第67話 食通年鑑(3)

 下町に入り込むと、アンリエルの格好とそう大差のない姿をした人間達がそこかしこに座り込んでいた。

 ここでも、誰も彼女を貴族の娘には見なかった。

 互いに不干渉。

 しかし、懐に入れた硬貨が打ち合う音にだけは、誰もが注意深く耳を澄ませているようだった。


 下町を奥へと進み、以前ベルチェスタと一緒に通った道を歩いていたところで、数人の男がアンリエルの行く手を阻んだ。

「……カネ」

 それだけ言うと、男の一人がアンリエルの体を軽く突き飛ばした。尻餅をついた瞬間に、穴の開いたボロ服から先程の硬貨が転がり出す。

 男達は素早く硬貨を拾い上げると、足早に通りを駆けて逃げ去っていった。


 周囲には男達以外にも人はいたが、彼らはアンリエルを助けるでもなく様子を窺っているだけだった。

「ごみくずの愚民どもが……」

 逃げ去った男達に対して恨み言をぶつぶつと呟きながら立ち上がり、埃をはたいて再び歩き出すと、様子を窺っていた彼らは明らかに落胆した様子でアンリエルから興味を失った。

 彼女からはもう、硬貨の音は聞こえてこなかったのだ。



 再び歩き始めたアンリエルは、ほどなくして前に下町へ来たとき迷った場所まで辿り着いた。

 アンリエルは辺りを見回すと、ベルチェスタが通りそうな道を見張れる路地へと入り込む。

 都合よく小さな木箱が置いてあったのでそこへ腰を下ろした。普段なら触れることも躊躇するほど汚い木箱だったが、自分の体も真っ黒に汚れている現状ではまるで気にならなかった。


 しばらく木箱に座って休んでいると、不意に背後で衣擦れの音が聞こえた。

「おい! そこは俺の指定席だぞ」

 路地の奥、大きな布切れが張られて薄暗くなっている場所から一人の少年が現れる。

「お前、新顔だろ。この辺りじゃ見たことないからな。……あっち行けよ! ここは俺の縄張りなんだから」


 偉そうな態度の少年は、アンリエルと比べてもまだ年齢幼い子供のようだった。

 それでも背丈はアンリエルより少し高い。衣服は上半身が半分ほど破けていて、肌が真っ黒に汚れているのが見てわかる。

 肋骨が浮き出ていて、育ち盛りの年頃にしては痩せすぎだった。

「おい、聞いているのかよ。ガキ! 女だからって容赦しないぞ!」

「……餓鬼……?」

 明らかに自分より年齢の低い子供にガキ呼ばわりされる。


 下町へ入ってすぐ手荒い扱いを受けて気が立っていたアンリエルは、目の前の少年を鬱陶しげに、細く鋭い眼差しで睨みつけた。

「……な、なんだよ。そんな凄んでみせたって、怖くないぞ!!」

 言うが早いか怖かったのか、少年はいきなりアンリエルに向かって体当たりをかましてくる。

「……うくっ!」

 子供とは言え、相手はアンリエルより背の高い少年だ。

 抗うこともできず、今度は尻餅だけでなく背中から倒れ込んでしまう。強かに背を打って、強制的に肺から空気が吐き出される。


(――まったくもって今日は厄日です……)

 そもそも好奇心から出た自業自得の災難だったし、アンリエルはもう別に腹立たしくは思っていなかった。

 仰向けにひっくり返って空を見上げながら、あるいはこのままここで死んでしまっても構わないか……とさえ思っていた。


「……おい? まさか死んだのか? なあ……」

 いつまで経っても起き上がってこないアンリエルを心配したのか、少年が不安そうに様子を窺ってくる。突き飛ばしておいて相手を心配するあたりまだ子供だ。

 少年がうるさく声をかけてくるのでアンリエルは仕方なく起き上がった。


「……お邪魔をしましたね。あなたの縄張りを荒らすつもりはありませんから、私は他へ行くことにします」

 起き上がるとすぐ、少年の顔も見ずに背を向けて歩き出す。

 こんな馬鹿なやり取りをする為に下町へ潜入したのではなかった。ベルチェスタの動向を探りに来たのに自分は何をやっているのか。


 だが、歩き出したアンリエルを少年はどういうわけか追いかけてきた。

「なあおい……。大丈夫なのかよ? お前、俺より痩せっぽちで顔色も悪いぞ? 縄張りなんて小さいこと言わないから休んでいけよ」

「いらない世話です。あなたこそ自分の不幸な身の上に心配を向けるべきでしょう?」

「なに言ってるんだよ。お前だって同じだろ?」

「…………」


 少年の本気で心配する態度を見て、アンリエルは少し考えを巡らせた。

(この子供は……同類の友達でも欲しいのでしょうかね? ……餓鬼は嫌いですが、ここは一つ話を合わせますか……。ベルチェスタを待つ暇つぶしにもなりそうですし……)




