落書きにさよなら

久里 琳

落書きにさよなら


 この学校をえらんで本当によかった。三年前の私をほめてやりたい。

 自由にもほどがあるだろうと、自分のことを棚に上げて言いたくなるほどの放任主義、それでいて生徒がなにかやりたいって言い出すと先生はすこしだけ手助けしてくれる。でも放っといてって顔していると、とことん放任だ。


 その校風に惹かれて入学した私は、まったく自由に振る舞った。なにしろ校則もなければ先生の指導も適当だし、先輩後輩の上下関係だってゆるゆるだ。


 それではお言葉に甘えまして。いいの、こんなので。いやあ、さすがにだめかな。でもちょっとだけ。なあんて限界を試しているうち、私はすっかり清く正しい生徒の枠から足を踏み外しまくってしまった。それでもこんな放蕩娘に目くじら立てることなく自由に泳がせてくださった先生方に、感謝。


 それよりなにより、ここできみに出逢えたこと。

 素直じゃない私はきっと感謝を表に出してはいなかったろうけど、きみと出逢わなければ、私の学校生活がこんなに鮮やかに色づくことはなかっただろう。

 いいことばっかりじゃなかった。ときにはむかついたし、ケンカもしたし、しばらくこっちを向いてくれなかったときは悲しかった。それでも気づけばきみの笑顔が思い浮かんで、胸があたたかくなるんだ。




 私が学校じゅうの机や椅子や柱にやたら書き散らかした落書きのいくつかは、まだ消されずに残っている。三年近くのあいだ、ほとんど毎日なにかどこかに書きつけた落書きは、最初はただの暇つぶしだったのが、いつの間にか私の心血を注ぎたおした作品群みたいになってしまった。それもこれも、きみのせいだ。


 最初に机に落書きしたのは一年生の、夏休みのちょっと前。

 隠れて読んでたマンガを先生に取り上げられたのが、きっかけだった。いくら自由な校風でも、授業中にマンガを読むのはいけないらしい。だが先生のセリフが振るっている。


「お。最新刊じゃん。おれが読み終わったら返してやるよ」


 ジャイ〇ンかよ。笑ってしまったが、おかげでそのあとすることがない。授業聞けよ――ってきみなら言うだろうね。でも私はかないよ。


 そこでさっきのマンガの続きを勝手に想像して、書きはじめたのだ、机の上に。だってノートを持ってなかったから。教科書に書くよりは机の方が罪がかるいだろ、と私は考えた。

 書いてみるとどんどん興が乗ってしまって、気がつけば机の上に、びっしり文字が並んでいた。なんとなく消すのが惜しくなって、授業が終わると私はそのまま席を立った。

 ウチの学校では授業のたびに教室を移るし、そのつど適当な席に座るから、次この席にいつ戻ってくるかは分からない。まあこの席に着く子たちが暇つぶしに読んで、あははバカだなとちょっと笑って、気に入らなければそのうちだれかが消すだろう。


 だからほとんど忘れていたんだけど、二日後の同じ科目で同じ席に座ることになってしまった。まだ落書きは残っていて、おかげで周りの机よりも黒っぽいためにみんななんとはなく避けるらしいその席を、私はえらんで座ったのだった。なんだか責任をとらなきゃいけないような気がして。

 運命の分かれ目って、こんなものなのかもしれない。書きなぐった私の雑な字の下に、見慣れない、かわいらしい文字が書き足されているのを見つけたのだ。


『おもしろーい。つづき書いて』



 たった一行のメッセージが、私の心に火をつけたのだった。

 とはいえ私も素直ではない。最初の落書きはそのままに、別の教室の机に続きを書いた。メッセージの主が、その机を見つけられるかどうかは分からない。うまく見つけられなければ、人知れず風化していくのだろうが、それもまたよし。


 ところが次の日、落書きを確かめに行くと、読んだ足跡がしっかり残されていた。


『やった、つづき来た。彼女のきもちわかるー。せつないよね』



 それからみじかい夏休みをはさんで、私はそこらじゅう落書きするようになった。いろんな教室の机の上、椅子の背もたれ、戸棚の横、柱の裏、廊下の端、食堂のテーブルに体育館の舞台の陰。ありとあらゆるところに、気の向くままに落書きした。物語の続きも書いたし、別の本の感想も書いた。気に入った他人の文章をそのまま書き写したり、登校途中のうるさい犬への文句や、先生たちの風刺、暑い、眠たい、雨はきらい、食堂のおばさん神、思いついたことを次から次へと書きつけていった。


 それぞれに、かわいい文字の返信がついてきた。次の日に感想が書かれていることもあったし、一か月以上も経って、もう見つけられることもないかなと思った頃にひとこと、『見つけちゃった』とだけ書かれていたこともあった。


 その間ずっと私たちは、互いのことを知らなかった。知らないまま落書きのやり取りを続けて、冬が来た。

 リアルのきみと出逢ったのは放課後、白い息を吐きながら和室の障子に落書きを綴っていたとき。テスト前で、普段ここを使う華道部茶道部かるた部はいずれもお休み。だからだれかに見られるなんて思いもしなかった。


