攻を食い止めた森可成・織田信治の死を悼んだ。

 尊い犠牲を払って京を死守した信長は、四方を敵に囲まれる絶体絶命の危機を乗り越え、天下布武の道を歩んでいくこととなる。後年、信長はこの時の可成の恩に報いるべく、遺された子を特に引き立てたという。

 森可成が命に代えて朝倉・浅井の両勢を足止めしなければ、今日の歴史は大きく変わっていたかも知れない。それだけ、可成の死は尊いものだったと言えるだろう。

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