アカデメイア短編

食通年鑑

第65話 食通年鑑(1)

 生きることは食べることである。


 日頃から食を人生の楽しみとしているアンリエルは、常日頃から最新の食に関する情報収集に抜け目がない。

 たった今も食堂で軽食を取りながら、彼女は情報誌を片手に今季のグルメ事情の研究を行っていた。


「あれ? アンリエル、お料理の本を読んでいるの?」

 そんな彼女に声をかけてきたのは、同期の学友である金髪天然少女グレイスと、

「へえ、あんたも調理本なんて読むんだ」

 赤毛の勝気な平民少女ベルチェスタであった。

 二人ともアカデメイアでは珍しい女学生で、アンリエルの数少ない友人だ。


 アンリエルは二人に答えを返そうとしたが、口の中にはハムと卵のサンドイッチが含まれていて、喋ることができなかった。その間に、アンリエルの背後からもう一人、誰かが近づいてきた。

「あら、それ違いますわよ。アンリエルが読んでいらっしゃるのは調理本ではなく、料理店の情報誌ですわ」

 新たに現れた人物は、アンリエルの読んでいる本に巨大な影を落とした。

 長身に見合う長さを有した赤茶色の髪、太い眉が印象深い、高飛車大女のエミリエンヌである。


 むぐむぐごくん、と口の中のものを咀嚼して飲み下し、アンリエルはようやく三人に対して口を開いた。

「これはフランセーズ国内の有名リストランテを紹介する情報誌、『食通年鑑』ですよ」


 『食通年鑑』、それは食通の貴族達が好んで購読している情報誌。当然ながら食にうるさい貴族令嬢のアンリエルは、この情報誌を定期購読していた。

 体が弱く、リストランテの食べ歩きが難しい彼女にとって、真に味わうべき料理を選定する為の有益な情報源となっていた。


「まあ、このお店! わたくし、つい先週に知人の催した夜会で行きましてよ!」

「若手の料理人キュイジニエが活躍している、比較的新しい店ですね。魚料理に定評があると聞き及んでいますが、どうでした?」

「そうですわね、白身魚のパイ包み焼きが絶品でしたわ。白ワインの選定も産地にこだわらず、あくまで料理に合ったものが用意されていましたし」

「うわぁ……美味しそう~」

 アンリエルとエミリエンヌのグルメ談議を聞いて、グレイスが涎を垂らしている。アンリエルは食通年鑑の絵図に涎を垂らされてはたまらない、と本を自分の手元へ引き寄せた。


「……ふん。お貴族様は贅沢なことで」

 先程まで一緒に食通年鑑を見ていたベルチェスタが、吐き捨てるように呟いた。嫌味の混じった台詞にエミリエンヌが眉を寄せて言い返す。

「この程度は贅沢でも何でもありませんわ。食の嗜みは貴族の常識ですもの。まあ、ど平民の貴女には前菜一皿でも口に入れる機会がないのでしょうから、仕方ありませんわよねー?」

「ぐっ……別にあたしは貴族の常識なんて知りたくもないね」

「ですがベルチェスタ、調理関係の勉強をしているなら、一流の味も知っておくべきではありませんか?」

「そ、それは――」


 アンリエルのしごく真っ当な意見に、ベルチェスタは反論できずに一瞬だけ言葉に詰まる。だが、そのすぐ後には顔を真っ赤にして、怒鳴り返した。

「こ、高級料理なんか、庶民が手を出せるわけないだろ!」

 つい先程、エミリエンヌも指摘したように、ベルチェスタはどちらかといえば貧しい部類に含まれる普通市民だ。そんな彼女が高級料理店へ簡単に行けるはずがない。


(なるほど、これは気が利かなかったかもしれません。彼女が怒るのも無理はない。グレイスでさえ飢えた獣のように涎を垂らしているのに、平民のベルチェスタにとってこのお預けは拷問ですね)

 食通年鑑に描かれた、今にも湯気と香りが漂ってきそうな料理の数々を見直して、アンリエルはベルチェスタの心中を慮り、一つ提案してみた。


「なんでしたら一度、ご馳走しましょうか?」

「施しは結構だよ!」

 どうという気はなしに言ってみた言葉に刺々しい言葉が返ってくる。ベルチェスタはそのまま食堂を飛び出して行ってしまった。


 後には唖然として残された三人の貴族少女達。

 少し間を置いてから、誘いを拒絶されたと改めて気が付いたアンリエルは、遅れてふつふつと怒りが湧いてきた。

「人が偶に親切でご馳走してあげると言えばこの態度ですか。意固地にならずともよいでしょうに。貧乏人の意地ですかね!」


 ベルチェスタの態度にアンリエルも腹を立て、不機嫌さを顕わにする。

 だが、ひとしきり怒るとすぐに虚しさがやってきて、アンリエルの感情は静まった。もとより怒りの感情が長続きしない性質なのだ。怒りは体力を奪い、残るのは疲労だけだから。


