第63話 怪異の棲み処

 地獄の底で悶え苦しむ亡者の如き悲鳴といえばいいだろうか。

 「ぎきゃあぁっ」とか「ふんぬぅおぉぉ……」というような表現しがたい悲鳴が聞こえ、すぐ向かい側の部屋で立て続けにばたんばたんと大きな物音がした。

 その瞬間まで熟睡していたグレイスは、尋常ならざるこの事態に飛び起きた。

「なっ、何事!?」

 向かいの部屋にはエミリエンヌが泊まっていたはずだ。


(さっきの悲鳴は――エミリエンヌ? すごい声だったけど……)

 淑女の上げるような声ではなかったが、最近の自分も似たように下品な悲鳴を上げてしまった記憶がある。

「まさか、エミリエンヌも噛まれたの!?」

 何に噛まれたのかはわからない。

 だが、確かにいるのだ、この館には。

 夜な夜な寝静まった家人に噛み付く、吸血鬼の如き存在が。


「今の悲鳴は何だ!!」

「誰の部屋からだい!」

 主人の間へとシュヴァリエとベルチェスタが駆けつけてくる。すぐ後からシャンポリオンも走ってきた。

 グレイスは皆を待つまでもなく、勢いよく戸を開けてエミリエンヌの寝ていた部屋へと飛び込んでいく。


「エミリエンヌ、無事――わっ!?」

 グレイスの鼻先を銀色の光がかすめ、目の前を白いネグリジェに身を包んだエミリエンヌが横切る。その表情には鬼気迫るものがあり、手にはエペを握って完璧な戦闘態勢の構えをしていた。

「――きえぇっ!!」

 エミリエンヌは裂帛の声と共に闇の中へと剣を突き入れる。

 すると、闇の中から丸っこい大きな影が飛び出し、部屋を縦横無尽に走り回る。


「何かいる!?」

 エミリエンヌはその影を捕捉できているのか、走り回る影に向けて目にも留まらぬ速度で連続突きが繰り出される。しかし、追い立てられた黒い影は剣を掻い潜り、隙を見ると寝台の下へと潜り込んでしまった。

「何だ、あの影は?」

「随分と大きかったけど?」

 シュヴァリエとベルチェスタが部屋の入り口で呆然と呟いている。

 彼らも目撃したのだろう。この館に潜む怪異を。


「し、寝台の下に、逃げ込みましたわ! つ、突き殺す、突き殺しますわ!」

「待て、シャトレ。一旦、落ち着け!」

 息を荒げて剣を振り回すエミリエンヌを、シュヴァリエが後ろから押さえ込んで落ち着かせる。

 その間にベルチェスタがランプに火を灯し、グレイスとシャンポリオンが寝台を両側から挟みこむように立つ。

「どうするの!? こ、この下に、何か居るのは確かなんだよね?」

「刺激するな。逃げられないように捕獲用の網を持ってくる。それまで見張っていてくれ」

 エミリエンヌを落ち着けたシュヴァリエは、捕獲網を持ってくるため自分の寝室へと引き返していった。


「ちょっと、大丈夫かい? 怪我しているんじゃないの?」

「ううぅ……わたくし、も、物凄い激痛がして飛び起きたんですの……。そうしたら、枕元に丸くて大きな影が……」

「あっ、首筋から血が出てるじゃないか……。こっちへ来な、手当てするから」

 ベルチェスタがエミリエンヌの傍に寄って、彼女の首の辺りに出来た傷を診ている。出血に気が付いたベルチェスタはランプを持ったまま、手当ての為にエミリエンヌと一緒に部屋を出て行ってしまった。


