第64話 アンリエルの怪奇レポート

 エミリエンヌの大声に驚いたクビカキネズミは、その一メートル超の巨体を揺らしながら疾走し、ぼけっと突っ立ていたシャンポリオンを撥ね飛ばして、チーズ倉庫から外へと脱出する。

 ひっくり返ったシャンポリオンは後頭部を床に打ちつけ気絶していた。


「逃げられた! 外へ出ちゃうよ!」

 グレイスはクビカキネズミの後を追って鞭を振るう。

 丸々と肥えた尻を鞭で打ち据えられたクビカキネズミは、ワイン蔵を突っ切って階段を駆け上がり、腐って穴の開いた床天井の扉に頭から突っ込んでいく。

 そして、脂肪のたっぷりついた腹をつかえさせ、唯一の出入り口を完全に塞いでしまう。


「あー!? このデブネズミ! 穴にはまって出入り口を塞いじまったよ!」

 ベルチェスタがクビカキネズミの尻を蹴飛ばし、穴から出そうとするが完全に腹がつかえていて動かない。扉ごと跳ね上げれば出られないこともないだろうが、あの巨体を押しのけるのは苦労しそうだった。


「好都合だ! そいつはひとまず放っておこう。先にこの鼠共を駆除するんだ」

 ボウガンを構えたシュヴァリエがチーズ倉庫の出入り口を固め、残る鼠達の駆除を開始する。

 グレイスとベルチェスタもチーズ倉庫へと戻り、ワイン蔵との間にある扉を閉め切る。


「さぁて、これで鼠は逃げられないし、あたし達も後には退けないね」

「そうだね。気は進まないけど、しっかり駆除しないと安心して暮らせないから!」

 ベルチェスタは長い木の棒で肩を叩きながら、グレイスは二つ折りにした鞭を打ち鳴らしながら、無数の鼠達と対峙する。


「一匹残らず、駆逐してやります……」

 アンリエルはいつの間にかシュヴァリエから網を受け取っていた。

 そしてエミリエンヌは――。

「きえぇえええっ!!」

 狂ったようにエペを突き回して、残るクビカキネズミを次々と屠っていた。時々、赤い飛沫が飛び散っているのを見てしまい、グレイスは急に意識が遠くなったように感じた。


「や、やるしかないんだよね……?」

「しっかりしな、グレイス! 害獣を駆除するのに躊躇ったら駄目だよ!」

 ベルチェスタが棒を振り下ろし、足元を走り回っていた鼠を一匹殴り殺す。

 すぐ隣では、ボウガンの矢で鼠を的確に狙い撃ちしていくシュヴァリエがいた。矢の一本が鼠の頭蓋を撃ち抜き、一発で絶命させる。


(……ぐ、ぐろい……。けど、動物の血を見るのは初めてじゃない、大丈夫、私はやれる……)

