いつもそばに

花岡 柊

いつもそばに

 心機一転、新しい部屋に引っ越すことにした。それは、例えば新しい仕事に変わったからとか、彼と別れてしまったからなどではなく。単に、部屋の更新時期が来たというだけのこと。


 引越し業者が用意してくれた段ボール箱を組み立て、洋服や食器。書籍や雑多な物も詰め込んでいく。


 この部屋には、四年住んでいた。ここに住み始めた当初、それまで三年付き合っていた元彼の陽斗はるとと別れてしまっていた。二人で過ごした少なくはない思い出の残る部屋だから、住み続けることは辛かった。けれど、引っ越したばかりで、また部屋を替える金銭的余裕はなく。おかげでしばらくの間、思い出しては切なさに涙を流し続けていた。


 クローゼットの奥に押し込んでいた、ストレージボックスを引っ張り出す。アイボリー地に英字が書かれた四十センチほどのシンプルな箱だ。その蓋を開けると、今でも切なさに胸がキュッとなる。


 中に収まっているのは、四年前まで付き合っていた陽斗との思い出の品々だ。

 女性の恋は上書きだ、なんてよく言うけれど。私は、ズルズルとまではいかないにしても、ちょっと引きずるタイプだった。好きだった彼の思い出の品を未練なくバッサリと捨て去ることができず、こうやってストレージボックスの中にひっそりと収め、クローゼットの奥に仕舞い込んでいた。


 一番上に乗っていたのは、デートした時に撮ったたくさんの写真だった。どれもが仲睦まじく、笑顔で寄り添っているものばかりだ。

 その下には、CD。このアーティストが好きなんだ。そう言って陽斗がくれたものだ。

 陽斗がこの部屋を訪れた時に使っていた、お揃いのグラスとマグカップも入っている。

 どれも懐かしく、思い出の詰まったものばかりだ。


 あ、これは……。


 別れてしまう一年ほど前のことだ。陽斗は、イギリスへと出張に行っていた。滞在中は仕事に追われ自由な時間がなく、土産を買えなかったと申し訳なさそうにしていた。代わりにと言うように、財布の中から取り出して私へくれたのはイギリスの五十ペンス硬貨だった。表には、もちろんエリザベス女王。けれど、裏には限定発行していたピーターラビットが刻まれていた。偶然にも釣り銭に紛れていたレアな五十ペンス硬貨を、のちに陽斗は「いつも翠のそばにいたいから」と硬貨に傷をつけないようにペンダント加工してくれたのだ。


「懐かしいな」


 これをもらった時は、可愛らしくて本当に嬉しかったな。陽斗が前から抱きつくようにして、ペンダントを付けてくれたんだよね。


「うん。よく似合ってる」


 そう言ったあの時の笑顔は、今でも忘れられない。

 それからほんの一年足らずで、私たちは別れてしまった。理由は、ほんの些細な言い合いからだった。お互いに仕事が忙しく、かみ合わない時間にイラつき、少しずつ綻びができていった。どちらも頑固で譲り合わないものだから、その綻びが修復されることはなく広がっていき。何を言っても何をしても、お互いに優しさや思いやりを欠いていた。そして、最終的には別れることになってしまった。


 風の噂に、陽斗が亡くなったと聞いたのは一年ほど前だった。陽斗の同級生の、友達の友達だったかな。よく分からない繋がりから話が広がり、陽斗の訃報は私の耳にも届いた。

 葬儀がいつどこで行われたのかよく知らない分、単なる噂に過ぎないのかも知れないとも思っていた。けれど、もしも本当なら。陽斗とは、もう二度と会うことはない。この先、道で偶然すれ違うことも、どこかの町で見かけることもない……。

 二度と会えないと思うと切なくなり、ペンダント硬貨を眺めながらため息を吐いた。

 けれど、いつまでも過去に縛られているわけにもいかない。この引っ越しを機に、気持ちを切り替えなくちゃ。


 陽斗との思い出に後ろ髪をひかれつつも、全て処分してしまおうと箱の中にあるものを袋に詰めて外に出る。

 思い出の詰まる袋を抱えてマンションの集積所に来てから、汚く山積みされたゴミたちに顔が渋くなった。


 いくらなんでも、ここに捨てるのは嫌だな。過去とはいえ、陽斗とのことは大切な思い出だ。ゴミの山に放り込むのは気が引ける。

 処分してしまおうと思っているのに、未練の残る気持ちが踵を返させる。

 マンションから出て通りを行き、並ぶ店先を見ていった。

 どこかで引き取ってくれるようなところはないだろうか。


 すると、段ボールを切り取った裏側に「巡り堂」と達筆な文字で書かれた看板を立てた露店商に目がいった。

 店主は、六十年代後半に流行ったヒッピーのような出で立ちをした五十歳代ほどの痩せた男性だった。胡坐をかいて座り込んでいるにもかかわらず、ブーツカットのジーンズを履いているのがわかり。ロングヘアーにサイケデリックな洋服を着ている。