 完全に油断していた私は、すうーっと襖がしずかに開くのにも気づかず、障子の桟に一行ずつ、木枯らし吹く通学路への泣き言を書きつらねていった。

 ふと背中に、人の気配を感じた。かすかな衣ずれと、空気のそよぎ。振り返ると、きみが立っていた。むすっと不機嫌な顔だったな。


「…………あんただったの」


 はじめ私は、きみがなにを言っているのか分からなかった。きみはそれに気づいて、私の手を取ると、床の間の壁に書いた落書きのところへ引っ張って行った。そこについてるかわいい文字の感想を指さして、きみは言った。


「これ書いたの、わたし」




 感動のご対面になるはずだったのに。私たちの互いの第一印象は最悪だった。


 だってきみは、ちっともうれしそうな顔しなかったんだもの。

 理由は明らか。落書きの作者のすがたに、きみはがっかりしたんだ。よりによってこいつかよ、とその目は言っていた。なにしろ私は髪を染めて、耳にはピアス穴をあけて、素行だってあんまりよくないし、わるい意味で目立ってたからまあきみのご期待に応えられる人物じゃなかったのは確かだ。

 でもこっちだって、あんなかわいらしい文字で感想をくれるのが、こんな地味でくそ真面目をまんま絵にしたような子だとは思わなかったよ。


「あれを書いてるのがあんただって知ると微妙だわ」


 きみはそれだけぼそっと言って、さっと帰ってしまった。

 私は呆然ときみを見送った。襖の閉まるとき、たん、と柱をたたいた音が、いつまでも耳に残った。私はすっかり気分を損ねて、しばらくのあいだは落書きもやめてしまった。




 それが再開したのは、きみからのメッセージを教卓の下に見つけたから。


『つづき書いてよ。結末が知りたい』


 私は初めて、きみに返事を書いた。


『私が書いたものなんて、読みたくないんじゃないの』


 で、返事がこれ。


『物語に罪はないから』


 ずいぶんな言い様だと思ったけれど、私は物語を再開させた。現実の読者がどんな人だろうと、やっぱり私は書きたかったし、読んでもらいたかったのだ。

 するときみは感想を返してくれた。心なしか以前よりコメントが辛辣になったような気がして、私はふんと笑った。


 そうして徐々に、私たちは落書き以外の場でも言葉を交わすようになっていった。まったく似た点のない二人の交友は双方の友人たちから不思議がられたものだ。たしかに落書きがなければ、私たちが仲よくなることなど決してなかっただろう。だがこの二年ですこしずつ私たちは距離を縮めて、いまやきみは、私にとってかけがえのない存在になってしまっている。



 二年生になっても、三年になっても私は落書きを続けた。

 わざときみが見つけられそうにない場所にいろんな落書きをしては、きみに文句をいわれたね。でもきみの探索の眼はたしかで、私の計算ではざっと九割ぐらいの落書きはきみに見つけられたんじゃないかと思う。

 そんなかくれんぼみたいな落書きもこれが最後だ。さすがにきみも見つけられないだろう。なぜならいまは卒業式の真っ最中。今日できみは学校を去って、ここへは戻ってこない。だからこれから書くことは、きみには秘密。


 まったく卒業式までさぼるなんて、ってきみは怒るだろう。私もきみの晴れ姿を見たかったし、私を見てもらいたかった。でも、きみと会ったら泣かずにいる自信がない。

 私はきみの前から消えるつもりだから。真っ当なきみのとなりに、いつまでも私のような女がいるべきじゃない。



 きみと出逢えてよかった。

 きみと出逢って、仲よくなって、私の世界はまったく違う色で輝きだした。

 放っとくとどこまでも漂流しかねない私を本気で叱ってくれたね。それでずいぶんケンカもした。ひどい言葉をぶつけあったりもしたけれど、あんな本音で罵るなんて、相手がきみじゃなきゃできなかった。

 きみが好きだ。

 ありがとう。

 さよなら。




  ***




 さて。

 とんだ蛇足になるかもしれないのだが、実はこの下に書き込みがあることは、付け加えておかなければならない。

 かわいらしい文字の、三行だけの書き込みは、怒りにふるえているように僕には見える。




 見つけたよ。

 なにが「ありがとう。さよなら」だ。勝手に私の前から消えるな。

 私も大好き。どこまでも追っかけるから。




 かれらがその後どうなったのか、僕は知らない。

 僕が知っているのは、数年経ったいまでも落書きはまだ校内にいくつか残されていること、そしてこの最後の落書きには、膨大な続きがあることだ。

 蛇足ついでに、いくつか紹介しておこう。



『おれも読んでたよ。面白かった』

『応援してる。がんばれ』

『私もこの物語が好きでした。でもふたりの間には割り込めないかなって。だから感想書くのは遠慮してたんだけど……もう読めなくなるのがさみしい』

『おめーらふたり、いいコンビだよ』

『いつまでも離れないでね』



 ふたりへのエールがまだまだ続くが、きりがないからこのぐらいにしておく。

 落書きの最初の方は同級生からのもののようだが、そのうちかれらを知らない世代らしい子たちからの書き込みに移って、総数としてはその方が多い。いまも落書きはときどき増えている。

 かれらが卒業したあと着任した僕の仕事のひとつは、この落書きが消えないよう守ることだ。



(了)


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