ミシェル・ディディエ・ロマン翻訳委員会『ミシェル・ディディエ・ロマン短編集LXXXVII』訳者あとがき「謎めいた短編作家の妖しい世界」
戸松秋茄子
訳者あとがき
謎めいた
偉大なる
没年は一九一四年。志願兵として参加した第一次世界大戦の渦中だったと言われている。国境の戦いと呼ばれる大規模な戦闘でドイツ兵に胸だか頭だかを撃ち抜かれたらしい。
フランス文学界の異端児だった彼について、日本語で記された文献は多くない。通算で八七巻を数えるこのミシェル・ディディエ・ロマン短編集が国内におけるロマン研究の嚆矢であり最先端であることは間違いないだろう。
われわれミシェル・ディディエ・ロマン翻訳委員会は、ロマンの才能に惚れ込んだ在野の研究家にして信州でプロパン業を営んでいた多々良英介氏の元で発足し、多彩な訳者を迎えながら今日までロマン作品の収集と訳出に務めてきた。
趣味でロマン作品を翻訳していた多々良氏が短編集の発刊に向けて本格的に動き出したのは、肝臓癌で余命を宣告されてからのことだった。氏は会社の経営を息子に譲ると(押し付けたという説もあるが)、すぐさまパリ行きの航空券を買ったという。著作権の交渉のためロマンの遺族を探す必要があったからだ。
地元の出版社に事情を話し協力を求めた氏だが、けっきょくロマンの遺族は見つからず、ロマンの著作権が切れる二年前に息を引き取った。氏は、病室で「第一次大戦があと二年早く起こっていれば、ロマンも二年早く死んでただろうに」と繰り返し嘆いたという。真偽は定かではないが、短編集の刊行がそれだけの悲願であったことが窺える。
多々良氏が訳出された作品を集成した短編集一~五巻が同人誌即売会で頒布されるのは、それから四年後のことである。
先日、委員会がネットオークションで落札したロマン短編集のバックナンバーの情報をつなぎ合わせるとそういうことになっているが、誤謬があればお知らせ願いたい。
何代か前の委員長である三木誠二氏の邸宅から出火し、委員会所蔵のバックナンバーが焼失してしまったのは読者諸君の知る通りである。ロマン短編集は好事家によって高値で取引されており、委員会の予算では収集しきれないのだ(先述のバックナンバーは五巻のセットで三八〇〇〇円まで競った)。
とにかく、そんな伝統あるロマン短編集のシリーズに、筆者は今回はじめて携わらせていただいた。ロマニストとしては言わばひよっこである。今後また訳出の機会があるかはわからないが、年季の入ったロマニスト諸氏におかれては、どうかお手柔らかに願いたい。
以下、収録作品の解説である。
「避雷針」
ロマンが戦場に赴く直前に書いたと言われる、言わば最晩年の作品だ。収録作品ではもっとも短い話で、全編がモノローグで構成されている。
体言止めが多用され、ほとんど詩のようにも思え、人を食ったような話が多いとされるロマン作品の中では異色作の部類だろう。
リフレインされる故郷の名(ニース)に、戦場に赴こうとしている男の郷愁が感じられる。
ロマンの新たな一面が窺える、興味深い一作である。
「髑髏を舐める猫はそっとしておくにかぎる」
どうもフランスの諺を元にしたタイトルらしい。あるいは、ロマンの創作だろうか。筆者には意味を判じかねるが、たしかにうちの猫が髑髏を舐めていたらそっとしておくと思う。
ただ作中には髑髏も猫も出てこない。委員会の先輩に「このタイトルしか考えられない作品だよ」と言われ訳に取りかかったのだが、けっきょく最後まで要領を得なかった。ロマン流の高度な洒落なのだろうか。読者諸氏の意見を募りたい。
「うんこ婦人」
難解な作品である。辛うじて意味を読み取れた部分がうまくつながらず、それがどこまで意図的なものなのかで頭を悩ませた。
先輩曰く、当時のフランス政府を痛烈に風刺する内容らしいが、筆者が時代背景に疎いこともあってかそのようなニュアンスは読み取れなかった。
多様な解釈を許す懐深さもロマン作品の魅力であるが、日本語に落とし込むのに大変難儀した作品であり、諸先輩方が敬遠してきたのも頷ける。
「とっておきのレシピ」
この作品には英訳があり、それを元に孫訳する形となった。英文なのでフランス語よりはわかりやすいはずなのだがまるで筋が見えず、筆者の誤読でなければガレット・デ・ロワのレシピにしか見えない。
そういう体裁の小説に前例がないわけではないが、それでもどこかに小説ならではの作り事があるはずだ。しかし、先日、配偶者とこのレシピを試したところ無難においしいガレット・デ・ロワが出来上がってしまった。
原稿を間違えたのではと委員会に連絡したが、間違いなくロマンの作品だと言って譲らない。なるほど「食えない作家」と評されるわけだ、と納得したものだ。