 商品が置かれている敷物の上にも、看板と同じような達筆な文字で「あなたの想い出引き取ります」と段ボールの裏に書かれていた。

 売られているのは、安物の指輪や古い本にレコード。花瓶や年季の入った帽子に野球のボールやグローブもある。


 店主は、一見して怪しい風体をしているものだから躊躇いはあった。ただ、ゴミとして処分する勇気はないし。かと言って、この辺りにはリサイクルショップもない。まして、質屋で売れるような品物でもない。

 考えた末に、どう見ても怪しいヒッピーの露店商に預けてみることにした。


「あの……。これ、引き取って貰えますか?」


 私が恐る恐る訊ねて紙袋を差し出すと「もちろんです」と、笑顔付きですんなりと受け取ってくれた。

 露店商のヒッピーは、鼻歌まじりで紙袋から中の物を出すと「確かに、お預かりしました」と白い歯を見せる。

 その笑みを見ていたら、どうしてかよくわからないけれど、この人に預けることがベストに思えた。

 きっと大丈夫だ。よくわからない根拠と安心感が芽生え、私は軽く頭を下げてその場を去った。

 バイバイ、陽斗。沢山の思い出をありがとう。


 新しい部屋に越してきた。南向きの窓は、陽の光が入ってきて気持ちがいい。夕方前にはあらかたの荷物が片付き、ほっと一息ついているとインターホンが鳴った。訪ねてきたのは、一ヶ月ほど前から付き合い始めた修二だった。

「今日帰ってきたばかりで、疲れてるでしょ」

 修二は私と付き合う以前から、友達同士で一週間ほどかけた旅行の計画を立てていた。できれば私のことも一緒に連れて行きたかったと言っていた修二の帰りは、今朝方だったはずだ。

「すぐにでも翠に会いたくて」

 修二が私を引き寄せ抱き締める。

 付き合い初めの、まだまだ楽しくてたまらない時期の私たちは、淹れたコーヒーを飲むよりも先に見つめ合いキスを交わす。

 幸せ。


「今日、泊ってってもいい?」


 訊ねる彼に嫌なんて思うはずもなく、私は照れながら頷いた。


「そうだ、土産があるんだ」


 彼は大きな紙袋を引き寄せて、テーブルの上に次々と並べていく。

 王室の缶入りクッキー。デリで売っていたという、お洒落な麻のエコバッグ。ペンハリガンの小さな香水と石鹸。Fortnum&Masonの紅茶。


「たくさん買ってきたのね」


 サンタからのプレゼントみたいに、袋の中から次々と出されるお土産に驚きながらも、修二の気持ちがとても嬉しかった。きっと旅行の間中、私のことを考えていてくれたのだろう。


「あちこち見てると、あれもこれもプレゼントしたくなって。気がついたらこんなに買ってた」


 修二は、照れくさそうに笑う。


「あと。これは、おまけ」


 そう言って修二から手渡されたものに、私の目は驚きに見開いた。


 うそでしょ……。


 私の手に握らされたのは、イギリスの五十ペンス硬貨。しかも、エリザベス女王の裏にあったのは、陽斗がくれたものと同じピーターラビットだっただけではなく。引っ越す前、怪しいヒッピーに引き取って貰った、あの加工されたペンダントだったのだ。


「これ、どうしたの……」


 恐る恐る訊ねる声が震えた。


「来る途中の露店で買ったんだ」


 待って。あのヒッピーがこの町にきているということ?


 陽斗から貰った思い出の詰まるペンダントが、どうしてかまた私のもとに戻ってきた。手放したはずなのに、私の手元にあることが当然の如く目の前に存在している。


「つけてあげるよ」


 修二が笑みを見せる。


 少ししつこい性格の陽斗は、よく嫉妬もしていた。スマホアドレスの中にある男性の名前を見ては、どんな関係の相手なのかといちいち訊ねてきたし。デートの待ち合わせ前に、偶然会った会社の同僚男性と話していただけで烈火のごとく怒ったこともあるし。少しでも男性の影がちらつくと、陽斗は私に質問攻めをしていた。

 そうして、亡くなったと噂に聞いた時のことを思い出していた。大学の頃に、同じサークルだったと話していた男性が言っていたことだ。


「陽斗のやつ。息を引き取る間際まで、何度もうわ言のようにずっとそばにいるって言ってたらしい」


 背中がゾクリと粟立つ。


 あの日の陽斗と同じように、修二が私の首に手を回しペンダントをつける。


「うん。よく似合ってる」


 あの日あの時、陽斗が言ったのと同じセリフで目の前の修二が笑う。

 その表情は、まるで陽斗が憑依しているみたいにとてもよく似ていた。


 翠。ずっとそばにいるよ――――。

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