姿の見えない同居人

すえもり

姿の見えない同居人

 大学を卒業してから、社会の歯車として泥のように働いて働いて五年、ついに私の精神は限界を迎えた。

 医者に罹り会社を辞めた私に、父は一年の猶予を与え、祖父母が住んでいた田舎の一軒家の管理を任せた。自然に囲まれて休息を取れば病状が良くなると考えたのだろう。その判断は間違っていなかった。

 私は父親だけのシングル家庭で育った一人っ子で、父は週末にも仕事が入ることが多く、よく祖父母宅に預けられていた。だから、この一軒家は私にとって、もう一つの我が家のようなものだ。祖父母は数年前に他界したが、この家には二人の思い出が多く残っている。懐かしい日々を思い出しながら、暮らしやすいように少しずつ手を加えていくうち、睡眠障害などの症状は自分でも分かるくらい良くなっていった。それまでは、長く暗いトンネルの中にいるようなものだった。それを自覚できず、常に湧き上がってくる不安と恐怖と焦燥感に駆られていた。そこから脱したような気分だった。


 その家があるのは、市街地から車で一時間ほど山道を行ったところにある小さな集落で、近くには釣りができる川や、観光地として有名な寺もある。周りは農家が多く、商店もあるので食材は手に入りやすい。贅沢を言わなければ、暮らしていくには、さほど不便を感じなかった。

 若者が珍しいのか、近所の人々は何かと声を掛けてくれ、力仕事で頼るついでに暮らしの知恵を教えてくれるので、毎日退屈することはなかった。

 この地に住み着き、地元コミュニティに溶け込める仕事をして細々と生きていくのもいいのではないかと、ぼんやり考えるようになった。


 そうして三ヶ月ほどが過ぎた夏のある日、隣人の多賀谷さんが妙なことを言ってきた。親より少し年齢が上の、何かと世話を焼いてくれる親切な女性だ。

「マコト君、彼女できたの?」

 私は驚いたが、笑って首を横に振った。

「いやぁ、彼女なんて居たのは高校生の一時期だけですよ」

「そう? ほんなら見間違いかぁ。家の中に入ってったような気がしてんけどな」

 多賀谷さんは首を捻りつつ、「やっぱ老眼やなぁ。彼女できたら紹介してや」と人懐こい笑顔で言った。

 その時は気に留めていなかったのだが、同じ週、商店で買い物をしている時、店主からも質問を受けた。

「彼女さん連れてきたん? こないだ近くを通った時、若い女の人が家の前の道を歩いとったから、ええ人見つけたんかと思って」

 私は眉間に皺を寄せつつ、「いいえ、彼女がいたら良かったんですがね」と答えた。

「ところで、それっていつのことですか?」

「んー、三日前の夜やな。山田さん、あっちの上のほうに住んだはるやろ? たまに米届けに行ってるんやけど、店閉めてからやから夜九時半過ぎぐらいかなぁ」

「どこかのおうちのお孫さんとちゃいますか?」

「そうかもなぁ。ごめんごめん」

 この時は私も本当にそう思っていた。だが同じことを別の人からも聞かれ、三回目ともなると、何かあるのではと思うようになった。


 見知らぬ女が夜になると家の周囲をうろついている。不気味な話だ。一体何の目的なのか? ストーカーに付き纏われる覚えはない。会社に女子社員はほとんどおらず、浮いた話とは無縁だった。

 住んでいる家は、祖父母が亡くなってから二年ほどは空き家だった。まさか、その間に誰かが住み着いていて、今も私の不在時を狙って立ち寄っていたりするのではないか? 空き家に犯罪者が隠れ住む話も耳にする。


 私は女の正体を確かめようと決意した。穏やかな暮らしを脅かし、睡眠を害する不安の種は早いうちに潰してしまうほうがいい。

 門に監視カメラとセンサーライトを取り付け、女が出没したという夜九時頃に家の周囲を巡回することにした。近隣の住民にも、不審な女を見掛けたら報告してほしいと頼んだ。

 しかし、三日続けてみても収穫はなかった。三人の話だと週末に現れているようだったので、粘り強く見張りを続けることにした。


 四日目の土曜は一日中農家の手伝いをして、私は疲労困憊し、帰るとすぐに寝てしまった。九時頃には起きるつもりだったが、そのまま朝まで寝てしまい、翌朝ひどく後悔した。

 カメラに例の女らしき人影が映っていたのだ……!