 徐々に血生臭くなっていくチーズ倉庫で、グレイスは一度目を閉じて鶏を捌いていた時のことを思い返した。


「よし……もう、大丈夫」

 グレイスは心を殺して、鼠の駆除に当たる。

 縦横無尽に跳ね回る大蛇の如き鞭が鼠達へと襲い掛かり、あるものは衝撃で昏倒させ、あるものは内臓を破裂させ、多数の鼠は徐々に数を減らし速やかに駆逐されていった。




「終わったね……」

「ああ、終わったな」

「まだ何匹か小さいのはうろついていますが、大物は残らず狩り尽くしたようです」

「やー、大変だったねー」

「あんた、気絶していただけでしょうが……」

「フランソワは幸運でしたわ……。わたくしもいっそ気絶してしまいたかったですもの……」

 動く鼠がほぼ居なくなったチーズ倉庫で、血臭に包まれながら六人は疲れきった表情で、床に散らばった死骸を眺めていた。


「しっかし、やるもやったり、大小数百匹……この死骸どうするのさ?」

「人を雇って片付けさせます。後で私が手配しておきますから、今はこのままにしておきましょう」

「その方がいいだろうな。ただ、人を雇うにしても専門の清掃業者に依頼した方がいい。下手に処理して伝染病などが拡がっては堪らない」

 そもそも初めから専門の鼠駆除業者とか、そういう人達に任せることはできなかったのだろうか、とグレイスは今更ながら後悔していた。


「後のことについては心配無用です。死体処理専門の業者を知っていますから、そちらに任せるとしましょう」

「……死体処理専門って……何でそんな業者知っているのさ?」

「興味がありますか、ベルチェスタ? 必要があれば紹介しますよ」

「……いや、結構だよ。遠慮しとく」

 どうということもなさそうな顔で危ない業者を紹介しようとするアンリエルに、ベルチェスタは顔を引き攣らせながら首を振っていた。

「もう……もう、鼠はうんざりですわ……」

 エミリエンヌの呟きは、その場にいる全員の思いを代弁したものだった。



 鼠を駆除したその後、浴場で返り血を洗い流して着替えを済ませると、六人は揃って食堂で寛いでいた。

「やれやれ。けどさ、これでようやくグレイスも落ち着いて新生活が始められるわけだ?」

「うん! ……やーっと、これで一安心だよー。皆! 本当にありがとうね! 助かっちゃったよ」

 今度こそ、完全に館の怪奇現象の原因は取り除かれたことだろう。明日からは何の不安もなく眠りにつくことができるのだ。


「――なら、これで問題解決だな。行きがかり上、鼠の駆除にまで付き合うことになったが、土産に上等なワインも貰えたことだし不満はない。というわけで、俺はもう帰る」

 なんとなく場が和み、まとまりかけたところでシュヴァリエは唐突に席を立つと、お土産のワインを持って帰り支度を始めてしまった。


「あら、どうしましたのシュヴァリエ? そんなに急いで帰らなくてもいいじゃありませんの。せっかく問題が解決したのですし、これから打ち上げのパーティーでも、と思っていましたのに」

