第66話 食通年鑑(2)

 昼食を済ませた後でベルチェスタの部屋を窺うと、中で調理の準備を進めているらしい動きが感じられた。

 ずっと部屋の様子を窺っているわけにもいかないので、アンリエルとグレイスは図書館で時間を潰し、夕食時に再度ベルチェスタの部屋へ探りを入れることにした。


「まだでしょうか。もうそろそろ見に行ってはどうでしょうか?」

「気が早いよ、アンリエル。まだ午後のお茶の時間だから」

「けれど、調理自体は進んでいるはずです」

「全部、出来上がったところを見たいんでしょ? それまでは我慢、我慢」


 かくして夕食時、ベルチェスタの部屋からは、野菜や獣骨を煮込む香りが漂ってきていた。

「や、やはり……この素朴で土臭くも食欲をそそる芳しい香りは……辛抱なりません……!」

「だ、だめだよアンリエル。覗き見してたのばれちゃうよ……!?」

「もうここまで来れば関係ありません! あとは現場を押さえるまで――」

 二人が押し問答を繰り返していたところで、ベルチェスタの部屋の戸が開く。


 咄嗟に柱の影に隠れて様子を窺うと、ベルチェスタは布に包んだ大きな鍋を抱えて出てきた。

 作ったばかりの料理を外に持ち出して、一体どこへ向かおうとしているのか。


「どこへ行くんだろう、あんな大きな鍋を抱えて……ついて行ってみる?」

「いえ、やめましょう」

「あ……そうだね。やっぱりこういう詮索はよくないよね」

「そうではありません。今晩は空腹が限界にきたのです。調査はまた今度にしましょう」

「ええ~……?」



 それからしばらくの期間ベルチェスタの動向を探っていると、定期的に夕方、大量の食事を拵えては外出していることが発覚した。

「やっぱり、一人で食べているとは思えないね。保存食を作っている様子もないし、自宅に持ち帰って家族と食事しているのかな?」

 まだベルチェスタの料理の全容を知ることはできていないが、ポトフやグラタンといった料理など、数日の内に食べてしまうようなものが殆どだった。

 グレイスの言う通り、保存食の線は薄いかもしれない。


「そろそろ、調査を第二段階へ移す時が来たのかもしれません」

「第二段階って?」

「尾行です。次の機会には、ベルチェスタの後をつけますよ」

「うーん、もういい加減に本人から事情を聞いた方がいいような気が」

「何を言うのですか。それで答えを得られずに失敗すれば、警戒されて事件は迷宮入りです!」

「大げさだなー、もう。現場を押さえて終わりって、言ってなかったっけ?」

「いいえ、当初の予測より事件の根は深いと見ました。裏の事情まで全て暴かなくては私の気が済みません」

 結局、グレイスとアンリエルの二人はベルチェスタの後をつけることにした。


 翌日の夕方、ベルチェスタが鍋を持って出かけたところを、こっそりと尾行する二人の姿があった。

「アカデメイアを出て、街も抜けて……どこまで行く気なんだろ」

「このままだと下町に入ります」

「うん、ちょっと道が入り組んできた」

 中央通りと違って、街の中心地から外れた下町は舗道が整備されていない。

 小さな家々が乱立し、通路は蛇行している。気をつけないとすぐに現在地と方角がわからなくなってしまう。


「あれ、ここ袋小路だよ?」

「おかしいですね、ベルチェスタはこの角を曲がったように見えたのですが」

 入り組んだ町並みに翻弄されて、二人は完全にベルチェスタの姿を見失ってしまった。

 薄汚れた町並み。

 家々の壁は所々に穴が開いていて、地面は土と汚物で汚れている。

 似たような建物と道が続き、同じ場所を通った気もすれば、見知らぬ道を突き進んでいるような気もする。


「困ったなぁ。ひょっとして迷ったかもしれない」

「とりあえず一度、中央通りまで戻りましょう」

 疎らに見える人の姿も、明らかにボロを纏った物乞いの割合が増えてきた。

 彼らは虚ろな瞳でグレイスとアンリエルを見つめている。

 このような下町に、育ちの良さそうな見た目の少女が二人歩いている。それはとても珍しい光景だ。


 そんな無遠慮な視線の中には、少なからず剣呑な視線も混じっていた。

 隙あれば何か奪うものはないかと狙う獣の気配。

 金品を持っていなければ、上等な衣服を剥ぐなりして金に換えてもいい。そんな乱暴な思考を持つ者達がこの場にはいた。

 ただ、この辺りはまだ中央通りに近く、悲鳴の一つも上がれば警官が駆けつけてくる。実際に行動へ移すにしても、もっと街の中心部から離れなければ難しいだろう。


「嫌な雰囲気ですね、この辺りは」

「そうだね。早く中央通りまで戻ろう」

 迷いながらも、慎重に中央通りの方向を探して進むうちに、グレイスとアンリエルは背後から急に肩を掴まれた。

「はぅっ!」「ひゃっ!」

 アンリエルとグレイスは揃って、小さな悲鳴を上げた。


 恐る恐る振り返ると、すぐ後ろに二人の肩を掴んでベルチェスタが立っていた。

「ちょいとあんた達、どうしてこんな場所をうろついているのさ」

 ベルチェスタを追って下町をさまよっているうちに、ばったりと当の本人に出くわしてしまうとは、尾行は完全に失敗である。