何せ筆者はフランス語がほとんど読めない。もしかしたら、「髑髏を舐める猫はそっとしておくにかぎる」や「うんこ婦人」もこういう内容だったのだろうかと、訳者として自信をくじかれた一作であった。
「エレオノールに捧ぐ~嘘偽りなき愛の告白と五〇の誓い~」
「とっておきのレシピ」ですっかり自信を失っていたので、先輩に頼んで下訳を作ってもらった。それを元に、筆者が決定稿を仕上げたという格好になる。
お互いフランス語など読めないので、先輩の訳も原文からかけ離れた内容だったはずだが、何もわからないだけに自由に訳すことができた。
つまり、先輩の訳も原文も基本的にすべて無視した。筆者が書きたいように書いた内容と言える。その意味では、訳していて一番楽しめた。タイトルは先輩がつけたものの流用なのだが、エレオノールが誰かはわからない。
最後になったが、いまなお熱烈な指示を受けるロマンの訳出に携われたことを光栄に思う。
委員会の先輩方もロマン作品への愛と情熱に溢れた方々で、個人的にも刺激的な経験となった。
正直なところ、筆者はこの話を受けるまでミシェル・ディディエ・ロマンなる作家のことは存じ上げなかったのだが、彼らの熱意に絆されて伝統に連なることになった。
インターネットで検索しても、少なくとも日本語では何ら情報が得られないような、言ってしまえばマイナーな作家であるロマンだが、先輩方は思い思いのロマン像を持ち、それを表現するために研鑽されているのだった。そこでは言語の壁などあってないようなもので、委員会の誰一人としてフランス語ができなくても問題ないのだった。
それが多々良氏の時代からそうだったのかはわからない(繰り返すようにバックナンバーが焼失したので)。氏は本当にロマンの訳出に務めていたのかもしれないし、あるいは、ロマンという作家自体が彼の創作かもしれない。あるいは、多々良氏という存在さえも。
創設期のメンバーや創刊号が残っていないいま、真実を知ることはむずかしい。創刊号はネットでも特に高値がついていて、委員会にもみな生活があり家庭があり趣味があり老後の心配があるのだった。
われわれに残されたのは、多々良氏らが収集したロマンの原文の写しとされるテキストだけである。それが真実ロマンのものかはわからないし、そうだとしても写し間違いも少なからずあるだろう。原文はやはり全部燃えたらしいので真相は藪の中だ。
「正直なところ、古参の先輩たちが適当にフランス語を並べてそれを訳させてるだけなんじゃないかと思う」とある先輩が言っていた。しかし、実際にフランス語を勉強したり詳しい人に訊くのは作品の神秘性を損なうのでしないらしい。筆者もそう言われては倣うしかなかった(なので、先輩の下訳を無視したのは正しかったのだ)。「考えるな。感じろ」が委員会のモットーでもある。
ロマンの訳出は理屈ではない。フィーリングなのだ。
インターネットの小説投稿サイトで細々と作品を発表している筆者に声がかかったのも、言語能力如何ではなく、筆者の作品にロマン的なフィーリングを認められてのことだろう。一方で、「ロマン短編集に新鮮な風を吹かせたい」とある先輩は言っていた。ロマン作品とその読者は懐が深く、鷹揚なのだ。
ロマン短編集はこれまでも多彩な訳者を迎えてきたシリーズだ。中には商業出版で活躍する作家もいる。ロマンの訳出に求められるのが言語力ではなく、独創性でありイマジネーションであることを考えれば不思議なことではない。
とはいえ、イマジネーションとはつかみどころがないもので、訳出の作業は暗闇の中を手探りで進むようだった。先輩方の協力もありなんとか予定通りに脱稿できほっとしている。その日は、配偶者とともにふたたびガレット・デ・ロワを焼いてお祝いしたものだ。
尤も、そのときは訳者あとがきがあることをすっかり忘れていたのだが。
何はともあれ、熱烈なる
【訳者紹介】
アメリカのサスペンス作家マーガレット・ミラーを敬愛するアマチュア文筆家。筆名もミラーに由来する。代表作に「魔法公務員ケミカル☆カフカ」「修学旅行のバスごと異世界転移!なおぼっちの俺は行かなかったので現世に残って病欠したクラス一の美少女を独占する模様」「京都で本当にぶぶ漬けを出されたときの話」などがある。
(ミシェル・ディディエ・ロマン翻訳委員会『ミシェル・ディディエ・ロマン短編集LXXXVII』初出)
ミシェル・ディディエ・ロマン翻訳委員会『ミシェル・ディディエ・ロマン短編集LXXXVII』訳者あとがき「謎めいた短編作家の妖しい世界」 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick
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