「……はぁ、あなたはもう三年も一人でここに住んでいるのですか? 親はどうしたのです?」

「そんなもんいるわけないだろ。ここら辺にいる子供は皆、孤児だ。お前こそ、母ちゃんとかいないのかよ?」

「母ですか? ……母は病気で死にましたよ。私を生んで、すぐのことです」

「父ちゃんや他の家族は? 兄弟とかは?」

「父は……今頃、どうしているやら。姉が一人いましたが、彼女も五年ほど前に母と同じ病気で死にました」

「そうか、じゃあお前も孤児なのか。お互い大変だな」

「そうですね。私達はとても不幸ですね。それもこれも社会が悪いのです。生き難いこの社会が」

「社会とか難しいことはわかんねーけど、確かに幸福だとは思えないよな」

 そうですね、とアンリエルはいい加減な相槌を打ちながら、心の中では舌を出していた。


(……もう日が落ちてきましたね……。ベルチェスタはまだ来ないのでしょうか……それとも今日は予定を変更した? ……はあ、お腹が減りました……)

 お腹の減りすぎで、思考力も鈍って、これからどう行動したものか考えがまとまらない。自然と深い溜め息が漏れてしまう。


「……腹、減ったのか?」

「え? 腹?」

「さっきから溜め息ばっかりついて……腹、減ってるんだろ?」

「ええ、まあ。お腹の空きすぎで、そろそろ活動の限界が差し迫っていますが……」

「待ってろよ! 確か、前に手に入れたパンの余りがあるから……」

 遠回しに空腹を訴えるアンリエルに、少年は笑いながら立ち上がると路地奥の暗がりへもぐりこみパンの欠片を手にして戻ってくる。 


「……あった! ほら、これ食べろよ」

「いいのですか? あなたの貴重な食糧なのでしょう?」

「気にするなよ。こんなのまたどこかで拾ってくればいいんだ!」

「……拾ったのですか……」


 貧しい者にとっては道端に落ちていようと、パンはパンなのだ。

 それでも貴重な食糧を分けてくれようとしている純真な子供の行為を無碍に断るのは、と言うよりもパンを目の前にして空腹を我慢することなど、アンリエルにはできなかった。

 思い返せば今朝から変装に時間を費やしてしまい、食事を取り忘れていたのだ。


 空腹は既に、食べ物の品質を選ぶ余裕さえアンリエルから奪っていた。しかし、拾ったと言うそのパンを口にしてみると、

「……むぐ。う……。……このパン、腐ってませんか? よく見れば所々、カビが生えています……」

「贅沢言うなよ。それならカビの生えていないところだけ取って食べればいいだろ」

「贅沢、ですか……カビパンを食べないのが贅沢……」


「あのな、そんなことじゃこの下町で生きてなんかいけないんだぞ? そりゃあ、腐ったもの食べて病気になるのは困るけど、食べられるものは何でも食べないと」

「ううう……カビ臭い……。こんなパンを齧って路地に座り込んでいる現状が泣けてきます」

「なんだよ、泣くなよ! ……お前がそうやって泣くと、俺まで情けなくなってくるじゃないかよ……!」

 実際、涙など流してはいなかったが、気分的には充分に泣けるほど惨めだった。アンリエルに影響されたのか少年も涙ぐんでいた。



 結局、貰ったパンは半分以上を残したまま少年に返してしまった。

 少年は「もったいねえ」と言って、アンリエルが齧ったパンを丸々口にして食べてしまった。

 元々、小さかったパンだ。その内の半分も口にしなかったアンリエルは空腹を満たすことは叶わなかった。


 もう、自分が何の為にここにいるのかさえわからない。

 何故、自分はこんなにも空腹なまま、ここに座り込んでいるのだろう。あまりの空腹に意識が朦朧とする。

 ふらふらと頭を揺らしているアンリエルを心配そうに覗き込む少年。

 そういえば、この少年は何故こんな場所に座り込んでいるのだろう?


