誘惑の街路

於田縫紀

誘惑の街路

 1月21日午後7時過ぎ。俺は疲れた足で家への帰路をとぼとぼ歩く。

 昨年末から休んでいない。つまり休日出勤バリバリ状態。それでも毎日18時には終業させられる。居残り不可だ。見つかると人事部からお怒りの連絡が来るので帰らざるを得ない。


 以前他部署でこっそり居残りしていた奴がいて大問題になった。以来うちのチーフも必ず18時には全員帰らせて鍵を閉める。当然多すぎる仕事は終わらない。


 その分は休日出勤でまかなう事になる。これだけ平日の残業に厳しいのに何故か休日出勤については全く縛りが無い。結果がこの連勤状態だ。


 ホワイト企業を気取るなら平日の残業より休日出勤を無くして欲しい。まったく何を考えているんだうちの人事部は。こんなの一杯やら……。そう思ってはっとする。いかんいかん。逃げるな俺。


 体重も新卒時と比べて5キロ増えた。身体が重い。まだ独身なのに中年おっさん一直線だ。体調がちょい前に比べても悪い気がする。これは休んでいないせいだろうか。いや違う、それだけではない。


 昨年末に最後の週休前にやった健康診断の結果が既に悪かった。GTPとかALTとかよくわからない数字が赤文字で主張している。軽い脂肪肝らしい。

 健康診断でうちの会社の医者は俺に宣告した。

「酒をやめなさい。このままでは生活習慣病一直線だぞ」と。

 

 俺はまだ独身だ。年齢もまだ一応20代。こんなところで悲しき中年おっさんに成り下がってしまう訳にはいかない。

 だから今日こそは。そう強い決意を新たにして歩いていく。


 今の時間、街はそこそこ賑やかだ。

 この通りは飲食店が多い。大手チェーンの店は今日も生中ジョッキ1杯300円からと大きな看板でこっちを誘っている。コストパフォーマンスという点では最高だ。でも駄目だ。こういう店は大学時代で卒業したのだ。だから北海道フェアなんて隣の看板もあえて直視しない。見たら負けだ。


 視線を逸らした先は昔からある地元の店。ドイツ風で自家製のソーセージやハムが売りだ。ソーセージのパリパリ感とビールは……いけない。俺は一度立ち止まって邪念を排除する。別の事に集中しよう、そう、隣の店からするオリエンタルな匂いに。


 匂いの元はインド風外国人がやっているカレー屋だ。これは大丈夫、問題無い。そう想って見るとなんと、『マハラジャビール祭り』……。何だカレー屋ならカレーとナンとタンドリーチキンだけで勝負しろ! 俺は負けないぞ。何とかやり過ごす。


 カレーの香りの次は香ばしい炭焼きと肉の香り。ここはホルモン焼き屋だ。昨年10月に出来たばかりでまだ行った事は無い。でもこのタレと肉の焼ける香りが何とも言えずにそそる。これはビールではなくホッピーで……。いけない。これは孔明の罠だ。動じるな。惑わされるな。


 それにしてもこの商店街は卑怯だ。あの手この手搦め手で俺を堕とそうとする。でも負けるものか。俺は今日こそ勝つ!


 お洒落風のバーは大丈夫。ああいう世界は俺をそそらない。それにこの街でお洒落系なんてたかがしれている。だから大丈夫、問題無い。問題無い。


 スペイン風のバルなんてのも無視だ。バーニャ何とかなんてただの野菜棒じゃないか。あんなの食べながら飲めるか!


 次の老舗焼き鳥屋は面倒くさそうな常連風が多いから行かない方がいいだろう。そう、だから俺は気にならない。気にならないったら気にならない。本当だ。


 そうやって商店街を一通り過ぎた時、俺はすっかり憔悴していた。でも今日こそは誘惑に買ったんだ。そう、俺はやったぞ。ガッツポーズを思わずしかけた時だ。


 商店街から少しだけ離れぽつんと立っている店が目に入ってしまった。

 大した店じゃない。店構えもありきたりで古くさい。ラーメンの文字がかすれかけている。


 だがたまらない匂いが俺を惹きつけた。こういう店こそがちょうどいい。チェーン店でも流行のタイプでもない、ごく普通の中華料理店。最近は町中華なんて呼ばれるようになったけれど、そんな流行りすたりを全く無視したような店だ。


 連勤、そして商店街との戦いで弱った俺はあらがえなかった。ふらふら、誘蛾灯に引き寄せられる虫ケラのように俺は引き寄せられる。色あせたのれんをくぐり、カウンターの空いている場所へ。


「餃子と野菜炒めと瓶ビール」

 すぐにやってきたビールをコップにつぐ。

 今年に入って21回目の禁酒断念に瓶とグラスをカチンとあわせ、一人で乾杯。

 明日こそは負けないぞとの決意を少しだけ込めて。

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