18

ほかほかと頬を蒸気させてお風呂上がりのリッカはほてほてと廊下を歩いていた。

 湯冷ましをして、セルフィルトの寝室に行く前に自分の部屋へと向かっているのだ。

 狭い範囲の中でなら、もうジュアーの案内がなくても道は覚えられた。

 カチャリと自室の扉の取っ手を回して開けて中に入ったところで、ギクリとリッカは足を止めた。

 バタンと手を離したことで、背中で扉が重厚な音を立てて閉まる音が響く。

「あ……」

 小さく声を出すと、室内にいたルクルが振り返った。

「……ッチ」

 勉強机の傍らに立っていたルクルは盛大な舌打ちをして顔を歪めた。

 びくりと肩が震えるけれど、それでも勇気を振り絞ってリッカはおそるおそるメイドを見上げた。

「そ、それ」

 怯えながらもリッカの指差したルクルの手の中には、セルフィルトに買ってもらった藍色の万年筆が握られている。

 リッカの言葉に、ルクルは見つかったことに舌は打ったが余裕の表情で万年筆を持つ手を小さく振った。

 大事に大事にしているそれが無遠慮に扱われて、リッカは冷や冷やと気が気でなく目で追っている。

「字も知らないガキには必要ないんだよ」

 ハンッと馬鹿にしたように一笑すると、ルクルはあろうことかその万年筆をエプロンのポケットへと突っ込もうとした。

「そ、それは、だめ!」

 反射的に腕に飛びついたリッカに驚いて、ルクルはそれを振り払った。

 ブンと大きく振り解かれてしまい、リッカの軽い体はあっけなく傍にあった勉強机へとぶつかった。

 その振動で、リッカの手が届くように端に置かれていた飴の入ったガラス瓶が床に落下する。

 ガシャンと絨毯の上でも大きな音を立ててあっけなくそれは割れてしまい、中に入っていた赤い飴玉がコロコロと四方八方に散らばった。

「あ……あ、あ」

 砕け散ったそれを見下ろしたリッカの顔は真っ青だった。

 セルフィルトに貰ったものを二度も駄目にしてしまった。

 まして今回はひとつも飴を口にしていない。

 じわじわと灰褐色の瞳の表面に水分が溜まっていく。

「何の音だ」

 ガラスの割れる音を聞きつけて、セルフィルトとタグヤが扉をガチャリと開けて入ってきた。

 振り返ったリッカが何か言うよりも先に、ルクルが早口にまくし立てる。

「この子が寝る前にお菓子を食べようとしたので叱ったら、それを落としてしまったんです」

「え、あ」

 砕け散ったガラスを指差したルクルに、そうよねと言うように目線を向けられてしまい。

「ご、ごめ、ごめんな、さい……」

 食べようとしたわけではないけれど、ここで何か言えば叱られるかもしれない。

 リッカは長年の経験から小さく謝った。

 それを見たルクルが得意気に口角を上げるのを無視して、セルフィルトはリッカの頭にぽんと手を置いた。

 さらりと茶色い髪が流れる。

「リッカのだから、いつ食べてもいい」

「……え?」

 セルフィルトの落ち着いた声音に、リッカはきょとんと目を丸くした。

 おずおずと上目にセルフィルトを見やれば、口元に苦笑を浮かべている。

「まあ、腹が痛くなったら困るから、夜はやめとけ」

 そう言うと、タグヤにガラスを片付けるように指示を出す。

 ルクルが苦々しくぴくりと片目を震わせたことに、セルフィルトが彼女をひたりと見据えた。

「ところでお前のエプロンのポケットに入っている万年筆は、リッカのものじゃないか?」

 びくりと大げさにルクルの肩が跳ねた。

 ガラスの片付けを扉の外へと指示を出したタグヤが、落ち着いた所作でルクルに歩み寄る。

 後ずさりしたルクルに有無を言わさずポケットへと手を伸ばすと、その手には藍色の万年筆が握られていた。

 サッとルクルの顔色から血の色がなくなるが。

「これはくれると言うので、仕方なくいただいた物です」

 噓八百だ。

「本当?」

 けれどそう声に出して言えば怒られると思い、セルフィルトに尋ねられてもリッカは唇をきゅっと噛んで俯いた。

 ぎゅうと寝間着の上衣の裾を握りしめる。

「本当です!」

 ルクルが叫ぶように声を上げたけれど。

「黙ってろ」

 チラリと底冷えする声と眼差しを向けられて、ルクルは頬を引きつらせて青ざめた。

 タグヤがルクルの手から万年筆を取り上げてセルフィルトへと差し出すと、彼はそれを受け取りリッカと名前を読んだ。

「何を言っても俺はお前を怒らないし殴らないよ」

 柔らかに言い切ったセルフィルトだ。

 リッカはきょどきょどとセルフィルトの顔と自分のつま先を交互に見て、手が白くなるほど服を握りしめた。

「……ち、ちが、ちがう、よ」

「これ、大事にしてるってトールラントから聞いてる」

 小さく呟いたリッカを褒めるようにセルフィルトはその小さな頭ごと髪をわしわしと雑に撫で、万年筆を差し出した。

 セルフィルトの手が離れるとおそるおそる顔を上げて、小さな両手でゆっくりと服から手を離して万年筆を受け取る。

 自分の手元に戻ってきたそのツルリとした感触。

 嬉しくて、リッカはわずかに頬を紅潮させた。

「待ってください!その子供を信じるつもりですか」

 ヒステリックな女の声が上がった。

 糸のように細い目が精一杯に見開かれている。

