著者・高村芳 『蝉の置土産』

著者・高村芳 さん

作品名:蝉の置土産

作品リンク;https://kakuyomu.jp/works/1177354054935411992

注意:こちらは、高村芳さんが出版されている書籍版『蝉の置土産』に寄稿させて頂いた解説です。書籍版には、今後カクヨム上での公開が予定されていない「後日譚 六年後」がございまして、解説は後日譚までを引き受けて書かせて頂いております。なので、解説の中に、後日譚のあらすじ及び引用がございますので、ネタバレにはご注意ください。


以下、杜松の実が書かせて頂いた解説です。




 初めまして、杜松ねずと申します。こちらは解説となっておりまして、著者・高村芳さんではなく、杜松の実が書かせて頂きます。あくまで、私は一読者でしかないことを留意してお読みいただけると幸いです。

 この物語は、後日譚を除いて、一年にたった七日しか姿を表さないアクセサリー工房の先生の様子を、その弟子の女性・水瀬の視点で綴った日記のような作品と言えると思います。先生は蝉の頭をしています。そして特筆すべきは、毎年あらわれる先生は、姿形は同じであるにも関わらず、別人のようである、ということです。

 高村さんは、蝉を「無常観」を表現するモチーフとして描いている、そんな風に読ませて頂きました。

「無常」とは、辞書(1)によれば

「仏教で生有るものは必ず滅び、何一つとして不変・常住のものは無いということ」

とあります。この作品においては、後者の「不変・常住のものは無いということ」という意味として無常が出てきています。

 さらに、先生は水瀬の工房の先生として尊敬の対象であると同時に、恋慕の対象でもあります。ここで恋慕という言葉は強すぎてしまいますが、そのニュアンスの匙加減は読者の方にも届いているでしょうから、甘えさせて頂きます。

 

「私が尊敬する先生は、私が愛する先生は、一体、どの先生なんだろう。」(六日目)


 尊敬の一念に重きを置くのでしたら、先生の技術をとって、過去・現在のどの先生も押し並べて尊敬している、と答えることはできなくはありません。しかし、ここに前述の恋慕が関わるからこそ、彼女は悩まなくてはならないのです。

 読者の方にも経験があるかもしれないですが、長く連れ添った相方は、そのはじめの印象とは変わり、かつて好きだと思っていた特徴がだんだんと薄れていってしまう。なら今自分は相手のどこをとって好きと言えばいいのか。

 水瀬の場合は、先生の中に思い出さえ残っていません。共通点もあるものの、一人目、二人目、と数えられるくらいには別人に写ります。それでも変わらぬ先生への「思い」があります。これは「無常」と相反しているものです。変わっていく先生を見ながら、それでも不変の「思い」を抱くのです。

 ここが高村さんの、この作品に込めた「哲学」と呼んで差し支えないでしょうか。「哲学」と聞くと、学問としての哲学を想起させ、身構えてしまう読者がいるかもしれません。私は気軽にこの言葉を用いてしまいますが、言い換えるならば、「信念」や「思想」、「考え」それに「ポリシー」などが妥当でしょう。この高村さんの「哲学」を、紐解いていくこととします。


「好きなものは、無理矢理変える必要はないよ」(三日目)


 カブトムシを好きな少女・ミサキちゃんに先生が言った言葉です。引き合いに出されているのは、男子の黒や紺のランドセルをうらやむ水瀬の過去でした。ひと昔前は、そのような自分の「好き」を通すことは認められるものではなく、女の子は当然のように赤いランドセルと決められていました。今では多くのマイノリティに目が向けられるようになりましたね。この価値観の変移も無常の一つです。

 蝉頭の先生は、その存在自体がマイノリティである、として描写されています。フリーマーケットで珍しいと集まるお客さんたちや先生を冷ややかに笑う星野さんがそうです。

 先生は無常の世の中で、「好き」は周りからの圧力に負けて変える必要はないと説きます。むしろ男女や年齢、人種も関係なく、「好きなものは変えられないんだ」と言います。水瀬は、外圧などではなく、先生自身の変化と戦わなくてはなりませんが、その「思い」を変化させることはありませんでした。

 この作品は彼女と先生の会う五年目の夏が主な舞台です。そして五年目には、これまでの四年間と異なる点がいくつかあります。一つは、彼女自身が先生へ恋心を抱いていると自覚したことです。この恋心も強すぎる表現で、敬愛・尊敬の中に含まれながらも、ゆるい色気を持った思いです。そして二つ目は、先生が体調を崩します。消えゆく先生が、よりセンセーショナルなものとして映るだけでなく、水瀬自身が先生のことをかいがいしく様子をうかがっていることが分かります。三つめが、先生の独自の技術で作られた蝉の翅脈のピアスの作り方を教わる、というものです。これは、先生にその腕前を、一人前とまではいかないまでも、認められたということです。

