残酷なわすれもの

長月そら葉

きみはわたしの大切なひと

 ―――ばたん

「ただいまー」

 蒼井一颯あおいかずさが玄関のドアを開けると、母親がいそいそと出迎えた。今日の晩御飯はカレーライスなのか、良い香りが漂って来る。

「おかえり、一颯ちゃん。お風呂、沸いてるわよ」

「ん。ありがとう」

 自分の部屋に荷物とジャケットを置いて、一颯は風呂場に向かった。シャツを脱ぎ、温かいお湯を被る。

「……疲れたな」

 ぼそり、と呟いて思い出すのは仕事のことだ。ちゃぷんと水を弾いた指で、くうをなぞる。


 一颯は社会人二年目となる。食品関係の商社に勤め、毎日くたくたになるまで走り回って来た。上司の無茶ぶりに応え、同僚と冗談を言い合いながら、毎日を過ごしている。

 今日は、先輩と取引先に新たな商品の商談へと向かった。初めて訪れる会社ではなかったが、相手の社員は初対面の男性だった。

 彼はその強面こわもてに似合わず繊細なお菓子を作ることで有名な人で、一颯の会社の商品を信頼して使ってくれているらしい。一颯も勉強になるからと同席させられたが、彼のお菓子への思いに触れ、感動さえ覚えた。

「明日は、あれとあれを片付けて……。そろそろ上がろうか」

 思わず家でも仕事のことを考えそうになり、一颯はおけで湯を一杯浴びて風呂を出た。帰ってからも仕事のことを考えたくはない。家は家、仕事は仕事だ。


 それから母とカレーライスを食べ、軽く雑談して部屋に戻る。

 すると父が仕事から帰宅した音がした。すぐに、一颯の部屋の戸が叩かれる。

「一颯ちゃん、お父さん」

「一颯、帰ったぞ」

「ああ、お帰りなさい。お父さん」

 一颯の父は、総合商社に勤める営業マンだ。あと五年ほどで定年退職をするらしいが、本人はまだまだ仕事をし足りないと息巻いている。

 普段は母に甘い、穏やかな父だ。


 両親との挨拶を済ませれば、あとは数は一人の時間。

 明日必要なものと要らないものとを交換し、鞄を閉じる。その時、黄緑のカバーに覆われたスマートフォンが目に入った。

「……? 誰だろ」

 着信を告げるライトが点滅している。一颯がスマホを開くと、大学時代の友人からのメッセージだった。

「『こんな店見つけたよ』か。美味しそうなパンケーキ。……よしっと」

 彼女には「休みを合わせて一緒に行こう!」と返信する。

 すぐにうさぎのキャラクターのスタンプが送られてきた。うさぎが右手を挙げて「了解!」と言っている。

 それにこちらからも「楽しみです♪」と言う犬のスタンプを送り返し、アプリを閉じた。スマホを手に持ったまま、一颯はベッドに腰掛ける。


「……あ、今日誕生日だったな」

 スマホの画面には、日付と時間が表示されている。その日付は、幼い頃仲が良かった少年の誕生日だった。ゴールデンウイーク前の、春らしい穏やかな日。

「元気、かな」

 チリッと胸が痛む。それは、とっくの昔に置いて来なければならなかった想いの残り物だ。

 一颯はスマホを傍らに置き、ぼすんと仰向けに寝転がって目を閉じた。


 彼―稲築理玖いなつきりく―と出逢ったのは、小学生の時のことだ。

 理玖がクラスに転校生としてやって来て、すぐに仲良くなった。きっかけは、当時流行っていたアニメが好きだという共通の話題があったからだったと記憶している。

 理玖は頭がよく、休み時間には小説を読んでいるような男の子だった。ただそれでも話すことや体を動かすことが嫌いなわけではなく、クラスメイトとも良好な関係を築いていた。

 他の友だちも交えて昼休みにドッジボールをしたり、放課後遊んだり、時には勉強を教え合ったりもした。

 そんな関係は中学、高校と進んでも続き、いつしか淡い想いを抱くようになるのは自然の成り行きだったのかもしれない。

 クラスでは特に仲の良かった一颯と理玖がはやされるのは日常のことで、誰も彼もがただ面白がっていただけだった。それをわかっていたから、一颯も胸に痛みを覚えながらも冗談として返していた。


