キスしか知らない恋をした

藤咲 沙久

ただ触れるだけの


 別に、キスくらい。

 一条いちじょうくん以外とだって何度もしてきた。


「──カット! OK!」

「チェック入りまーす!」

「そっちの機材運んでー!」







「さっすが、今最も熱愛報道を待ち望まれているラブストーリーのゴールデンコンビ・久我くが雪穂ゆきほと一条あきら! 今のシーンなんか絶対二人が付き合うと思っちゃうわ~。雪穂もすっごくいい表情だった!」

 マネージャーとしても鼻が高い、と椎田しいださんは大変ご機嫌だ。彼女が好きな恋愛小説の映像化決定から始まり、私にオファーがあったことで、彼女のテンションは最高潮。それは現在進行形だ。楽屋の外にまで声が漏れているのではと思うほどだった。

 私はといえば、次の出番まで少し間があるので衣装のまま寛いでいる。跡がつかないよう気を付けながら、ロングヘアーだけは髪留めコンコルドでまとめさせてもらった。

「私たちが共演すると結末がわかる、とまで言われてるのに。それでも起用されるんだものね」

「この三年で二十回よ、恋人役。今回も記録更新してほしかったけどなー」

 椎田さんの手元で台本がパラパラとめくられる。そう、この作品では恋人にならない。一条くんは二人の女性に挟まれて揺れる男の役だ。

 そして私はヒロインの恋敵といったところ。私にとってもこういう役は珍しい。色々と予測を裏切るドラマにしたいと監督は言っていた。

「そこをあえて外すのが狙いなんでしょ。原作知らない人はキャスティングでミスリードされるし、知ってる人も原作通りのラストか推理するし」

「そうだけどさぁ。……ね、ね、雪穂。アンタだって一作につき一回ずつキスシーンこなしていくうちに、一条晶に惚れちゃったりしないの?」

 ニヤニヤと笑う椎田さんに呆れた目を向けてやる。同時に、仕事の話以外はツンと冷たい一条くんの横顔を思い出した。嫌われてるのかも、と考えたのだって一度や二度ではないくらいだ。

「マネージャーがなんてこと言うのよ。私、女優。キスも仕事」

「ええええ~。いいじゃんウチは向こうの事務所とも良好な関係だしぃ、世間の期待にも応えられるじゃーん」

「椎田さん完全に面白がってるでしょ……普通止める側の人間なのに」

「雪穂の芸歴と心身に傷が付かなきゃ、許す。あらやだこんな時間。ちょっとアタシ、何本か電話掛けてくるから。雪穂は入り時間だけ忘れないでね」

 切り替えの早い彼女は一瞬で仕事の顔に戻ると、扉を開けながらすでにスマホを耳に当てていた。

 ドッと、一気に心臓が暴れだす。変じゃなかったかな、普通に喋れてたかな、と冷や汗さえ出た。私は女優、女優。これくらい隠せなくてどうするの。

(……言えるわけないじゃない。キスに惚れたなんて)

 撮影中に向けられる視線や愛の言葉は、演技だと割り切れる。それにどこか素っ気ない彼の素の顔なんて知らない。

 だけどキスだけは。一条晶の唇は、まるで自分が愛されてるような錯覚に陥るほど優しい。ただ触れ合わせる、それだけなのに。

 一条晶とのキスにだけ惚れている。馬鹿みたいな話。

「……コーヒーでも買いに行こ」

 時間はまだある。少し、冷静になろう。







「あ、一条……くん」

「久我さん。お疲れさま、です」

 第三スタジオと隣接していながら、廊下からは見えにくく少し奥まった位置にある休憩ブース。ここは人が来ない穴場のはずだった。なんで出会すのが、あえて一条晶なのか。

 こんな所まで来ておきながら踵を返すのも不自然なので、仕方なく自販機の前に立つ。背中には、ソファに座る一条くんの視線がザクザクと刺さる気配があった。さっきまでの会話が思い起こされて気まずいというのに。謎の追い討ちだ。

 コーヒーがカップに落ちきるまで一分三十秒。耐えるのには微妙に長い。

「……あの、一条くん?」

 振り返ってみると、気のせいではなく目が合う。というかやっぱり見られていた。戸惑いながら首を傾げると、彼はトンと自身の隣を叩いて「久我さん」と言った。耳に馴染んだ低い声。

「久我さん。横、座ってくれませんか。素っ気なくしちゃってたの謝りますから。今だけ座って?」

(素っ気なくされてたのも、気のせいじゃなかったのね……)

 いつもはクールにしか見えない彼が、なぜかシュンと項垂れてるように思える。落ち込んでいるんだろうか。

 もし、役についての相談ならば聴くべきだ。なんだかんだ私の方が先輩なのだから。彼に対して若干の雑念はあるものの、そこはきちんと応じてあげたかった。私は数歩進んで、慎重に彼の右側へ腰を下ろした。

