美しいってわからせて

柳なつき

ふしぎの国で待ち合わせ

 あなたの狂った話を聞かせて。気持ちのままにそう乞えたらどんなにかよかっただろう。感情があればよかった。だから私は感情を起動した。


 スマホをひらくと、たくさんのアプリが出てくる。

 顔文字のひとつひとつが、対応する感情をあらわしている。

 にっこり笑った顔なら、喜ばしい。目を吊り上げた顔なら、怒ってる。目がうるうるした顔なら、悲しい。口笛を吹いた顔なら、楽しい。ほかにも私は、がっかり、びっくり、困り、はしゃぎ、とか、たくさんたくさんインストールしている。



 今日はあなたと、ふしぎの国で待ち合わせ。

 ふしぎの国の駅前には、赤いたんぽぽ畑が広がる。その向こうには砂漠が広がる。

 冷夏が続いていた。

 赤いたんぽぽ畑のシンボルである、金色の巨大な振り子時計のふもと。暑いようで、涼しいような。来そうで、いつまでも来ない秋に、みんながもだもだしているような。

 私も白いワンピースと麦わら帽子にいい加減うんざりしていた。おばあちゃんとお母さんのセンスは、ぜんぶ嫌いだけれど、夏のこの格好がいちばん嫌だ。

 私を殴りつけて、電気椅子に縛りつけてでも、私のファッションショーを繰り返すおばあちゃんとお母さん。私は彼女たちの人形だ。そのことをよく理解しているから、感情が自分に宿っていなくてよかったといつも思っていた。できるならば、身体の痛みも消してほしかったけれど。



 感情なんて非効率的だ。

 人類がそう気がついてから、それなりの時間が経った。いまでは、感情を身体から切り離してアプリ化しておくのは当たり前のことだ。


 アプリを起動すれば対応した感情が自分のなかに発生してくれる。電流のように。


 感情は非効率だけれど、行動に必要なものでもあるから。正の感情も、負の感情も、自分のなかに起動したときの気持ち悪さを我慢してでも、利用する価値があるのだ。



 指が迷う。なにがいいだろう。

 あなたの狂った話を聞かせてと頼むには、どの感情が適切なんだろう。

 喜ばしい? 楽しい? それとも、はしゃぐ?


 迷う、決まらない――そんなときに肩をポン、と叩かれて、変な声が出た。



「よう、カレン・グレンハート。今日も早いな」

「……ヴィオラくんが遅いんだと思う」


 スマホを手にしたまま、私はセイル・ヴィオラくんを見上げて、抗議するかのように言った。

 あはは、とヴィオラくんは豪快に笑った。大きな声で、目立って、まわりのひとたちは一斉にヴィオラくんを見た。


 私はこのひとの狂った話が好きだ。

 おかしな話ばっかりで、価値がある、って思う。


 彼は、いつもそうだ。どこにいたって、なんだか注目を集めてしまう。学校でもそうだ。でも彼はそのことを気にしていないようだった。むしろ、注目を集めることを意図しているようだった。変なことも言う。たとえば、いまの常識はおかしいだとか。感情は人間自身が感じるべきものだとか。そんなことを平気で主張する。

 そんな彼はまわりから浮いていたけれど。まわりに馴染むことしかできない私からすれば、彼のありかたはとても価値あるものに思えた。だから彼が私に、仲よくなってほしい、と言ってきたときには、その申し出を受けることにしたのだ。



 でも。いつもから彼は変なんだけど――今日はなにか、すこし違うような気がした。

 うまく説明できないけど、強い違和感がある。



「相変わらず元気だな、カレンは。さてま、とりあえず行こうか」


 ヴィオラくんはだぼだぼのパーカーに両手を突っ込んで、歩き出す。私は、もう、とその背中に声をかけながら、でも歩き出した。



 赤い、赤い、赤いたんぽぽ畑。風に吹かれて、そよそよ揺らぐ。たんぽぽが黄色い時代は終わった。いまは、たんぽぽは赤い時代。



「今日は、どこ、行くの」

「そうだな、砂漠に出てみるのなんかどう?」


 身体の中心が、疼いた気がした。私は立ち止まって、スマホを取り出して目を見開いた顔をタップして、びっくり、の感情を起動する。


「えっ、砂漠? 砂漠は危ないよ、やめとこうよ」

「やっぱりさ、カレンだって、そうやって感情的なほうが俺、好きだな」


 もういちど、びっくり、を起動。


「えっ、どういうこと? なにを言ってるの」

「そこはその感情でよかったのかな」


 ヴィオラくんは苦笑した。

 さっきの違和感がもっと強くなった――やっぱり今日のヴィオラくんはちょっと、変だ。


「ちょっと待って」



 私はスマホの上で指を動かす。喜ばしい、怒ってる、悲しい、楽しい。がっかり、びっくり、困り、はしゃぎ。どれがいいんだろう。どれでもいいような気がしたし、どれも違う気がした。