「えっとぉ……。この場合、私達はどうしたら……」

「とりあえず、シュヴァリエが戻るまで見張っているしかないねー……」

 グレイスとシャンポリオンは二人になってしまった薄暗い部屋で、いつ飛び出してくるかもわからない謎の影を監視することになってしまった。

 部屋の中は月明かりでどうにか人や物の陰影が判別できる程度だ。謎の影が飛び出してきたとして、対応できるかは甚だ疑問だ。


「早く戻ってきてよ~、シュヴァリエ~……」

「あ、たった今、階段を下りてきたみたいだね」

 シャンポリオンの言うように階段を駆け下りてくる音が聞こえてきた。

 戻ってきたシュヴァリエは棒の先端に輪を作った大きな網を手に持っていた。

「待たせたな。まだ逃げていないな」

「とうとう怪異の正体が明らかになるのですね……」

 シュヴァリエの後ろから、ランプを持ったアンリエルが姿を現す。

 当たり前のようにその場に立っているが、アンリエルは今頃になってようやくこの場へ来たのだろうか。


「アンリエル……今まで何してたの?」

「部屋でぐっすりと寝ていました」

「俺が起こしてきたんだ。あの部屋は防音性が高いから、シャトレの悲鳴も聞こえていなかったらしい」

 油断なく寝台の下をランプで照らしながら、様子を探るシュヴァリエ。

 寝台の下を覗き込みながら、シュヴァリエは小さな声でグレイスとシャンポリオンの二人に尋ねた。

「おい……、本当に逃がしていないのか? 何もいないぞ?」

「ちゃんと見張っていたけど……」

「寝台の下から出てきてはいないね」


 屈み込みながら首を傾げていたシュヴァリエだったが、急に表情を変えると勢いよく立ち上がる。

「暗くてわかりにくいが、もしかすると……。シャンポリオン、手伝ってくれ」

 シュヴァリエは寝台に手を掛けて、位置をずらそうと力を込める。シャンポリオンも手伝うが、寝台はかなりの重量があるのか簡単には動かない。


「私も手伝うね」

 グレイスが手を添えると、途端に寝台が横にずれた。

「お前……大した力持ちだな」

「ええっ? や、そんなことないから……」

 ぎりぎり二人で動かなかった物が、三人になってようやく動いただけのことであろう。

 グレイスは貴族の令嬢である。男性よりも力仕事に向いているなどということがあるわけもない。


 ともあれ、寝台を大きくずらしてシュヴァリエが床を照らすと、そこには床下収納と思われる扉があった。腐っているのか大きな穴が開いていた。

「この下に逃げたか……」

「おや、こんな床下に空間があったのですか。よく気が付きましたね、私も知りませんでしたよ」

「以前、この館で本を探していたとき、寝台の下敷きになっているのは見ていたんだが……。まさか穴が開いていたとはな……」


「この扉、開けてみる?」

「焦るな。こういうことなら、シャトレ達が戻ってからでも遅くない。お前達も、今のうちに獲物を捕獲する準備をしてきたらどうだ。そんな格好じゃ、その……なんだ……動きにくいだろ?」

