触れる

石濱ウミ

・・・




 校舎の三階にある生物室の、並ぶ窓の端から端までは、ちょうど真上から満開の桜並木を見下ろすことが出来た。

 柔らかな風で微かに揺れる樹々のその眺めは薄く色づいた雲を真近にしているようで、長く見ていると不思議な浮遊感がある。


 この高校に植えられたこれらの桜木の花の見頃が、卒業式と入学式の間であることを知ったのは二年生に進級する春休みだった。

 卒業式の時の桜は、まだ蕾が目立ち、入学式の時には、どんなに遅くても、すでに散り始めてしまっているから、いちばん美しい状態を見ることが出来るのは誰かといえば、春休みの間も学校に顔を出す物好きな在校生と先生たち、と残念ながら半ば当然のように決められてしまう。

 

 かぐわしい匂いが、する。

 だがそれは、桜ではない。

 花なんてまだ、咲いてはいないのだから。


 生物室と隣接する生物準備室は、生物顧問専用の個室を兼ねていた。

 先ほどからの芳しい香りは、その準備室から生物室にまで漂ってくるコーヒーのせいである。

 冷えた身体に温かい飲み物が欲しかった。

 生徒ホールの自販機にあるのはストロー付き紙パックの飲み物だけだったが、そこにも温かい飲み物はあるには、ある。

 ただ、その温かい液体をストローで吸い上げると、プラスチックの味を強烈に感じるので苦手だった。

 生徒の要望もあり生徒会が掛け合って、普通にあるペットボトルや缶の入っている自販機の導入を学校側に求めているもののなかなか実現しないのである。


 下心のある顔を出そうかと、準備室の扉にちらっと視線を送った時だった。


「またー? こんなとこに居たの?」


 突然の、その声に振り返ると、腰に手を当てたミサキが可愛らしい顰めっ面をつくって、わたしを見ている。


「探したよー。ま、ここだとは思ったけど」


「ごめん、ごめん。桜、まだ咲かないなーと、思って」

 わたしは何となく笑いながら、ミサキに言い訳めいた言葉で応えた。

 

「咲くわけないじゃん。まだ二月だよ? にしても、もうあと少しで三年かぁ。うわぁ〜やんなる」


 ミサキはそう言いながら近寄って来て隣に並ぶと、大きく開け放した窓から身を乗り出すようにして下を見た。


「さっぶ。クッソ寒いから」


 灰色の寒々しい空の下に、裸の木が冷たい風に吹かれている。

 ミサキは断りなく勝手に窓を閉めると、ブレザーの両袖口から覗くセーターに隠れた細い指先を冷えた両頬に当て目を細めた後、何かに気づいたように、にんまりと笑う。


「あー。コーヒーの匂いする。もう教室、誰もいないし、隣に行って田中先生にご馳走してもらおうよ」


「ビーカーに入ってるの、嫌なんだよね」

 何人かで何度かご馳走して貰ったが、迷惑そうな顔をして、決まってビーカーに入れられる。三角フラスコや試験管じゃないだけマシだろ、と言うが、ビーカーは熱くて持ちづらいから三角フラスコの方がまだ、飲みやすいような気がする。


「あ、大丈夫、大丈夫。あたし紙コップ置かせて貰ってある」


 無邪気に笑うミサキのその言葉に、思わず嫉妬してしまう。それは見事なまでに顔に出てしまったようで、ミサキが慌てて両手を顔の前で振った。


「違う、違うって。あたしは、トノの味方じゃん。ホラ、あたしに彼氏いるの知ってるから田中先生は。狙ってないの知ってるし、だから気を許してるって言うか……ね? なんとも思われてないって言うか……」