 そして最大の変化が、五年目の夏に手渡した彼女の作った蝉の翅脈のピアスを、六年目の先生が持って現れたことです。はっきりと先生が持っていた、とは書かれていませんが「秋、冬、春。季節は、廻りて。」の、最後のシーン。


「紅茶に入れた砂糖のように、私の不安が二人の間で溶けていく。」(秋、冬、春。季節は、廻りて。)


 この不安は、目の前に立つ先生がこれまでの先生、あるいは去年の先生と同じ先生なのだろうか、というものであり、それが「溶けた」とあります。紅茶は彼女がこだわって茶葉を選ぶと作中にあるように、二人の関係の中でキーとなっている物です。そして、おそらく過去のどの先生にも共通して好きな物だと考えられます。五人目の先生だけは紅茶やブラックコーヒーだけでなくカフェオレも好きなようです。そこで、紅茶の砂糖ではなく、カフェオレのミルクであったら、このシーンはまた違う雰囲気を持つことになったでしょう。それは、五人目はやはり恋慕を自覚した相手として特別だ、となるからです。しかし、ここはすべての先生に通ずる紅茶を選んだ、そんなところも含んだ表現だと思います。


「先生の傷だらけの手のひらから、しゃら、と透き通るような金属音が聞こえた。」(秋、冬、春。季節は、廻りて。)


 ここで先生が取り出したのは、彼女の作った翅脈のピアスであることは間違いないです。しかし、それはその六年目に現われた先生が、五年目の先生と同じ先生であることを意味していませんでした。いえ、同じ先生ではあるのですが、これまでと同じ様に、思い出を共有しない、別人のようにも映る先生だったのです。

「六年後」は、サタンオオカブトを好きだと言っていたミサキちゃんの視点で綴られています。ここでも先生は変わらず、毎年彼女との思い出を持たない別人のように現れます。

 ただ、私には本編のときと「六年後」で、彼女の先生に対する考えが変化したように感じました。本編(とくに「六日目」)において、過去の先生のことを「一人目」や「三人目」として捉え、「同じ」ではない、としている一方で「六年後」では、「毎年違う先生がやってくる」とミサキちゃんの視点で書かれていますが、水瀬のセリフに


「今年はあんまり覚えてないみたい。昨日は材料の場所やら道具の場所やら案内するだけで終わっちゃった」(六年後)


とあります。「覚えてない」は、違う先生が来ている、とは異なると感じました。むしろ、同じ先生ではあるけど覚えていないだけ、と言っているようです。

「六日目」では、「それまでに私とともに過ごした時間の記憶はない。」としています。こちらは一人目、二人目のように、それぞれの先生を別人として捉えているから、知らないという意味で「記憶がない」としている、と捉えることはできないでしょうか。やや強引な議論を展開していることは認めます。「覚えてない」も「記憶がない」も、大きくくくれば意味は同じです。しかし、私には本編と「六年後」では、彼女の先生への捉え方が、少し変わっているように思えるのです。

 変わったきっかけは、六年目の先生が彼女の作った蝉の翅脈のピアスを手に、現れたことです。五年目の先生はこのように言っていました。


「水瀬さんがこのピアスの片方持っておくといい。来年、ここを訪れた“僕”が片方だけ蝉の翅脈のピアスを持っていたら、それは紛れもなく、今きみの目の前にいる僕だ。水瀬さんなら、自分が作ったものかどうかわかるだろう?」(最終日)


 そして先生は、片方だけのピアスを持って現れたのです。記憶がなくとも、同じ先生なのである、と彼女は改めて認識したと考えられないでしょうか。

 それ以前は、見た目や手の傷など、同じ容姿であることから、それに変わらぬ優しさや技術から、同じ先生だ、と考えていたと思います。しかし、共に過ごした記憶はないために、そして微妙に嗜好が異なるために、違う先生とも考えていた。

 このように、ぶれて、相反する思いを抱いていた彼女は、六年目の先生が片方だけのピアスを持って現れたことで、真に同じ先生なのだ、と認識したのではないでしょうか。共に過ごした記憶は忘れてしまっただけで。だから「六年後」で、「覚えてない」と語る彼女には哀しみの影がないのだ、と私は考えます。

 記憶が毎年変化する先生の「無常」さすら、彼女は受け止めて、そばに居るのです。


「蝉は幼虫として地中で七年過ごし、最後の一週間だけ地上を羽ばたき鳴く」とよく聞きますが、ネットで調べてみると日本でよく見られるアブラゼミが地中で過ごすのは四年らしいです。本作において五年目を契機としているのは、こういうところからなのかもしれないですね。

 つまり、四年間を蝉頭の先生の庇護下で励んだ彼女は、その翌年の夏から、いくつかの変化を経験していきます。それは、恋心の自覚であり、翅脈のピアスの製作であり、そして先生の変化を受け入れる、というものでした。