 理玖はどちらかというと寡黙になり、一颯は明るく社交的な性格に育った。

 違う性格をしているからこそ、お互いの隣が落ち着くと思えた。しかしそれは、一颯だけが思っていたことだったのかもしれないが。

 高校受験を控えるようになっても、一颯と理玖の関係は変わらなかった。ずっと、親友のまま。

 それぞれの志望大学が違うと知っても、理玖は変わらず一颯に接した。まさか、一颯が寂しさに圧し潰されそうになっていたとは、思いもしなかっただろう。


 理玖が第一志望に合格したとメッセージを受け取って知った時、奇しくも一颯も合格発表を目の前にしていた。

 同じ大学を受けたクラスメイトと共に見に行き、互いの受験番号を見付けて喜び合った。その友人と別れた後、一颯がまず電話したのは理玖だった。

『……はい』

「もしもし、理玖?」

 理玖はこの数年で、一気に大人らしい低い声色をものにしていた。対する一颯の声は、まだ幼さが抜けきらない。

「あのね、合格したよ」

『そっか。よかったな、おめでとう』

「うん! 理玖も、受かったよね。おめでとう」

『さんきゅ……。ふふっ。お前、はしゃぎ過ぎだろ』

「仕方ないでしょ? 嬉しいんだもん」

 一颯の弾む声に、理玖は笑いながら応じる。

 そんなやり取りをしていたが、一颯はふと無言になった。

「……」

『おい、一颯? どうし……』

「理玖、東京に行っちゃうんだよね」

『……ああ、そうだな』

「卒業したら、就職も向こう?」

『かも、しれないな』

 歯切れの悪い、理玖の返答。それは、電話越しでも一颯が泣いているのがわかったからだろうか。少しくらい、自分と離れることを寂しく思ってくれているのだろうか。

 一颯は道端から近くにあった公園のベンチに移動し、きゅっと手を握り締める。

「……もう、会えない?」

『正直、わからない。仲が良くても連絡先を知ってても、社会に出れば疎遠になることはよくある話だからな』

 あくまで淡々とした理玖の物言いは、一颯を刺激しないためのものだろう。少し声が震えているのも、きっと気のせいだ。

 わかっていたことだ。きっとこの大学進学を機に、理玖と一颯の距離は一気に遠くなると。そのタイムリミットは、確かに近付いているのだと。

「……ねえ、理玖」

 一颯は意を決し、声を出した。『何だ?』という返事が返って来る。

「もしも、大学に行って、卒業して、就職して。……まだ、わたしのことを覚えてたら、連絡くれる?」

『どうした、いきなり? 今生に別れなんてものにはならな……』

「お願い! わたし、精一杯やるから。何処に就職するかも、何処に住むかもわかんないけど、理玖に恥じないように頑張るから」

『……』

「お願い、だよ。……理玖に恋人がいても奥さんがいても、それでもいいから」

『突拍子もないな、お前』

 電話の向こう側で笑い声を上げ、理玖は『わかった』と言った。

『仕事に就いて、お前を思い出したら必ず連絡する。それでいいか?』

「ありがと、理玖」

 これで、自分は頑張れる。果されるかも不透明な約束だが、一颯にはそれで充分だと思えた。

『ああ。……じゃあ、また学校でな』

「うん。またね」


 それから、高校を卒業した。式の後二人で話す機会はあったが、それは約束の確認だけで終わった。

 想いを告げることもなく、一颯の日々は学業とアルバイトに忙殺され、隣県の会社に就職後は仕事で他のことを考える余裕などなかった。

 一颯は目を開け、スマホの電源を入れる。そして、メールアプリを開いた。

 その画面の下には、保存フォルダがある。一颯はそのアイコンをタップした。

「……理玖」

 たった一通のメールが保存されている。

 大学の入学式の朝、ぽつんと受信したものだった。




 一颯、元気か? 大学入学、お互いおめでとう。

 俺も無事、東京で入学式を迎えるよ。一颯もそうだろ?

 俺は、きっとこっちで就職すると思う。地元には帰らないだろうな。

 だけど、お前との約束はきっと守る。

 まだ言えてないこともあるし、必ず伝えるから。

 それまで、待っててくれ。




 たったそれだけのメッセージを、未だに残している自分に笑いがこみ上げるようだ。だが、同時にまだ期待している空しさもある。

 理玖が一颯に「言えてないこと」とは何なのか。それは、一颯と同じ言葉なのか。いつまで待てば良いのか。

 待ち続けることが苦しくて、何度も忘れて他の恋をしようと思った。チャンスもないわけではなかった。それなのに、踏み出せなかった。

 どうしても、約束が脳裏をよぎる。

「ふふっ。わたしも、バカだよね。いい加減にすればいいのにさ」

 スマホの画面を閉じ、嘆息する。諦めの悪さに出るため息は仕方がない。自分でも馬鹿だと自覚しているのだから、なおのこと始末が悪い。


 ふと目に入ったのは、置時計。時刻はそろそろ寝なければいけない時刻をとうに過ぎていた。

「いけない。寝ないと……」

 一颯は照明を消し、ベッドに入った。そして、目を閉じる。

 ――ピコンッ

「え?」

 スマホが着信を告げた。

 まさか、職場の同僚からのメールだろうか。それとも、友人か。

 明るい画面に目を凝らし、アプリを開く。

「……え」

 一颯は目を見開き、硬直した。そして、視界がにじむのを自覚する。心臓がドクンと跳ねた。



 ―――約束、守ったぞ。



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