【KAC20217】千日手のはさみ将棋

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

封じ手

「これで二十回目ね」


 静かな香子先輩の一言に、部室全体が深い溜息で包まれる。


「今日も、決着が付かなかった」

「仕方がりません。また明日、よろしくお願いします」

「ええ、そうさせてもらうわ」


 互いに駒を箱に収めたところで、部活自体がお開きになる。

 いや、正しくは僕と先輩のはさみ将棋が始まる頃には活動自体はほとんどが終わっており、ここしばらくの恒例行事となっている一戦を見ようと集まるだけの時間となっている。

 僕たちに一礼した香子先輩は、その黒髪を夕日に流しながら部室を後にした。


「なあ、なんでそんなに引き分けが続くんだよ」


 呆れた顔をした同輩の明が、鞄を手に早く帰ろうと促しながら声をかけてくる。

 他の部員も同じ思いなのか、どこか恍惚としながらも少し冷たさの覗く瞳を並べている。


「お互いに負けられない、と思っているから、かな?」


 僕の曖昧な答えに再び広がった溜息は、窓外に佇む黒い山並みにゆっくりと吸い込まれていった。




 そもそも香子先輩との一戦が始まったのは、一か月ほど前の僕の誕生日にまで遡る。

 軽口も混ざる中で祝福を受けていると、香子先輩がいつもの冷めた表情でその輪の中に割って入ってきたのである。


「あら、猛君、今日が誕生日だったの? ごめんなさい、気付かなくて何も準備してないの」

「いえ、お気になさらないで下さい。僕も明ぐらいにしか教えていませんでしたから」

「そういう訳にもいかないの。年に一度のハレの日を祝うのは私の定石だから」


 そういえば、とそこで僕も思い出したのである。

 普段はあまり積極的に誰かと話そうとするわけではない香子先輩は、しかし、部員の誕生日には必ず細やかなプレゼントを贈っていた。

 以前、お茶を入れて回っていた時にその真意を尋ねた時も、

「それが、私の定石だから」

と同じように答えていたのだが、だからこそ僕は気を遣わせまいとして誕生日の公言を避けていた。

 それが、却って裏目に出てしまったのか、香子先輩の目に珍しく微かな困惑が浮かぶ。


「でしたら、一局指していただけませんか?」

「それだといつもと同じだから駄目。それに、もう下校時間も近いから長くは指せない」

「なら、はさみ将棋でもやったらどうですかね。後は、負けた方が勝った方のお願いを聞くようにすれば、いつもと違うんじゃないんすか」


 助け船のような提案を出した明は、この一言がどのような結果を導くのか全く予想していなかったのではないかと思う。

 ただ、それに同意した香子先輩と僕の間ではさみ将棋が始まり、時間切れによる引き分けが十四回、互いに攻め手が無くなっての引き分けが六回と一向に勝負が決まらなくなったのである。

 決着を短いものにしようと三枚先取による勝利を認めているにも関わらず。

 一日の終わりの対局は最早名物となり、五回目を数えるようになってからは部員環視で記録係までつくという豪華な対局となっていた。




「なんで香子先輩もお前に負けてやらなかったんだろうな」


 学校帰り道、遠くで臙脂色に染まった雲を眺めながら明がふとぼやいた。

 鴉のわざとらしい鳴き声が耳に酷く付き纏い、遠くから列車の警笛が届く。


「そんなこと、香子先輩はしないさ」

「いや、それはおかしいだろう。だって、誕生日プレゼントなんだぜ。なら、負けてから何か欲しいものを聞いた方がいいじゃねぇか」

「いや、そんな先輩なら僕も一局を求めない。いつも全力で指してきて、初級者にも確り力の差を見せながら反省戦では色々と教えてくれる。そんな先輩だから、僕は一局を指したかったんだ」

「でも、もう一局じゃねぇよな。それに、はさみ将棋だし」

「それは迷惑かけちゃったな、って反省してる。でも、はさみ将棋も奥が深いんだ」


 明の笑いが夕暮れの街並みに溶け込んでいく。

 それは他人を馬鹿にするような笑いではなく、この二十日間に及ぶ戦いで得た実感に因るものなのだろう。

 頭を無造作に掻いた明が僕には酷く印象的であった。


「でも、はさみ将棋ならお前も香子先輩と互角に戦えるんだな」

「そこなんだよなぁ。本将棋だと一枚落ちなら戦えるけど、平手ならまだ勝てない。先輩達の中でも一つ格上の強さなんだよな」

「じゃあ、なんではさみ将棋だと互角なんだよ」

「それは僕にもはっきりとしたことは分からないけど、単純だからこそ香子先輩の思考の奥底が垣間見えるような気がしてるんだ。いつもは大駒や王将に閉ざされて見えない先輩の姿が、盤面を挟んだ先に、薄っすらとだけど」


 不思議な感覚なのではあるが、この勝負を始めてから三日目には香子先輩の攻め手も逡巡も僅かに見えるような気がしている。

 本将棋では決して届かなかった先輩の陰がそこには確かにあり、それを掴もうと家に帰ってからも、日々先輩との対局を振り返りつつ研究もしている。

 それで再び対するのであるが、その度に先輩もまた僕の前から姿を眩ませようとする。

 その繰り返しが、二十日に及ぶ対局の道程であった。


「多分、先輩も僕との対局を研究している。だから、アキレスと亀のように僕は先輩を掴むことができないでいる。いや、本当は少しずつ突き放されているのかもしれないけど。でも、先輩も真剣に指してくれている。それだけは確かだから、僕も全力で指さないと」