 言われてみて、グレイスは初めて気が付いた。

 自分が半分透けた薄手のネグリジェで歩き回っていたことに。

「大胆ですねぇ、グレイス……誘っているのですか?」

「き、着替えてくる!!」

 布地が薄いのは少しでも涼しくなるようにと、熱帯夜の過ごしやすさを重視した為である。決して、ふしだらなわけではない。




「準備はいいか?」

「いつでも大丈夫!」

「私も装備は万全です」

「僕もいいよ~」

「あたしも覚悟は決まったよ」

「平気ですわ。やられた分は、しっかりお返ししませんと」


 首に噛み付かれ怪我をしたエミリエンヌも、包帯を首に巻いて手当てを済ませ、今は着替えを済ませて腰に剣も携えている。

 他の面々も寝巻きから着替えて、それぞれ網やら袋やら、棒やら鞭やらを持って武装していた。

「…………ベルトレ。お前、その鞭を使うのか?」

「え? そうだけど。何かまずいかな?」

 網を持ったシュヴァリエがグレイスの持つ長い鞭を見て、不安そうに確認してくる。


「グレイスの鞭捌きはかなりのものですよ。野犬の群れも泣いて逃げるほどですから」

「そうなのか? 使い慣れているならいいが……いやしかし、何で鞭なんて……」

 納得のいかない様子でシュヴァリエはグレイスの鞭をまじまじと見ている。

 武器の危険性で言えばよほどエミリエンヌの剣の方が物騒に思えるのだが、何故かアンリエル以外の皆がグレイスから距離を取っていた。


「シュヴァリエだって、ボウガンまで持ち出して。間違って当てないでよ?」

「そんな下手はしない」

 シュヴァリエは網を構えてはいたが、背中には矢筒とボウガンを背負っていた。殺傷能力としては一番高い武器だろう。

 ベルチェスタは長い木の棒だし、シャンポリオンは袋、アンリエルに至ってはランプを持っているだけだ。


「さあ、開けるぞ。構えろ……そらっ!」

 勢いよく床の扉を跳ね上げると、シュヴァリエは一歩下がって身構える。

 全員が床の扉を囲んで待ち構えるが、床下からは何も飛び出してきたりはしなかった。そろりそろりと覗いてみると、床下には階段があり、ずっと下の方にまで続いていた。

「地下への入り口だったんだ……」

「奥にまた扉が見えるな。かなり大きな地下室があるんじゃないのか。どうなんだ、ラヴィヤン?」

「私に聞かれてもわかりませんよ。この地下への入り口さえ、今さっき知ったのですから」


「なんにしても、この先に行くしかないね。薄気味悪いけど……」

 木の棒を握り締め、ベルチェスタがごくりと唾を飲み込んだ。間違いなくこの地下にこそ、怪異の正体が潜んでいるのだろう。

「さ、今度こそ行きますわよ。ほら、早くなさいなシュヴァリエ。あなたが斬り込み隊長ですわよ」

「どうして俺が……別に構わんが……」

 ぶつくさと文句を言いながらも、先頭を行くのはシュヴァリエだ。

 慎重に扉を押し開くとアンリエルからランプを受け取って、中の様子を窺いながら闇の中へと静かに足を進めていく。



「驚いたな、こいつは……。皆、来てみろ、すごいぞ」

 奥へ進んで恐ろしいものでも見つけたのかと思えば、シュヴァリエの口から発せられたのは感心したような声だった。

 彼の声に促されてまずアンリエルが足を踏み入れる。

 ランプを受け取って、地下室の様子を見たアンリエルも一瞬驚いたように息を呑んでいた。

 続いて全員が地下室へと入っていくが、そこは六人もの人が入り込んでもまだ余裕のある空間だった。

 そして何より驚くべきことは――。


「ほへぇーっ……ここは……ワイン蔵……?」

 壮観な光景とも言えるほど、年代物のワインが地下一杯に並べられていた。グレイスも思わず感嘆の溜め息を吐いてしまう。

「結構なものだ。一財産になるな、これは」

 シュヴァリエがいつになく興奮した様子で、ワインのラベルを一つ一つ確認している。


 そんな中、先に奥へと進んでいたアンリエルとベルチェスタが地下室の更に奥で朽ちかけた扉を発見していた。

「この奥にもまだ何かあるようですよ」

「うっ……ひどい臭気だね……。かび臭さと排泄物の刺激臭が混じっているじゃないか……」

「うううっ! 何ですの、この臭い! 耐え難い! 本当にこの先へ進むつもりでいますの? ぅおぇっ……」

 漂う臭気に気分を悪くしたらしく、エミリエンヌが堪らず嘔吐えずいている。シャンポリオンがワイン蔵の隅にエミリエンヌを連れて行き介抱した。



 しばらくしてエミリエンヌが体調を持ち直したところで、ワイン蔵を一頻ひとしきり見て回ったシュヴァリエが朽ちた扉の前に立ち、腐れ落ちそうな取っ手に手を掛ける。

「いいか? 開けるぞ……」

 軋んで今にも壊れそうな音を鳴らしながら、ゆっくりと扉が開かれる。開いた扉の隙間から小さな影が一つ飛び出して、足元を走り抜けていく。