 隣の部屋に聞こえないように、小さな声で弁明するミサキの白い肌が、ほんのりと赤く染まっている。


「や、ゴメン。深い意味は無いんだ。だけど田中先生がミサキには心を許しているって思ったら、つい……」


「いやいやいや、好きなんだもん仕方ないよ。ちょっとしたことも、気になっちゃうの分かるから。あたしの方こそ、何かゴメン」


 田中先生が新卒でこの高校の教師として職員紹介の挨拶をした去年の四月。その時の体育館の女子生徒の黄色い悲鳴は、実際、凄まじいものがあった。

 くれぐれも間違いなど起こさぬよう厳重注意があったのは間髪入れず、その後すぐの校長挨拶だったのは、あまりに早すぎると言えばそうかもしれないが仕方ない。

 だが何しろ浮き足立つ女生徒を目の前にすれば、実際には有り得ないとは分かっていても、その場で生徒と田中先生に釘をさしたくなる校長先生の気持ちも分かるが、いくら歳が近くて顔が良くても、先生に本気で恋をする愚かな女生徒が、この打算的な人間ばかりの進学校にいるわけないのだ。

 わたし以外には。多分、きっと。

 だからといって田中先生に纏わりつく女生徒がいないわけではなかった。

 しかしその行動は、本気でもなければ間違いが起こらないと分かった上での計算からくるため、辟易した顔の先生に冷たくされても気にしないのだ。

 わたしには、出来ない。

 放課後、自学教室として開放される生物室から隣の部屋を垣間見る。気持ちを気取られないように準備室には時々顔を出すだけ。

 なぜなら本気で拒否られると分かっているのに、知らずそれを曝け出してしまうのは耐えられないから。


 


「おっ。ミサキ殿山トノヤマ、まだ居たのか? 早く帰れよ」

 こっそりと覗き込むように、準備室の扉から顔を出したわたし達に気づいた田中先生が眉を顰めた。


「あたしだって早く帰りたいですよ。しょーもない彼氏の部活終わるの待ってんの」


「しょーもないのは彼氏か? 部活か?」


「うっさい。先生は現国じゃなくて生物でしょ?」


 そう言って口を尖らすミサキに向ける田中先生の笑顔は、わたし達より七つも歳上だということを感じさせない。

 実験器具の仕舞ってある戸棚から隠してあった紙コップを取り出すミサキを見て、わたしには知らないところで二人が仲良く同じコーヒーを飲んでいる姿が浮かんでは消える。


「いただきます」

 田中先生の私物のコーヒーメーカーから勝手に頂戴したその熱い飲み物の入った紙コップに、そっと唇をつけた。

 さりげなく盗み見る。白衣の背中を、キーボードを打つ節の目立つ長い指を、ピアスの穴がある耳朶を。


「……ねぇ、先生。好きな人に触りたいって思うのは、何でだろうね?」


 わたしの心を覗いたようなミサキの言葉に、どきりと心臓が跳ねた。


「んー?」


「最初はさ、顔が見られるだけで満足出来て。目が合うようになったら笑いかけて欲しくなって。そのうち触ってみたくなるし、触られたいと思うのは、何で? そのあとには何が残るんだろう?」


 ミサキの言葉は、わたしの胸をえぐる。白衣の背中を向けたままの先生に、顔を見られていなくて良かった。

 わたしは多分、先生に触れたくて泣きそうな顔をしているだろうから。


「……じゃあ、試してみたら? そのしょーもない彼氏がいるだろ」


 少しの間キーを打つ手を止め、振り返ることなく画面を睨みながらそう答えて、また指を動かし始める。


「先生でしょ? 教えてよ」


 パイプ椅子に座り脚をぶらぶらと動かしながら飲み終えたカップを前歯で挟んだミサキの、くぐもった声。

 しばらくの間、部屋には先生の指が打つキーの音と、微かな電子音だけが耳に響く。


「……些細なことで満たされていた筈の自分だったのに、触れ合った途端、どんだけ欲にまみれてんのかってくらいの汚い自分に気がつく」


 田中先生は、そう答えて強くエンターキーを押した。


「ミサキ、そこにあるスマホ取って」


 顔を背けたまま腕だけを伸ばした先生の、綺麗な長い指が示す先にあるスマホをミサキが取って手渡す。

 その一瞬。

 下を向いていたわたしの目の前で、先生の指が、触れるか触れないかのところにあったミサキの白い指を微かにそっと、撫ぜた。






《了》

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