 僕の言葉を嗤うことなく聞いていた明は、しかし、斬り返すように僕に訊ねた。


「それはいいんだけどよ、お前、勝ったら先輩に何をお願いするんだ」




 翌日、再び香子先輩と向かい合った僕は、先の手を読みながら明の言葉が思考の隅を突いて離れなかった。

 すっかりと忘れてしまっていたことではあるが、勝った方は何か一つお願いをすることができる。

 応えるかどうかまでは明言されていなかったように思うが、勝負に潔い先輩がそれを断るようなことはないだろう。

 それだけに、僕は何を求めていいものか悩むようになってしまっていた。


 先輩の攻め手はその悩みを見透かすように、隙を突こうとする。

 決着を急いだ僕が既に二枚を失っており、一枚分リードを許してしまっている。


「先手、9七歩、引く」


 珍しく読み上げを買って出た明の声が静まり返った部室に響く。

 決死の想いで5六にと金を飛び込ませ、二枚の歩に狙いをつける。

 これで五分という思いは、しかし、香子先輩が死地ともいえると金の合間に飛び込んできたことで覆る。

 澄んだ高らかな駒音が皆の吸う息まで吸い上げたのか、読み上げ以外の音は何一つ失われる。

 仄かな甘い香りが漂う。

 それが盤を挟んだ向こうから届いたものだと気付いたとき、僕の心音が高らかに響き、急に盤面が狭まった。


「何をお願いするんだ」


 明の言葉が脳内で反芻された時、勝ち急いだ僕は手元の歩の頭を突き、右奥に隠れていた歩によって最後のと金が先輩によって挟まれた。

 呆気のない決着に騒然となる部室で、先輩が見せた表情はどこか穏やかなものに見えた。




 終局の後、残るように言われた僕は先輩と二人で反省戦へと入った。

 他の部員は、

「これから反省戦をするけど、猛君と同じくらいはさみ将棋を情熱的に研究できるなら残っていいわ」

という香子先輩の一言に気圧けおされるような形で、部室を後にしていた。

 いつもより早く済んだ活動は僅かに半時間ほどを僕達に与え、ただ、それが負けたにしては何か酷く喜ばしいものに感じられてしまった。

 手を進めながらどこに誤りがあったのかを互いに話す中で、不意に先輩が口を吐いた。


「猛君、今日はどこか勝ち急いでいるような気がしたけど、何かあったのかしら」


 香子先輩の問いに手にしていた駒を思わず落としてしまう。

 乾いた音が二人きりの部室に響き、外から響く運動部の掛け声が追いかけた。


「それが昨日、明に先輩との勝負に勝ったら何をお願いするのかを訊かれて、それに答えられなくてどうしようかと悩んでいたんです」

「あら、そうだったの。でも、それならどうして勝とうと思ったの?」

「それは、先輩と打つはさみ将棋が楽しすぎて考えられないからだと思ったので、勝って答えを求めようとしたんです」


 落ち着いて駒を元の位置に戻しながら、先輩と再び向き合う。

 斜陽に照らされた色白の先輩は、その整った顔を茜色に染め、僕を真直ぐに見据えている。

 その表情はいつものもののように見えて、どこか恍惚としているように感じられる。

 あるいは、それは僕の感情で上書きしてしまっているのかもしれない。


「猛君らしいわ。でも、私が勝ったから私のお願いを聞いてもらおうかしら」


 先輩が、微かに鼻を鳴らすようにして笑う。

 その初めて見せた表情に、僕はもうすっかりと見惚れてしまっていた。


「お願いの前に、一つだけ聞いていいかしら?」


 僕が頷くと、先輩が軽く息を吐く。

 腰まで伸びた髪は夕日を浴びて輝き、遠くに見える烏の姿までどこか艶やかに見えた。


「本当に、私が貴方の誕生日を知らなかったと思う?」

「そうだと、思いますけど」

「でも、入部の時に誕生日は書いてもらってるはずよ」


 あ、と声を上げた僕を見て先輩の目尻が下がる。


「そう。こうやって猛君と指すために吐いてた嘘だったの。明君が勝負の話を持ち出してくれなかったら、私がするつもりだったんだけど、それだけは予想外だった。でも、後は私の思った通りになった」

「いや、先輩が勝つ可能性が高かったとは思いますけど、引き分けも織り込み済みだったんですか」

「ううん、そうじゃないの。負けても良かった。でも、一生懸命な猛君と指せたのは思った通りだった」


 世界が赤い。

 もう先輩の声と自分の心音より他の音が失われている。

 その煌びやかな箱庭の中で、先輩は止めを差してきた。


「猛君、私とお付き合いしてくれないかしら」


 呆然とする意識の中で、僕は一度だけ首を縦に振った。

 憧憬という霞の先に在った先輩の陰が、実体となって見えたような気がして、遠くにある雲が固いもののように見える。

 ただ、目の前で笑う先輩の姿は殊に柔らかなものに見えた。

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