「お前の部屋からリッカのカフスや留め石が出てきた」

「なっ!」

 声を詰まらせたルクルにセルフィルトは容赦なく冷めた一瞥を向けた。

「気づかなかったようだけど、リッカの身に着けるものはキッケルが来るたびにチェックしてる」

「な、なんで私だと……何かの間違いです」

 ぎこちなく口を震わせて笑って見せるルクルだが。

「うちには情報収集に長けた者が何人いると思ってる。それに、リッカに暴力を振るったな」

 ひゅっとセルフィルトの言葉に喉を鳴らした。

 ギッとルクルがリッカの方を睨みつけると、びくっと首をすくめてセルフィルトの後ろへと隠れてしまう。

 人に歯向かうなんてことをしたのは初めてなので、リッカは怖くてふるふると震えた。

 それでも万年筆は大事で、大切だから取られたくなかったのだ。

 両手で万年筆を握りしめるリッカを肩越しに見やってから、タグヤへと視線を移動させた。

 有能な執事は主人の意図の通りにルクルを後ろ手に拘束した。

 痛いとルクルがわめいて身じろぐが、その手をタグヤが緩めることはない。

「庭師から報告が上がっている。あれは実直で信頼できる奴だからな」

 セルフィルトが淡々と告げると、ルクルは違う、騙されていると金切り声で無実を訴える。

 キンキンと響く声に煩わし気にセルフィルトは右耳をわざとらしく塞いだ。

「遠戚に懇願されたから雇ってやったんだがな。まあいい、出て行け。今日限りでクビだ」

「給金は今日付けの時給換算で支払いさせていただきます」

 言い放ったセルフィルトと後に続いたタグヤにの言葉に、真っ青だったルクルの顔に今度はカッと血が上った。

「気まぐれに拾ったガキなんかを私より取ると言うの!?」

 怒りにツバを飛ばしながら怒鳴るルクルに、セルフィルトはひょいと左手の人差し指を動かした。

 途端、バシャンと音がしてルクルの顔面に水が浴びせられた。

 強制的に口を閉じさせたセルフィルトが、くいと顎で扉を示す。

「少なくとも俺はリッカを気に入ってる。追い出せ」

「承知しました」

「待って!私にこんな扱いをしていいと思ってるの」

 顔中を口にしてわめき続けるルクルだったが、タグヤがさっさと扉の外へと連れて行ってしまう。

 パタンと二人が出て行ったことに、やれやれと肩をすくめるとセルフィルトはリッカと名前を読んだ。

 怖くて足にしがみついていたリッカがそろそろとセルフィルトから離れた。

 何を言われるだろうと少しびくついたけれど、セルフィルトは怒鳴らないし殴らないと言った。

 セルフィルトのことは信じられるので、きゅっと口を引き結んで次の言葉を待つ。

「あいつにされたこと、何で言わなかった?」

「い、言っちゃだ、だめって」

 正直に言うと、セルフィルトは眉根を寄せた。

 やっぱり怒らせたのかとリッカは慌ててさらに口を開いた。

「し、しごとして、な、ない、し、ぐ、ぐずだ、し」

 えっとえっとと指を折っていると。

「ひょあっ」

 ぐんと視線が上がった。

 セルフィルトが両手でリッカを抱き上げたのだ。

 そしてむーっと半眼のままのセルフィルトに見つめられて、居心地悪くもぞもぞと動くと、ますます腕の力が強くなる。

「あ、あの」

「まったく……いいかリッカ、確かに最初は気まぐれだったけど今はリッカが傍にいるのは当たり前だ。リッカはたくさん食べて遊んで勉強してたらそれでいいわけ」

「そ、それで、いいの?」

「いい」

 セルフィルトが断言すると、リッカの頬はじわじわと林檎のように紅潮してその瞳に喜色を浮かべた。

「ぼ、ぼく、だんな、さま、大好き!ぎゃん!」

 言った瞬間ぼてりとリッカはセルフィルトから落とされた。

 絨毯の上に尻餅をついて、涙目でセルフィルトを見上げるとビー玉のような目を見張って固まっている。

「リッカ君、歯磨きをして寝ましょう。もう夜も遅い」

「う、うん」

 戻ってきたタグヤにリッカは不思議そうにセルフィルトを見上げたけれど、執事に促されぱたぱたと部屋を出て行った。

「旦那様?」

 まぬけな顔で立ち尽くしている主人にタグヤが声をかけると、呆けたような声が返ってきた。

「リッカって、凄く可愛かったんだな……」

 思わずといった声音に。

「何を言っているんですか、いまさら」

 呆れた声音でタグヤが肩をすくめると、セルフィルトは先ほどの砂糖菓子のような蕩けた顔で笑うリッカを想い返す。

 じわじわと口元が緩むのを押さえるように手のひらで隠すと。

「大好き、ね。悪くない」

 藍色の瞳をしんなりと細めた。





 end

 こちらで奴隷の子共は愛される第一部は完結になります。

 続編の第二部や番外編はpixivFanboxにての更新になります。

 今までありがとうございました。

 Fanboxだけでなくpixivの方にもBL作品を置いているので興味のある方はツイッターで更新情報を見ていただければと思います。

 

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捨てられ子供は愛される【BL】 やらぎはら響 @yaragi

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