「わわっ、何か出てきた!」

「完全に開くぞ!」

 扉を開放し、ランプを片手に奥の部屋へとなだれ込む六人。

 臭気はよりいっそう濃くなり、かび臭さが強く鼻を刺激する。


 室内を照らすとそこには幾段もの棚があり、油紙に包まれた平べったい円盤状の物体が並べられていた。

 アンリエルが手近にあった一つの油紙を破くと、中には茶色い外殻に包まれたチーズがあった。

「コンテチーズか……。熟成が進みすぎて、かなり固くなっているな」

 シュヴァリエは指先でチーズを突きながら、状態を確かめていた。

 他にも白カビに覆われたカマンベールチーズなど幾種類ものチーズがあったが、どれも熟成が進みすぎているようだった。


「辛うじてまともなのはミモレットぐらいか……」

 棚の下の方に転がっていた球上のチーズを片手に、シュヴァリエはひどく落胆している。

 それらのチーズを調べていたアンリエルが、包みの破れたチーズを見つけると全員に手招きをして呼び寄せた。


「これを見てください。どうやら、この館の住人は熟成の具合など気にせず、チーズを食していたようですよ」

 製造時に失敗したか、保管状態が悪かったのか、芯まで固くなったチーズが半ば削り取られた状態で棚に放置されていた。

 アンリエルが室内の陰に向けてランプの明かりを向けると、光から逃げるように無数の影が散った。

 グレイスはその蠢く影の多さに恐れをなして、聞くまでもないと思いつつもベルチェスタに訊ねてしまった。


「ねぇ……まさかあれ全部……?」

「まあ……これだけ餌があれば、そりゃあ住み心地も良く殖えるだろうね」

 食い荒らされたチーズ。

 キィキィと鳴きながら無数にひしめきあう小動物の群れ。

 突然の侵入者に驚いた彼らは物陰に隠れようとするが、数が多すぎて隠れきれないのか普通に目の前を歩き回っているものもいる。


 アンリエルは足元をうろついていたその一匹を摘み上げると、珍しいものでも見るようにして、誰に聞かせるでもなく取り止めのない説明を始める。

「この生き物は……『鼠』。分類学上は哺乳網げっ歯目に属し、伝染病の媒介動物として第一級衛生害獣に指定されています。前歯が非常に発達しており、長い尻尾が特徴。繁殖能力が高く、備蓄された穀物などを食い荒らす……」


 かじっ……。

 窮鼠猫を噛む。

 尻尾を掴まれた鼠が、体をよじってアンリエルの鼻先に噛み付いた。


 アンリエルの手から逃れ自由になった鼠は、今しがたまで自分を捕らえていた者の方を振り返り、キキキッと嘲笑うかのような鳴き声を残して仲間のもとへと逃げ帰っていく。

 アンリエルは鼻を押さえ、しゃがみ込みながら、怨みのこもった声を絞り出した。

「……虐殺です。このように凶暴な生物は、完全に駆逐しなければなりません……。ええ、それこそ鼠という種に生まれてきた事を後悔するほどにむごたらしく……!」

 目が血走っていた。


 アンリエルは懐から小振りの手斧を取り出し、足元をうろついている鼠達に向かって思い切り振り下ろす。

(――いつの間にそんな物騒なもの持ち出したの――!?)

 二度三度と振り下ろし、斧の刃先は床に刺さったが、当の鼠は素早く逃げ回ってアンリエルを翻弄している。

 やがて疲れたのか、アンリエルは斧を放り出してその場に座り込んでしまう。汗まみれの顔は屈辱に歪んでいた。


「どうしようか……すごい数なんだけど、これ駆除しきれるの?」

「捕まえられるだけ、捕まえるしかないだろう。後は、餌となっているチーズを処分して、居なくなるのを待つか……」

「何を悠長にしていますの! わたくしは首を噛まれ、グレイスは耳を、アンリエルも可愛いお鼻を齧られましたのよ! 一刻も早く殲滅すべきですわ!!」

「そうです! 奴らを一分一秒とて生き長らえさせる理由などありません!」

 こんな時だけ固い結束を見せて、エミリエンヌとアンリエルは息荒く徹底抗戦を唱えている。


 ベルチェスタとシャンポリオンは事態を見守り、シュヴァリエとグレイスはどうしようかと視線を交わす。

 一刻も早く駆除してしまいたいのはグレイスも同じ気持ちだったのだが、一つ、とても恐ろしい事実を前にして動けなかったのだ。


「……そもそもあれ、本当に鼠なの……?」

「俺にもわからん……あれを鼠と言っていいのか……」

「もうなんか、別の生き物だね~」

「あたしも下町でさえ、あれほどの大物は見かけたことないね」

 無数にいる鼠の中で、一際大きく膨れた体を持つ個体がいたのだ。目測でも五〇センチメートルを超える、大型のげっ歯類が複数見受けられた。


「一口にネズミと言っても、色々種類がありますからね。あれはおそらく……げっ歯目デブネズミ科の中でも最大種とされるクビカキネズミかと思われます。ちなみに危険等級では第三級有害指定動物になっている……」

