私の体が空を飛ぶ
宵埜白猫
私は何度も空を飛ぶ
かん、こん、かん、こん。
錆びた階段を歩く音が、夜闇に響いた。
かん、こん、かん、こん。
ゆっくりと、疲れた体で一段一段踏みしめていく。
長い、長い階段を登りきって、私はやっと屋上にたどり着いた。
なぜか私は、痛みを全く感じない。いつからだったのかは覚えていない。
ただ、痛みを感じない、痛みを感じたいという事実だけが私を動かしていた。
簡単だ。
何度もやったように、赤錆にまみれた手すりを越えて、屋上の端に立つ。
ああ、夜景が綺麗だなあ。なんて考えながら、私は体をゆらゆら揺らす。
ゆらゆら、ゆらゆら。
何度も何度も、ゆっくり揺らす。
落ちそうになる度に手すりを掴む。怖いからではない。私の体が、決まってそうするのだ。
私は早く飛びたいのに……。
落ちそうになっては何度も掴む。それを繰り返して21回目。
やっとだった。落ちそうになっても、今度は私の体はそれを受け入れた。
手すりに手を伸ばすことはなく、ただ風を感じて落ちていく。
地上二十一回建て。その最上階からのジャンプ。
永遠のような、一瞬のような、不思議な時間だった。
私の体は、ようやく固いアスファルトに対面する。
ゴツゴツとしたその表面に、刹那の接吻。すぐに顔は全てアスファルトに迎え入れられ、ゴキッ、という音と共に私の体も全てアスファルトに抱き抱えられた。
黒の上に、赤が散る。じわじわと赤い海が作られていく。
それを俯瞰して眺めながら、私は身体中の痛みを感じていた。
砕け、裂け、潰れ、そのすべての痛みが、今私の中を駆け巡っている。
これだ! これが欲しかった!
生きている実感。痛みは生者の特権だ。
そんな感覚に浸っていると、ふと耳元で悲鳴が聞こえた。
若い男だった。会社帰りなのか、真新しいスーツに身を包んで、顔を恐怖に歪めていた。
彼の視線の先にいるのは、言うまでもなく私だ。
彼は私を見ている。
いつだったか、似たようなことがあった気がする。
最初に空を飛んだ時だったか、あれは。あの時はもっと大勢の悲鳴が聞こえていた。
終いには耳障りだと私が叫んでも止まらないほどに、その悲鳴は鳴り続いていた。
ともあれ、今はこの男だ。
そろそろ静かにして欲しい。
大人の男がいつまでも、見苦しいったらありゃしない。
私は今まで他の人達にやったように、彼にも声をかけてみる。
「少し静かにしてくれない?」
私がそう言うと、彼は顔を真っ青にして、また悲鳴を上げながらどこかへ走っていった。
まったく、迷惑なやつもいたもんだ。
私はゆっくりと体を起こすと、またそのビルの屋上を目指して階段を登り始める。
こん、かん、こん、かん。
小気味良い音を立てながら、錆びた外階段を歩く。
こん、かん、こん、かん。
次で何回目だったっけ。
何度も何度もやってると、流石に記憶が曖昧だ。
最初に空を飛んだのいつだっけ。……あ、そうだ。三日前に初めて飛んだんだ。
だから次で、二十一回目か。
生きている実感。それを味わうために、私はまたゆっくりと、階段を登り始めた。
私の体が空を飛ぶ 宵埜白猫 @shironeko98
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