言葉の海に住まうこと
「君たちも、くれぐれも鳥には気をつけたまえよ」ミヤビヤカニは言い、その場を立ち去った。横歩きで遠のく横姿は、何だかとても寂しそうに見えた。
タシカニ、サスガニ、フクヨカニは、しばらく黙り込んで立ち尽くしていた。
「ミヤビヤカニさん、可哀想だったね」
「確かに」
「蟹の一生って、どうしてこうも理不尽なんだろうね」フクヨカニが不意に言った。「蟹だって一生懸命に生きている。それなのに、みんな蟹を襲って食べようとするじゃないか。酷い話さ」
「しかたがないよ」サスガニが諦めたような口調で言った。「この言葉の世界にあって、食物連鎖のピラミッドは不変だからね。どうあっても、その上下関係は変わらない。言葉の世界が、今後どうなったとしても、これだけは絶対に変わらない」
「言いたいことは分かるよ。でも、どうして、そうも強く言い切れるんだ」
「考えてもみろよ。蟹類はどれも副詞でしかない。所詮は形容詞や動詞の飾りにすぎないんだ。それに対して、鳥類はどうだ。ほとんどが名詞だ。主語の位置を占めることは容易だし、それでなくても目的語の位置を占めることができる。副詞である蟹が、主役の座を奪うことなんて、逆立ちしたって無理なのさ」
「蟹類は、どうあがいても食べられる運命ってことか」
「その通りさ。悲しいけれども。この言葉の世界ってやつは、もとから理不尽な構造をしているのさ」
三匹の蟹はすっかりしょげ返ったようになり、溜息をついた。
そのときだった。
いかにも凶悪そうな鮫が、三匹の蟹の前に姿を現したのだ。鮫は、蟹をじろりと睨みつけた。
ああ。やはり蟹は捕食者に食われる運命だったのだ。タシカニ、サスガニ、フクヨカニは目を瞑り、覚悟を決めた。
しかし、いつまで経っても鮫は
鮫は、にいっと陽気な笑顔を浮かべて、こう言ったのである。「どうしたどうした。三匹ともシケた面をして。何があったのかは知らないが、生きてりゃまたいいことあるさ。元気出せよ、兄弟!」
鮫は、
「ありがとうございます、鮫さん」
「いいってことよ」
鮫は、じゃあな、と言ってものすごい速さで泳ぎ去ってしまった。
「いまの、何だったんだろう。不思議な鮫だったな。どうして僕たちを食べなかったんだろう。どうして知り合いでもない僕たちを、あんなにも励ましてくれたんだろう」
蟹たちは、間の抜けたように、蟹股で立ちすくんでいた。いつまでも立ちすくんでいるかに見えた。静寂のなか、いつまでも時が止まっているかのようであった。
そのとき、あっ、とサスガニが大きな声を上げたのである。
「分かったぞ。あの鮫は、ナグサメという鮫だ。しょんぼりしている者を見かけると、慰めずにはいられない鮫だ」
「そうだったのか。どうりで」
「言葉の世界ってやつも、まだまだ捨てたものじゃない。そんな気がしてきたよ」しみじみと、サスガニが言った。
「確かに」
フクヨカニが、タシカニの真似をして頷いた。それがあんまり似ていたので、三匹とも、思わず吹き出してしまった。三匹は、大いに笑った。
「ところで」ひとしきり笑った後、サスガニがふとこんなことを呟いた。「ミヤビヤカニは共食いをしたと言っていたけど、本当に蟹を食べたらどんな味がするんだろうね」
「さあねえ。想像もできないよ」
「じゃ、実際に食べてみて、確かめるか。ほら。君なんか、肉が詰まっているからとっても食べごたえがありそうだ」
そう言いながらサスガニが身体を突っついてきたので、フクヨカニは顔を真っ赤にして抗議した。
「何だよう、僕なんか食べても、きっと美味しくないよう」
「あはは、それもそうだ。君の身体は脂身が多すぎて、食べても全然美味しくないだろうな」
「確かに」
「脂身が多いとか、言うなあ。タシカニも、こんなやつに同意するなよな。僕は脂肪も多いけど、意外と筋肉もあるんだぞ。きっと食べたら美味しいよう」
サスガニは笑った。「どっちなんだよ、フクヨカニ」
「ひどいなあ、サスガニは」
顔をしかめてそう言ったのと同時に、三匹のお腹が一斉にぐうっと鳴ったのをフクヨカニは聞き逃さなかった。
フクヨカニは、ふっと笑みを浮かべた。
「お腹空いちゃったね。ねえ、三匹で、どこか美味しいもの食べに行こうよ」
「それがいい」
「確かに」
三匹の蟹は、再び歩き出した。ここまで数日間、ヤ国を目指して歩き続けてきた彼らは、もう歩き疲れてへとへとになっていたはずだった。しかし、いまや彼らは、以前にも増して力強く歩き始めていた。
言葉の海に住まう蟹 もちかたりお @motikatario
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