ルサンチマンと向き合うこと

私はこうして大学受験を終えました。上智大学の文学部に合格して。

「おめでとう」。私のことを散々にナメてきていた犬以下の畜生共も、そういって頭を垂れようとしてきました。私はなにせ社会性だけは一丁前ですので、思考を取り繕うことは得意でした。

「ありがとうございます」。私はそれらに笑顔で返答しました。とびきりの笑顔を添えて。






そんな自分の笑顔を写真に写した。吐き気がした。気色悪かった。

私はちっとも喜んでいない。大学受験というマスターベーションを終え、私は果てしない賢者タイムへと陥った。

 今も続く、永遠なる賢者タイム。



私はAなしでは大学受験などしなかった。ジル・ドゥルーズは能動的行為を潔しとした。彼から見たら私は立派な反動的行為の象徴で、学歴マスターベーションに一年以上もふけっていた愚か者である。随分と濃いモノ――高学歴の称号が出てきたが。

 Aに嫉妬し、無能な私自身を嫌悪した。自己嫌悪に自己嫌悪を重ねた。そして生み出したものが、こんなちっぽけな学歴。

 結局、私がほしかったのは学歴じゃなかった。あの女の、Aの関心だった。私は今になって嫉妬の正体を暴いた。

 川越の貧民では人生を2回繰り返しても手に入ることのないような気品や、誰にでも平等に接した陽気さ。私とは真逆だった。そんな真逆の存在を嫌悪しようとし、逆に憧憬していた。

 その鏡の中のルサンチマンを隠して、飲み込んで生きるわけにはいかなかった。変わろうとしても変われない、対極の存在だった。

 屈辱だった。学歴という、ちっぽけなフィールドでAに戦いを挑んだ私が憎い。根本から、私はAに、人間性から負けていたのだ。

鏡の中のルサンチマンに、私は永遠に苛まれながら生きていくのだろう。自分自身の一々の行動をAにと比較し、Aを憧憬し、自身を軽蔑する。

 

 きっと私はこの沼から抜け出しても、第二のAのを見つけては、また同じような自己嫌悪に陥るのだろう。私が比較から自由になることはない。資本主義のもたらす比較主義の赴くまま。


 4月から大学生になる。人生の夏休み等と言われるこの期間を、私は新しい苦悩と新しい隷従をもって迎え入れようとしている。

 否。新しい苦悩と新しい隷従はではない。永遠なる比較と永遠なる自己嫌悪。

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鏡の中のルサンチマン 川越・プリンケプス @makochinko

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