「何か、お話があるのかしら」

「久我さんの前だと、緊張してしまって。ごめんなさい」

「え……ええ、別に構わないわ。気にしてないから」

「オレこの後、倉田くらたさんとキスシーンがあって」

「え? そ、そうね。大事な場面だから頑張ってね」

 矢継ぎ早に投げ掛けられる脈略のない言葉に、困惑しつつも返答していく。もしかしてこの人、本当に緊張して上手に喋れないのかしら……なんて、そっと納得した。役者にはよくあることだ。カットがかかると一気に人見知りを発揮する人が多い。

「初めてなんです。久我さん以外とキス」

 カシャン。ピー、ピー、ピー。

 自販機から音がする。コーヒーが出来上がった合図だ。だけどなぜか席を立ち辛かった。どう答えればいいのかも思い付かない。私は今、何を宣言されてるんだろう。

 キスシーンが、という意味? それならまだわかる。

「オレは久我さんとだけしか。キス……したことない、から」

「…………一条くん? これ、何のお話かしら」

「最初はひたすら恥ずかしいのを演技だからって割り切って、でも何度も繰り返すうちに久我さんとするのが好きになっちゃって、役で初めてしたのが久我さんで良かったと思い始めて」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って。え、貴方そんなに喋る人だったの? というか、え? つまり何?」

 混乱した表情を誤魔化したくて俯いてみたけど、長い髪は今後頭部で留められている。顔を隠すには都合が悪かった。

「オレ、演技じゃないキスも、初めては久我さんがいい……」

 泣きそうな声音に、つい彼の方を向いてしまった。ジッと見つめてくる瞳は潤んでいる。揺れるそれを綺麗だと感じた。

 熱烈な愛を囁かれた心地がする。椎田さんの言葉が耳に蘇る。私、このまま頷いてしまいそうだ。

「貴方……私のこと、好きなの……?」

「久我さんとのキスが好き」

「は、い?」

 わざわざ訂正するように言い直された。だけど、彼の目はうっとりとしたままだ。まるで恋でもしているみたいに。

「お願いです。他の人としちゃう前に、オレのファーストキスもらってくれませんか……?」

 それは、私のことを好きとは違う。しかも触れるだけの子供みたいなキスだ、誰としたって大差ない。そもそもプライベートな私なんて何も知らないくせに。

(……ブーメランが過ぎるわね)

 心の中の反論はひとつひとつ、見事なまでに自分へと返ってくる。私だって同じだった。打ち合わせや台本読み、あとはカメラの前で交わす台詞。そんな時の一条くんしか知らないし、それなのに彼と唇を合わせるのは……好きだ。

 これは、恋だろうか。こんな恋があっていいんだろうか。でもそうとでも言わないと、訳のわからない申し出に応えそうになっていることの説明がつかなかった。でも、でも、だけど。

「一度……一度、するだけよ」

 ああ、言ってしまった。もう戻れない。付き合ってもいないのにキスをねだる一条くんと、告白するわけでもなく受け入れる私。どちらも変だ、どうかしている。それなのに走る鼓動は速度を増す一方だ。

 別に、キスくらい一条くん以外とだって何度もしてきた。一条くんとは二十回もした。だから平気、そう胸の裡で言い訳をする。何が平気なのか自分でもわからなかったけど。

「いいん、ですか?」

「何よキスくらい。ペットにされたと思って忘れてあげる」

「ふふ……キスくらいだなんて。久我さん、大人だ」

「少なくとも貴方より芸歴は長いわ」

「そうですね。今はとりあえず、それでいいです」

「ちょっと、とりあえずって何──……ん」

 泡と糖分で出来た微炭酸。その中に飛び込んだみたいな優しい刺激が全身を駆ける。本当に掠めるだけの一瞬で終わるキスだった。

 今までで一番短くて、一番拙い震える口付け。だけど、一番甘く唇が痺れた。

(私……役者じゃない一条晶と、したんだ)

 ぼんやりとした目のまま彼を見る。彼もまた、顔を近づけた距離のまま私を見ていた。不思議と私たちは、同じことを考えている気がした。絡んだ視線が離れなかった。

 不意に、少し遠くからワッと皆の声が聞こえた。誰かがスタジオの扉を開け放したのかもしれない。

「原作者の綿貫わたぬき春風はるかぜ先生からケータリング頂きましたぁ!」

「や、やめてくれ、僕はこっそりとだな」

「先生ったら。すみませんウチの綿貫、気が小さいもので」

 コーヒーはとっくに出来ている。皆の声が耳に届く。休憩時間も残りわずか。それでも、それでも離れない。離せない。

「……もう一回」

 そう口にしたのは、私と彼のどちらだったか。スタジオから漏れ聞こえる賑わいを背にして、私たちは吸い寄せられるように二十二回目のキスをした。

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キスしか知らない恋をした 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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