 私は先まで、毎年違う先生に変わる先生こそを「無常」のモチーフとして語り、不変の「思い」を持つ彼女をその対比として据えてきました。しかし、彼女もまた変化する「無常」のものだったのです。そして先生は「不変」でもありました。必ず夏、七日間だけ姿を現す。必ず、先生は毎年変わる。記憶に関しては、多い少ないとムラがあるが、基本的には思い出は共有していない。思い出がない、のならば変化のしようがないでしょう。彼女の思いに気づくことはなく、そして応えることもできません。そして、彼女に対してずっと先生であり続けるのでしょう。


「毎年、先生とアクセサリーをつくるとね、それを喜んでくれる人がいるでしょ? その人たちがアクセサリーを大事にしてくれると、私の先生との思い出もずっと私の中に残ってるの。ミサキちゃんがあのサタンオオカブトを大事にしてくれていると、私はミサキちゃんが初めてこの工房に来てくれた夏の先生を思い出すことができる」(六年後)


 一方で過去だけは「不変」です。さらに、そんな思い出を呼び覚ますものは、思い出に付随する「物」であることも多いでしょう。物は短期的には不変ですが、木彫りのカブトムシの角が欠けてしまったように、物も無常のもの、つまりいつかは壊れてしまいます。しかし、物は大事に扱えば、たとえ壊れてしまっても直すことができ、その不変性を保つ努力はできます。

 この世界は「無常」です。「無常」であることは一見哀しいけれど、哀しいだけでなく、変わることによって得られるものもありました。それは「変わるべき価値観」、「成長による変化」、「気づきによる変化」などです。一方、その「無常」な世界にも決して変わらない不変なものもあります。それは「思い」であったり「好き」であったり、「過去の思い出」がそうでした。それらを不変たらしめるのは、何でしょうか。それらが色褪せないのは、それらを人が大事にするからでしょう。「思い出」は何度も呼び起こされ、「思い」もくり返し思い続けるからこそ、不変なのです。


 ここまで高村さんがこの作品に込めた「哲学」を「無常」という視点からのみ語ってきましたが、もう一点、「無常」とは異なる「哲学」が書かれていると私は思います。


「先生と水瀬さんの関係が、恋人とか師弟などという言葉で言い表せる関係ではないことは、子どもの私にもわかっていた。蝉の翅は翅脈が絡み合って形作られているのに、一匹一匹、一枚一枚同じものはない。まるで毎年移り変わっていく二人の関係性のようだと思った。」(六年後)


 人と人との関係は、ときに明確なレッテルとして表現されます。恋人、師弟、先輩後輩、上司部下、友人、親子、家族、などがそうです。しかし、この作品では、そういったレッテルでは表すことが出来ない関係が、書かれています。二人の関係が異性で「好き」という感情があるのならば、恋人、のような一対一対応のレッテル貼りを私たちはしてしまいがちですが、現実はそうとは限らないでしょう。

 本当に大事なのは、二人の関係をどんなレッテルで名付けるか、ではなく、二人が相手のことをどのように思っているか、です。水瀬は毎年変わってしまう、どの先生のことも「深く敬愛」しており、それだけが「大切」なのです(「六年後」より)。

 ただ、レッテルによって囲われない関係というものは、そのアイデンティティが明瞭でないため、その関係性は強固ではないかもしれないです。夫婦であれば、婚姻関係があり財産を共有しており、そこに子供がいれば教育という共通項があります。そのため、恋人の頃のような若い愛がたとえ枯れたとしても、些細な喧嘩から即破綻することはないでしょう。ほかの上司部下、先輩後輩などの二項関係においても、その関係の定義が明確な分、その定義が破綻するほどこじれなければ、両者の関係が空中分解することはないです。

 では、レッテルのない関係はどのように維持されていくのでしょうか。水瀬と先生の場合、二人には師弟というレッテルも存在しますが、師弟であれば弟子がある程度の技量を獲得すれば独り立ちする、という選択肢があります。しかし、水瀬は十一年間、先生のもとにいます。ここに対して、まだ先生から学ぶものがあるから残っているだけ、という解釈は当たらないでしょう。つまり、二人の関係は、もはや師弟というレッテルに縛られてはいないのです。レッテルのない関係の維持に必要なものは、その関係の根底にある「思い」を胸に抱き続けることだと思いました。水瀬と先生の関係に、水瀬の深い「敬愛」があるように。


 私は『蝉の置土産』から、このような二つの「哲学」を紡ぎ出させて頂きました。「哲学」の込められた本、あるいは読み取れる本、というのは筆者も読者も成長させるものだと考えています。そんな出会いを求めて、人は本と向き合うのでしょう。

 


  二〇二一年 九月

          杜松の実


〔参考文献〕

 1.新明解国語辞典 第七版 「三省堂, 2017」


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