「それは良い提案ですね。館の方もここ数日の手入れですっかり見違えましたし、一つ盛大に祝宴を開くとしましょう」

「お、アンリエル、やけに乗り気だねぇ? でも、悪くないんじゃない。ここなら家の中でも、庭でも、宴会をするには十分な広さだよ」

「うんうん、パーティー賛成! やろうよ!」

 グレイスも楽しい気分になってきた。大仕事を終えた後なのだから、少しくらい羽目を外してもいいはずだ。


「――ああ、言うまでもないことですが、今回の主催者ホストはグレイスですから、お膳立てはよろしくお願いします」

「ええ!? 私、主催者なの!?」

 予想もしなかった展開である。

「それは、当然じゃありませんこと? 皆、あなたの為に、鼠の駆除なんて厄介で不潔な仕事を手伝ったのですわよ?」

「あ、うん。それはそうなんだけど……どうしよう、パーティーの準備なんて何をしたらいいのかわからないよ」

「そんな難しく考えることないって。食べ物と飲み物とそれらしい会場があれば、宴会なんてのは成り立つもんさ」


 難しく考えるグレイスの緊張をほぐそうとしたベルチェスタの言葉を、アンリエルが小さく鼻で笑った。

「……ふっ、考えが浅いですね……まあ、低俗な庶民の宴会ならばそれで成り立つのでしょうが……」

「……低俗で悪かったねぇ? どうせあたしゃ庶民の感覚しか持ち合わせてないよ」

 貴族と庶民の格差について静かな応酬をしている二人に、グレイスは遠慮がちに声をかけた。

「え、えーと……私もどちらかというと庶民の宴会の方が気楽でいいかなーって思うんだけど……」


「――あのさ、ちょっといいかな、皆? 盛り上がっているところ悪いんだけど……」

 そこへ更に、珍しくシャンポリオンが口を挟んでくる。

「僕も、もう帰らないといけないかな」

「まあ、どうしてですの? シュヴァリエに付き合う義理などありませんのよ?」

 シュヴァリエは何か言いたそうに顔をしかめたが、結局口を挟むことはしなかった。その代わり、シャンポリオンがぼそりと一言。


「うん。だって、ほら……。もうすぐ前期の研究発表会だし――」

『――――』

 沈黙する一同。


「そういうことだ。俺もシャンポリオンも研究の続きがあるから帰るぞ。……パーティーもいいが、程々にな」

「じゃあねー。発表会、頑張ろうねー」

「あ! お、お待ちなさいな! わたくしも一緒に帰りますわ!」

 慌てて二人の後を追っていくエミリエンヌ。


 水を差された様子のベルチェスタとアンリエルは二人揃って肩を竦めた。

「ま、仕方ありませんね。祝宴は発表会が終わった後ということで」

「ふー……。……いきなり現実に引き戻されたって言うのかな。何だか楽しい気分が冷めちまったよ。そりゃま、別に試験のこと忘れていたわけじゃないけどさ……」

「――忘れてた」

 ぼそりと呟いたグレイスに、二人の視線が集中する。


「どうしようっ!! 発表の準備、何もしてない! 研究も途中で放り出していたよ!!」

「え……!? グ、グレイスあんた、何も準備していないって――今まで何していたの!?」

「だ、だって、だって……。普段の勉強もあったし、生活費のやりくりとか、引越しとか、鼠騒ぎもあって……」

「何も考えていなかったのですね?」

「うあーん! その通りだよぉー!!」

 恐慌に陥るグレイスを半眼で見ながら、ベルチェスタは大きく溜め息を吐いた。


「はあ……で、そういうアンリエルは何か考えているのかい? どうせ何も考えてないんだろ?」

「いいえ、今期の研究発表の準備なら、私は既に終わっています」

「嘘!」

 いつの間に準備を済ませたのだろうか。

 毎度のことながら、そんな素振りは全く見せていなかったというのに。


 ベルチェスタもまだ疑っているようで、アンリエルの研究内容について深く突っ込んでいく。

「題材は? また、いい加減なものじゃないのかい?」

「今期の研究テーマは『グルノーブル怪奇現象報告――吸血鬼の棲む館、その正体を暴く――!』です」

「…………」「…………」

 三流ゴシップ記事のタイトルのようなテーマ名だった。


「……反応が悪いですね。ちゃんと聞き取れましたか? 今期のテーマは、グルノーブル怪奇現象報告、吸血鬼の棲む……」

「や、わかった。わかったから」

「う、うん。けど、それって……」

「まさしく、今回の鼠騒動を題材にしたものです」

 慎ましやかな胸を大仰に張り、したり顔でアンリエルは説明した。

「――ちょい待ち。読めた。読めてきたよー……。あんた、初めから自分の研究テーマにするつもりで、グレイスにこの館を貸したんでしょ。この館で怪奇現象が起こるって知っていて、さ。違う?」

「え、まさか……。ち、違うよね……?」


 ――まさか、そんな。友達を実験台にして自分の研究を行うなんて。

 青ざめた顔に不安げな眼差しでグレイスはアンリエルの言葉を待った。

「……心外ですね。困っている友人を放っておくことができず、住居の世話をしてあげたとは思えないのですか?」

「それ、それだよ! あんたにしては妙に親切だな、って思ったのさ。いくら仲の良い友達だからって、あんたがそこまで気を回すとはどうしても思えなかったんだよ!」

「それではまるで、私が人情のない冷徹な人間のようです」

 憮然とした表情でアンリエルはベルチェスタを睨むが、ベルチェスタの方は呆れ果てた様子で頭を掻いている。


「いや、あんたね、それは自覚しておくべき所だよ? ……あたしだって、あんたが本気でグレイスのことを心配していたなら、こんなことは言わないさ。けどね、おかしいじゃない? あんたの研究は『既に終わって』いるんだろう? それは、グレイスが館に住み始めて今日まで、ずっと怪奇現象に関する記録を取り続けてきたからじゃないの? そしてついに今日、怪奇現象の正体は完全に暴かれた。あんたの研究は、これで結論の段階に達したんだ!」