 路地の奥には少年の住処らしき場所がちゃんとある。

 奥に引っ込まずに路地の入り口に陣取っているのは、アンリエルに付き合っているからなのか。

 それとも自分の縄張りを守る為の見張りなのか。

 それとも――。


「今日は来ないのかなぁ……。ベル姉ちゃん……」

「――今、何と言いました?」

 ポツリと呟いた少年の独り言にアンリエルの意識は一気に覚醒した。


「ベルチェスタ姉ちゃんだよ……。あ、血の繋がった姉ちゃんじゃないけどさ。時々、たくさんの食べ物を持ってこの辺りにやってくるんだ。お前は新顔だから知らないだろ? ここいらの子供はベル姉ちゃんのおかげでどうにか食いつないでいけているんだぞ」

 ベルチェスタが食べ物を持ってやってくる。その事実が、大量の食材と袋に包まれた大鍋の存在へと繋がった。


 ふと、学院寮で嗅いだ芳しいスープの香りが鼻を突いた。

 アンリエルが顔を上げて匂いの出所を探ろうとすると、それよりも早く隣に座っていた少年が立ち上がって、下町の入り口方向へと視線を向けていた。

「あ! やった!! ベル姉ちゃんだ! 良かったな。今日はこれで、ちゃんとしたうまい物にありつけるぞ!」

 袋に包まれた大鍋を抱えて、アカデメイアでは見慣れた赤毛の少女が歩いてくる。


 彼女の周りには次々と下町の子供達が群がり、あっという間に囲まれてしまった。

「はいはい! 落ち着いて、順番だ! 皆で仲良く分けるんだよ。他の子の分まで取ったりするんじゃないよ!」

 よく通る力強い声で、殺到する子供達を押しとどめる。

 ベルチェスタは子供達が落ち着いたのを見計らってから、大鍋の蓋を開けて小鉢にスープを分けていった。

 手馴れているのだろう、量が少ないとか不平を漏らす子供達を軽くいなして、鍋のスープを均等に分け与えていく。


(これは……施しではないですか。自分は施しを拒んでおきながら、下町では残飯を調理した料理を振る舞って、子供相手にいい顔をしているとは……)

 納得のいかない心情を抱きながらベルチェスタの行動を非難の目で見ていると、偶々こちらを向いた彼女と視線が合いそうになって、アンリエルは慌てて目を逸らした。

 ベルチェスタは不思議そうな顔をして、近くにいた少年に話しかけている。視線はこちらに固定したままだ。ばれていないだろうか、非常に気まずかった。


「ねえ、ユー坊。あの子どうしたの?」

「ああ、あいつ新入りなんだ。まだこの辺りのこと知らなくて慣れてないんだよ。あいつ痩せてて顔色もよくないし……ベル姉ちゃん、あいつの分は少し多めに頼むよ。俺の分は減らしてもいいからさ」

「ばーか。子供が遠慮するんじゃないの。あんたも、あの子もしっかり食べなきゃ。……ほら、持っていってやりな」


 二言、三言のやりとりの後で、少年が小鉢を持ってアンリエルの元へやってきた。

「ほら、食えよ。ベル姉ちゃん特製のスープだぞ」

 差し出されたのは、鶏がらの出汁ブイヨンに玉ねぎとパンの欠片を入れ、少しのチーズが加えられたオニオングラタンスープだった。

 下町にもぐりこんでまで探り出した、ベルチェスタの鍋の正体。

 小鉢に添えられた木の匙でスープを掬い、口に含んでみる。


「美味しい……。これは本当に、美味しい……」

 薄着で冷えた体に、内側から熱が沁み渡っていく。

 美味しい、そして温かい。

 スープをかき混ぜると、下の方から肉の欠片が浮かんできた。アンリエルは肉片を口に入れて咀嚼し、実はそれが骨の髄であることに気が付いた。


(……骨を切り開いて髄を取り出すのは、相当に苦労するはずですが……まさかベルチェスタが自分で……?)

 しっかりとスープの沁みこんだ髄を噛み締めながら、アンリエルは自分がひどい勘違いをしていたことに気が付いた。


 ベルチェスタの善意は、相手に無関心な施しとは違う。

 体が温まるように、栄養が摂れるように、生きる気力が湧くように……。このオニオングラタンスープは、相手のことを思って作られた料理だとすぐにわかった。

(ここまでの料理を、あの残飯のような食材で作ったのですか……)

 自身の生活さえ苦しい中で、お金を使わずにどうにか子供達へ食べさせるものができないか、必死に考えた成果だろう。

 それを思うと胸が苦しくなり、スープが喉につかえそうになる。


「おい、大丈夫かよ? 慌てて食べると喉に詰まるぞ」

 少年が何か言っていたが、アンリエルは聞いていなかった。

 胸を締め付ける想いもよそにスープを喉へ流し込んだ。とても温かくて、美味しかった。


 ◇◆◇◆◇


 黙々とスープを口にかきこむ小さな女の子を見て、ベルチェスタは安堵した。あれだけ食欲があれば、病気ということもないだろう。


(よっぽど、お腹減っていたんだねぇ、ありゃ。…………。……あー……しっかし……。見れば見るほどアンリエルに似ているな、あの女の子……)