 冷静になったアンリエルは姿の見えなくなったベルチェスタのことを考え、疑問に感じたことを口にしてみた。

「そういえば、ベルチェスタは普段どのような食生活を送っているのでしょう?」

「え? 普通にパンと塩スープとか、そういうものじゃないの?」

 きょとんとした顔でグレイスが返答する。それが当たり前といった表情のグレイスに、アンリエルは大きなずれを感じた。


「ひょっとして……グレイスは毎日パンと塩スープだけなのですか? その、それだけでは、あまりに食卓が寂しくはありませんか?」

「だって……外食はお金かかるし、自分じゃあまり難しい料理もできないし……。そりゃあ実家にいた頃の食事を思えば、ひどく物足りないけど……」

 まさかと思ったが、パンと塩スープはグレイス自身の献立だった。


 これを聞いたエミリエンヌは目眩を起こしたかのように額へ手をやり、盛大な溜め息を吐いた。

「あの方は自炊してらっしゃるのでしょう? 以前、研究発表会ではポトフを用意していましたし、グレイスよりもまともな食事をしていますわよ、きっと」

「それは言えているかも……!?」

 なんとも残念な現実に、アンリエルはグレイスの生活事情を憐れんだ。まず、食事に誘うべきはこちらであったのかもしれない。


「しかしまあ、最下層貧民と同列の生活を送っているグレイスでは比較の対象になりませんね。ここは直接、ベルチェスタの食事時を狙って様子を探りましょう」

「名案ですわ、面白そう! そうと決まれば、明日の昼時が狙い目ですわね」

「最下層貧民って……私これでも貴族なんだけど……」

 グレイスの小さな抗議は完全に無視された。




 翌日、食事時になってベルチェスタの部屋を覗きに行くと、ベルチェスタは食堂に向かっていった。

「あら? あの方、食堂で食事を済ませますの? 意外ですわね……」

「いえ、そんなはずはありません。ベルチェスタが昼夜の時間帯に食堂を利用したことはアカデメイア入学から一度もないはずです。毎日、ここを利用している私が言うのです。間違いありません」

「そう言えば昨日も食堂には顔を出していたけど、何も食べて行かなかったね」


 部屋から食堂へ向かうと思われたベルチェスタであったが、入り口へは入らず建物の裏手へ回っていく。

「あ! あれ、ベルチェスタってば、食堂の裏に行っちゃうよ?」

「おかしいですね? あちらは厨房の勝手口になりますが……」

 後をつけてみると、厨房の勝手口で中から出てきた料理人と話をしていた。互いに随分と気さくな感じである。


 やがて、ベルチェスタが大きな袋を料理人に手渡すと、一度は厨房に引っ込んだ料理人が野菜の切れ端や、豚や鳥の骨などをまとめてその袋に入れて持ってきた。

 どうやら厨房で余った食材を分けてもらっていたようである。

「ああ……! そうかぁ……その手があったんだぁー……」

「グレイス……ひもじくとも、心まで貧民に落ちぶれてしまうのはどうかと思いますよ?」

 素直に感心しているグレイスにアンリエルの冷たい指摘が突き刺さる。


 彼女らの背後で、一緒に覗いていたエミリエンヌが勢いよく立ち上がった。

「あさましい! 恥ずかしくありませんのかしら……。アンリエルに施しは受けないと豪語しておいてこの醜態……わたくしもう見ていられませんわ」

 ベルチェスタのことを蔑む、というよりは本気で哀れむように顔を歪め、すぐにその場を立ち去った。


 平民のベルチェスタにも最低限の見得と意地はあるだろう。今、自分達はそれさえも暴こうとしているのかもしれない。

 気位の高いエミリエンヌのことだ、平民と貴族の違いはあれど、人として最低限保ちたい体面まで冒すのは意に反するのだろう。

(確かに、他人の秘密を本人に隠れて暴いてしまうのは、下劣な行為ですね)


 だが、アンリエルはここで退くつもりはなかった。

 本当に知りたいのはここから先、ベルチェスタがあの食材で如何なる料理を作り上げるのか、アンリエルの興味はそこにしかなかった。

 きっと隣にいるグレイスも同じ気持ちに違いない。……でなければ、最もベルチェスタと親しいはずのグレイスが友達の秘密を暴くことに、こうも積極的になるとは思えない。


 隣を見れば、グレイスはベルチェスタの抱える食材を見て首を傾げていた。

「うーん、一人で食べるには随分と量が多いような気がするなー」

「きっと食べきれない分は、保存食に加工するのです」

 グレイスの言うように袋の食材は、半ば廃棄される残飯だとしても量が多い。あれらを食材が腐らない数日中に食べきるのは無理だろう。

 わざわざ貰ったものを捨てるはずはないのだから、ベルチェスタはきっとうまく活用するはずだ。


「……これは面白くなってきました。ベルチェスタの料理は、粗雑な家庭料理とは思えないほどの美味だと評判を聞き及んでいます。ドルトン教授の折紙付きですからね。ひょっとすると、私達には内緒にして一人で美味しいものをこそこそと食べているのかもしれません。きっとそうです! だから、食通年鑑の一流料理を馬鹿にしたのです! よほど腕前に自信があるのですね、あれらの食材を使えば一流の料理に並ぶものができると……」

「ど、どうだろうね……でも、ベルチェスタならもしかして……」

 アンリエルの偏見と確信に満ちた予想にグレイスは首をひねるが、可能性は捨てきれない様子である。


「さあ、グレイス。ベルチェスタの後を追いますよ。と言っても、ここからは部屋に戻って調理に入るのでしょうが」

「あ、待って、待って、アンリエル! それがわかっているなら、今すぐ後をつけなくてもいいんじゃない?」

「そう言われればそうですが、どの道、私は学院寮に戻りますよ?」

「戻る前に、昼食を食べていこうよ。せっかく食堂まで来たんだから」


 言われてみれば、昼時を狙ってベルチェスタを追ってきたので食事は済ませていなかった。

 焦っても仕方がない。ベルチェスタの調理にも時間がかかるだろう。

 思い直した途端に、アンリエルはそれまで気にしていなかった空腹感を覚えた。

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