 何だか変な調子で推理を述べるベルチェスタに対して、ふ……、と軽く息を吐いてアンリエルは目を細める。

「……名推理、という程のものでもありませんが……認めましょう。確かに、その推論は正しい。正解です」

 そして彼女は犯行を認めた。


「えええぇー……? じゃあ、アンリエル……初めから、この館の変な噂は知っていたのぉ……?」

「ええ。知っていました。初めは単純な好奇心から調べ始めたのですが、怪奇現象を引き起こしている原因については、噂以上のものは得られませんでした。私も直接、館の中を調査したものの、どうにも手掛かりは掴めなかったのです。そこで、私とは視点の異なる人物の協力を得ようと思ったとき、都合よくグレイスが安い住居を探しているようでしたので……」

「無料で館を貸し出したわけだ……」

「そんな裏があったなんてー……」

 嵌められた。

 見事に嵌められたのだ。


「しかしですね。約束通り、今後も住居を無料で貸すことには変わりないのですから、別に悪い話ではないでしょう?」

「そりゃあねぇ、怪奇現象も無事に解決したし……これだけ立派な屋敷を無料で借りられるってのはいい話だと思うけど……」

「なんか私、上手く利用されたみたい……」

「良いではないですか、そのような些細な事。それよりもグレイスには差し迫った問題があるはずです。早く研究を終わらせて、発表の準備に取り掛からなくてはいけないのでは?」

「わ――!! そうだった! どうしよう!? 何すればいいんだっけ!? 困ったよぉー!?」

 不意に現実へ引き戻されて、再び恐慌状態に逆戻りする。だが、いくら慌てふためいたところで問題は解決しない。


「……あー。あたしもそろそろ帰ろうかな。自分の発表準備を進めなきゃ……」

「私はとりあえず、地下の清掃を業者に依頼しに行かなければなりません。グレイス、館の後片付けは私に任せて、一人でじっくりと発表の準備を整えてくださいね」

「あーん!! 薄情者――っ!!」




 アカデメイア二年目前期、生活に困って研究に身が入らなかったグレイスは、中途半端な結果でその学期の研究発表を簡単に済ませてしまった。


「え、えー……このように、食虫植物のハエトリソウは、一回だけ軽く触れた程度では葉を閉じませんが、ある程度の短い間隔で二回葉に触れますと……ほら! このように獲物がかかったことを認識して葉を閉じます! ハエトリソウがどれだけの接触間隔で獲物を認識するのか、植物の触覚応答性について研究をしてみましたー……」


「むうぅ……また奇抜な……。この研究はいかんとも評価しがたい……」

 あまりにも特殊な研究内容に唸るヴォークラン教授。

 生物学関連の他の教授は興味深く質問もしてきたが、次々と実験上の疑問点を指摘され、十分な研究ができていなかったグレイスは返答に苦労するのであった。


 ちなみに、アンリエルの怪奇レポートは学生達に受けがよく、しばらくしてグルノーブルの大衆新聞にも取り上げられていた。

 特に、生きたまま捕らえられた一.五〇メートルあまりのクビカキネズミは、絶滅したと思われていただけに珍獣発見として大々的に紹介されていた。

 なんと、余生は首都のパリにある植物園併設ラ・メナージュリー・デュ・小動物園ジャルダン・デ・プラントで暮らすことになるそうだ。


 こうしてグルノーブルの街外れにあった館は、怪奇現象の解明と共に、住人に死を招くという悪い噂を払拭した。

 だが、相変わらず館からは不気味な奇声が聞こえてきたり、表現し難い異臭が漂ってくるなど、今度は魔女の住む館として徐々に噂が広がっていくのだった。

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