「え、えっとね、アンリエルと二人で街を散策している内に迷っちゃって……」

「そうなのです。たまには中央通りとは別の道を歩いてみようと思いましてね」

 咄嗟に道に迷って下町に入り込んでしまったと言い訳をする。ベルチェスタは怪訝な顔をしたが、それ以上は不審に思わなかったようだ。


「好奇心旺盛なのは結構だけどさ、ここいらは治安がいいとは言えないんだから。あんまり身なりのいい格好で歩いていると襲われるよ」

 ベルチェスタは冗談交じりの口調で脅かしたが、それがただの冗談でないことはアンリエルもグレイスも下町を歩いた印象で感じていた。

「まあちょうどいいや。あたしも今からアカデメイアに帰るところだから、一緒に来な。もうこの辺には近づくんじゃないよ」

「そうするよー。迷っちゃって、ちょっと怖かったし。ありがとうね、ベルチェスタ」

「そうそう、貴族のお嬢さんが来るような所じゃないんだから」


 そう言って重い空気を笑い飛ばすベルチェスタの手には、布に包まれた鍋が握られていた。

 片手で軽々と持っている様子を見るに、中身は既に空のようだった。



 下町でベルチェスタと遭遇して以後、グレイスは詮索を諦めてしまった。

 だが、アンリエルはいまだに、消えた鍋の中身に執着していた。あの芳しい大量の食事がいったいどこに運ばれているのか、どうしても気になったのだ。

 そして、あわよくば自分もあの料理を一口味わいたい。

 アンリエルの決意は強く、彼女は密かに下町に潜入する計画を練り始めた。




 ある日の昼下がり、中央通りの端を小汚い格好の子供が一人、歩いていた。道行く人は露骨に眉をしかめ、あからさまに距離を取って避けた。

 ボロ布を纏っただけの粗末な身なりに、靴墨で全身は汚れ、顔は乱れた髪の毛が長く垂れて隠されていた。

 どこからどう見ても、靴磨きで日々を食い繋ぐ貧民の子供。


 完璧な変装だった。

 この前、下町で見かけた物乞いの姿を真似たのだ。着替えを橋の下に隠して、アンリエルは中央通りを裸足で歩いていた。

(ふぅ……なんとも新鮮な感覚ですね。裸足で街中を歩くのも、周囲の蔑む視線にさらされるのもむず痒い……)


 決して不快な感覚ではなかった。今のアンリエルは、変装で別人になっている。

 ここにいるのは法服貴族のアンリエル・ド・マウル・ラヴィヤンではない。

 歩いているのは乞食の少女で、それを自分は俯瞰ふかんして眺めているという感覚。


(そう、誰も私が貴族だとは思わない。無遠慮に蔑んだ視線を向けている相手が、まさか自分達より上級社会の人間だとは思いもよらないことでしょう)

 変装は実にうまく仕上がっている。

 試しに、下町の入り口付近で座り込んでみるが、通りを歩く人はアンリエルを完全に町の背景とみなして通り過ぎていった。

 それなりに裕福そうな身なりの人間はやや表情を歪めて遠巻きに通り過ぎるし、物乞いを見慣れた下町近くの住人達は珍しくもない光景に見向きもしない。


(……完璧な変装です。これで後はベルチェスタが下町に来るのを待つだけですね。そろそろ時間だと思いますが……)

 と、考え事をして俯いていたアンリエルの前に人影が立った。

 ――同時に甲高い金属音が数回、鳴る。

 目の前には硬貨が落ちていた。


 アンリエルの前で立ち止まっていた人影は、彼女に向かって言葉を発した。

「拾わないのか?」

(――拾う?)

 アンリエルには言葉の意味が理解できなかった。それでも反射的に目の前の硬貨を拾い上げ、それを落とした人物に差し出そうとした。


 そうして呆けた表情で人影を見上げるアンリエルに、当の人影は鼻を小さく「ふん」と鳴らすと、それ以上何を言うでもなくその場を去っていった。

 拾い上げた硬貨は彼女の手に残っていた。

 少し離れた場所にいる物乞いが、ちらちらと物欲しげな視線をアンリエルの方に向けている。


 落ちた硬貨をアンリエルは拾った。

 そして、その硬貨は彼女の手に残った。

 それは、彼女に与えられた施しだったのだ。

(これが、施し……)


 アンリエルの腹の内で、承服しがたい怒りの感情が湧きあがる。

 パン一つを買えるかどうかといった程度のわずかな硬貨。それを落とした時の人影が垣間見せた蔑んだ眼。

 通りを歩いていた時に向けられた蔑みの視線とは比較にならない――屈辱。


 施しを受けるということが、ここまで気分の悪いものだったとは。

 これが仮に善意の目を向けた寄付であったとしても、屈辱の度合いは変わらなかっただろう。余計に惨めさを感じるだけだ。

 ベルチェスタの施しを拒んだ台詞が思い起こされる。


(この施しに何も感じなくなるか、喜ばしいと感じ始めたら……終わり、なのでしょう。きっと、人としての尊厳を取り戻せなくなる)

 硬貨を手にアンリエルは立ち上がった。

(それを知った私は今や身も心も、紛れもなく完全な物乞い、というわけですね……。……ふ、ふふ……ふ……)


 虚ろな目と、危なげな足取りでアンリエルは下町の通りを先へと進んでいった。

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