 いつだったかアンリエルと口論になったとき、ベルチェスタは皮肉交じりに『汚い服着たあんたなら、ただの糞生意気な餓鬼にしかみえない』と言った事を思い出していた。


(ははは……まさかねぇ……。でも、もしアンリエルが孤児で路頭に迷っていたら……あんな感じかねぇ……)

 お腹が減ってがりがりに痩せ細っていても、意地を張って周囲に馴染めずに独りきり。あの娘には例えばグレイスのような気遣いのできる優しい友人が必要なのだ。


 アンリエルに似た女の子に親しみを覚えたベルチェスタは、一心不乱にグラタンスープを食べる彼女に近づいていった。

「どうだい? グラタン美味しい?」

 ベルチェスタに声をかけられた瞬間、女の子は大きく身を震わせた。そして、乱れた長い髪の毛の隙間から、不安そうな瞳をベルチェスタに向けてくる。


「おかわり、いる?」

 女の子は顔を背けながらも、おずおずと空になった器を差し出してくる。そして、器をゆっくり上下に揺らして『もっと欲しい』と主張してくる。

 その仕草がまたアンリエルにそっくりで、ベルチェスタは思わず笑みを零していた。


「はいよ。ちょっと待ってな。今、おかわりあげるからね」

 栄養状態が良くない子供には、食欲があればなるべくおかわりを食べさせるようにしていた。不公平に見られて、周囲の子供からいじめられないようにこっそりとだが。

 女の子は痩せすぎているふうに見える。まだ食欲はあるようだし、もう一杯くらいは無理してでも食べた方が良さそうに思えた。


 けれど、ベルチェスタがおかわりを持って戻ってきたときには、女の子は既にいなくなっていた。




 三日ぶりに大鍋を抱えて、ベルチェスタは下町へと出かけた。

 さすがに毎日というわけにはいかないが、せめて週に二回くらいは子供達に食事を与えてやりたい。

 中央通りを過ぎようとしたところで、ベルチェスタは大きな袋を抱えたアンリエルに出くわした。


「おや、ベルチェスタではないですか。奇遇ですね、街中で会うとは。何か用事でもあるのですか?」

「あ、ああ、まあね、野暮用さ。別にアンリエルには関係ないことだよ」

「……その包みの中はお鍋ですか? 何が入っているのです? 美味しそうな匂いがします」

「こ、こら! これは駄目だって!」


 下町の子供達にあげる大事な食糧だ。アンリエルに摘み食いされるわけにはいかない。

 ベルチェスタはアンリエルから鍋を遠ざける。すると、いつもならしつこく探りを入れてくるアンリエルが、意外にもあっさりと自分から身を引いた。

 それきり鍋には興味を失くしたようで、アンリエルは袋の中から菓子パンを取り出すと、ベルチェスタの前で食べ始めた。


「ちょいとアンリエル、あんた貴族のお嬢様が街中で食べ歩きとか行儀悪いよ。……にしても、その袋の中身はもしかして全部菓子パンなの?」

「ええ、小腹が空いたので先程、目に付いたものを適当に買いました」

 これを全部食べるつもりだとしたら呆れ果てた食欲である。と、ベルチェスタが考えていたら、アンリエルはパンの入った袋を丸ごと寄越してくる。


「お腹が一杯になったので残りはいりません」

「はあ!? あんた何を言って……」

「適当に処分しておいてください」

 袋一杯の菓子パンをベルチェスタに全て押し付け、アンリエルはアカデメイアに帰ってしまった。


 食べ物を粗末に扱うアンリエルに、怒りを通り越してもはや言葉が出てこない。

 追いかけて、アンリエルの口に菓子パンを全て詰め込んでやろうかと思ったが、大鍋を抱えて走り回ることもできない。


「やれやれ……。下町の子達の苦労をアンリエルにも味わわせてやりたいね」

 ベルチェスタは押し付けられた菓子パンの袋を見ながら溜め息を吐いた。

「まあ、この菓子パンで救われる子供もいるだろうし、許してやるか」


 もしもアンリエルに似たあの女の子が現れたら、今日はこの菓子パンを渡してあげよう、とベルチェスタは考えてみるのだった。



   『アカデメイア短編(五) ~食通年鑑~』完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アカデメイアノーツ 山鳥はむ @yamadoriham

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