 迷う私のスマホを、ヴィオラくんが唐突に取り上げる。



「返してよ」

「やっぱりさ、こんなふうにアプリで毎回感情を探すのなんて、変だって」

「変じゃないよ。当たり前のことだよ」


 ははっ、とヴィオラくんは笑った――そこで私は大変なことに気づいた。


「ねえ、いま。感情アプリ、起動した?」

「してないよ」

「じゃあ、なんで笑えるの。感情がなければ、笑えないはずだよ」


 ヴィオラくんはなにがおかしいのか、さらに豪快に笑った。感情アプリも、起動していないのに――だとしたらこれは彼の身体に宿る感情だ。危ないことだ。


「あのさ、ちょっと付き合ってほしいところがあるんだよ」

「話は終わってないよ」

「そこでするよ、ちゃんと。それでいいだろ?」


 ヴィオラくんは私にスマホを返すと。

 あとは私の返事も聞かず、駆け出す。

 待ってよ、と私はその背中を追いかけた。




 走って、走って、ヴィオラくんを追いかけて。

 赤いたんぽぽ畑を抜けて、砂漠に来た。

 からからに乾いている。砂ぼこりが舞う。


 振り向けば、赤いたんぽぽ畑とはそんなに離れていない。でも、危ないから来てはいけないはずの砂漠に足を踏み入れてしまったのだ。


 天まで届きそうなガラス張りの窓。

 ヴィオラくんは、拳でそれをコンコンと叩いた。


「ここは谷になってるんだ。谷底を、ちょっと見てみなよ」


 私はガラス越しに、谷底を覗き込んだ。

 川が流れている。


「きれいだよなあ」


 私は、ヴィオラくんの横顔を見た。ふしぎな横顔。どの感情にも、はっきりと分類できない。


「カレンはこの川を見て、どう思う?」

「川だなって思う」

「それだけ? ほかには?」

「大きな川だなって思う」


 ふうん、とヴィオラくんは言った。

 ごうごうと鳴る音と、どこか遠い国みたいな水の匂いは、流れる川のものだろうか。


「あのさ、カレン。さっきの話の続きだけど。俺は、感情アプリを捨てた。というか、スマホごと捨てた」


 私は信じられない気持ちで彼を見上げた。

 困り、の感情アプリを起動する。


「どうしてそんなとんでもないことしちゃったの、生き方が非効率になるよ」

「アプリ化していた感情をぜんぶ自分のなかに戻しただけだぜ。ほんらい自分のものだったのを、自分のなかに戻しただけだ」

「感情が自分のなかにある人生なんて、怖いよ。非効率だよ。それに……感情に振り回されたら、人間は簡単に危険なこともできてしまう」

「でも、いいもんだぜ。感情がいつも自分のなかにあるっていうのは。……自分を大切にするってこういうことなんだと思う。感情がない生き方はたしかに効率的だな。危険行為もしないだろうよ。でもだから自分のことがわからなくなるんだ。カレンはおばあさんとお母さんに虐待されていたって気づけないんだ」

「されてないよ」

「俺がカレンを学校で好きになったのは、カレンには自分のなかに感情が少し、残っているように見えたからだ。感情アプリは、すべての感情が変換できるわけではないらしい。だから少しは宿主である人間のなかに存在しているらしい」

「でも、それはバグだよ。ほんらい、あってはいけないものだよ」


 そうかもな、とやはり彼は――私のわからない感情を宿して、笑った。


「俺、感情を取り戻したから、もう町にはいられない。警察に捕まってしまうからな。だから、実は。これから砂漠を越えて、感情のある国に向かおうと思うんだ。でも。その前に、カレンにだけは会っておきたかったんだ。……この川の景色を見せたかった」


 彼は、谷底を見下ろした。

 私も、見下ろした。

 なにも感じない。感情アプリを起動させていないのだから。なのに。なのに。……なんだかむずむずするのは、きっとヴィオラくんが、変なことばっかり言うから。



 どのくらいのあいだ私たちは隣にいて黙り続けていたのだろう。

 ごうごうと川は流れ続ける。

 この水の匂いは――ほんとうに、遠い国につながっているのかもしれない。



「それじゃ。俺、行くから。俺のわがままに付き合ってくれて、ありがとう。感情を取り戻せとは言えないけどさ、やっぱり、……自分を、大切にしてな」

「あのさ、ヴィオラくん」


 私は気がついたら、両手の拳をぎゅっと握りしめていた。

 歩き出そうとしたヴィオラくんは、――たぶん驚きかそれに似た感情で、私を見た。


「感情アプリではない感情があると、この川のことがなにかわかるのかな。あなたとおんなじものを、見ることができるのかな」


 これから、私がお人形でしかないあの家に帰ることを思った。

 ヴィオラくんがいなくなったあの町で、私が生きることは、たぶんいままで通りに価値のないことなんだ。



 私はスマホを取り出した。インストールした、たくさんたくさんの感情アプリ。



「試すだけ、試してみたい。アンインストールって、できるの」



 ヴィオラくんにスマホを渡した。

 いいの、と彼は言った。いいよ、と私は言った。

 愚かなことをしているのは、わかっていた。どうしてこんなことをしてしまうのかは、よくわからなかった。


 ヴィオラくんは、やっぱり。

 私のわからない感情を見せて、笑った。眩しくて、良い笑顔だった。


 私は、目をつぶった。これで彼の狂った話がもっと聞けるのかな。そうだといいな、と思った。

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