「――そんなはずはない」

 またも始まったアンリエルの説明を途中で遮り、シュヴァリエが異論を差し挟んだ。


「クビカキネズミはもう十年以上も前に根絶されたはずだ」


 クビカキネズミは本来、森や草原で暮らしていた種類の鼠だが、開拓が進むと生息域が人里と重なるようになった。

 元来は臆病な性格であるらしいが、縄張り意識が強く、民家に棲みついたものは夜な夜な不意を突いて家人の寝込みを襲うことがあった。

 傷口から黴菌が血中に回って命を落す不幸な例や、家の衛生状態が悪化して家人が病気に侵される場合もあり、穀物も食い荒らす害獣として過去に徹底的な駆除が行われたのだ。


 シュヴァリエの話は確かに事実だ。 

 だが、目の前にいる巨大な鼠を前に、アンリエルは納得のいかない顔をして首を傾げている。

「ですが、他に当てはまる種も私の覚えにはありません。体長が一メートルを超える鼠など他にいるでしょうか?」

 アンリエルの言葉に他の五人が一様に押し黙る。


 そんな中、エミリエンヌがはたと気が付いたようにアンリエルへ疑問をぶつける。

「お待ちになってアンリエル。あなた今、一メートルと仰いまして? そんな大きな鼠が何処にいますの? ここにいる鼠は大きなものでも精々がその半分程度……それでも寒気がしますのに、悪いご冗談はおよしになってくださる? 第一、そんなに大きな生き物はもう鼠でも何でもありませんわ」


「いや、ありえない話ではない。クビカキネズミなら……確か全長一メートル半のものが過去に捕獲された記録がある。そこまで大きくなると、運動機能にも支障をきたすようになるのか、ほとんど動かなくなると言われているが……。……まさか本当に、この場にいるのか?」

 こくり、と無言で頷くアンリエルの言葉を信じて、皆が闇に目を凝らしてみたものの無数の鼠がちらちらと動き回る姿ばかりが目に付く。


 ――だがその動的な光景の中に潜む、静的な存在を見逃してはいまいか――?


「ど、どこ……どこにいるの……?」

 皆が皆、辺りを見回す最中、付近の闇を見つめていたシュヴァリエがゆっくりと首をめぐらし、やや斜め上を向いた所で「あ……」と小さく声を上げて動きを止める。

 その視線の先に目をやったグレイスとベルチェスタもまた揃って視線を一点に集中させる。

「な、なに? なんですの!? 何を見ていますの!?」

 一人だけ、まだ状況を理解できていない人間がいた。


 そして、よせばいいのに親切心からエミリエンヌに気の抜けた声をかけてしまうシャンポリオン。

「何か、エミリエンヌの上にいるみたいだよ~。僕はよく見えないんだけど。いるみたい、なにか」

「なにかっ……って……。な、なんですの……!?」

 エミリエンヌは頭上に視線を向けながら、見えない恐怖に怯えて一歩後退りした。

 彼女の大きな背中がチーズを載せた棚にぶつかると、その衝撃で棚の上から一本の縄が垂れ下がってくる。

 反射的にエミリエンヌがその縄を掴むと――。


『ぎゅうぅう……』

 怪しげな唸り声とともに、上から何か大きくて黒いものがエミリエンヌにのしかかってきた。

 どっしりと覆いかぶさってくる黒くて生温かいもの。

 かろうじて押し潰されずに立っていられたのは、さすがエミリエンヌといったところか。しかし、いっそのこと押し潰されて気を失ってしまった方が、彼女にとってどれだけ幸せだったろう。


 エミリエンヌが手に握ったものは縄などではなく巨大な生き物の尻尾であり、彼女の背中越しに大きな歯をちらつかせながら「ふぅふぅ」と荒い息をたてている異形の鼻先が、ちょうど後ろを振り返ったエミリエンヌの唇と接触する。


 長いようでいて一瞬の、重すぎる沈黙があり――。


「きああああああああぁっーー!!」


 大地を揺るがす絶叫が地の底より迸る。

 それが、惨劇の舞台開幕の合図となった。

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