 顔は判然としないが、肩まである黒髪の背の高い女で、青いワンピースを身に纏っていた。女は、門のあたりで五分ほど誰かを待っているかのように立っており、時折家の中のほうを気にしていた。女を見たという三人に映像を見せてみると、確かにこんな背格好だったという。


 私は玄関と庭にもカメラを設置した。すると、一ヶ月ほどで次のことが判明した。女は毎週末の夜、門ではないどこかから敷地内に侵入し、門から出て周辺を歩き、また敷地内に入ると玄関から家の中に入っているのだ。

 私は心底ゾッとした。女と同じ家にいる瞬間がある!


 怖くなって警察にも届け出たが、防犯カメラの画像だけではダメで、現行犯を捕まえないといけないらしい。出没時間には巡回しに来てくれるということだった。相談した時は、家の中に女が侵入した痕跡がないか調べてくれた。

 すると、納屋から女物の衣服と長い黒髪のカツラが出てきた。その中に青いワンピースもあった。

「この家を根城にしていた浮浪者か、変装して何かの犯罪に関わっているのかもしれませんが、妙ですね。人が住んでからも続けるなんて。それに鍵も壊されていません」

 警察は、女に勘づかれないよう、再度女が現れてから証拠品を回収すると言って引き上げた。さすがに私も一人で住んでいるのが怖くなり、父を呼ぶことにした。父は退職後、清掃のアルバイトをしているので土曜の昼以降なら行けると返答があった。


 それから久しぶりに夢を見た。

 私は小学校低学年に戻っていて、この祖父母宅で誰かを探しているのだった。

「じいちゃん、何でお母さん帰ってけぇへんの?」

 祖父は庭の畑いじりをしている。

「お母さんはな、しばらく外国に行ったはるんや」

 小さい頃、父も祖父母も私に嘘をついていた。二度と母が帰ってこないと知ったら私が絶望すると思ったのだろう。

「お母さん、外国で仕事してるん?」

「せやで」

 私は口を尖らせて庭を歩き回った。時々門のほうを見ては、ひょっこり母がお気に入りの青いワンピースを纏って現れるのではと思って……。

 そこで、私は飛び起きた。今のいままで忘れていたが、まさか、あの女は母なのではないか? 私がここにいると知って、話す機会を持とうとして躊躇っているのでは?

 深く考えてみると、出入りしていながら話しかけないなんておかしいと思うのだが、二十年も会っていなければ、声を掛けづらいこともあるかもしれない。私は衣服が仕舞われていた納屋にメッセージを書いて残してみることにした。

『あなたは私の母なのですか マコト』


 すると二日後、週末を待たずに女からメッセージが書き残された。

 そこには、父から伝え聞いた私のことが心配であちこち探し回っていたこと、私と父を捨てて仕事を選んだのに今さら声を掛けることができず、毎回話せずに帰ってしまうのだということが、切々とつづられていた。

 手紙を読む手が震えた。そんなことは気にしなくていいから会いに来てほしいと書いた。しかし、返事は無かった。私は落胆したが、週末を待つことにした。


 週末、その話を家にやってきた父にすると、父は文字通り青ざめた。

「マコト、どないしたんや。お前の母さんは昨年亡くなったんや。葬式に行ったの忘れたんか?」

 父は言葉を失い、私を医者に連れて行くと言った。しかし、私は父の言葉が信じられなかった。

「おかしいのはオヤジのほうやろ! 何でまた、母さんが死んだって嘘をつくん? 昔かて、海外に仕事に行ってるって嘘ついてた!」

「すまんかった。けど、母さんはホンマにもうこの世におらんねんで」

 父は私の肩に手を置き、母が闘病の末に癌で亡くなったと話した。私は子どものように泣いた。一年前というと私は仕事で精神が参っており、母の死を受け入れられず、記憶を改竄したのかもしれない。泣き疲れた私は、父に家の見張りを任せてすぐに寝てしまった。


 夢の中で、私は家の中を歩き回っていた。

 座敷部屋で寝ている男の顔には見覚えがあった。若い頃の面影は残っているが、随分と老けて縮んでしまったものだ。

「マコト!」

 父の声で、私は驚いて目を覚ました。私の手を押さえ込んでいる父の腕は血だらけになっている。私は包丁を手にしていて、纏っているにも血が飛んでいた。

「やっぱりお前が、あの女の正体やったんか」

 私は包丁を取り落とした。

「なんや、これ」

「ごめんなマコト、小さい頃から寂しい思いさせて……こんなになるまで私は気付いてやれんかった」

 父は泣きながら、血だらけの手で私を抱きしめた。すまんかったと、壊れたテープレコーダーのように何度も繰り返した。


 父は、警察には届け出ないほうがよいと判断した。私は医者から解離性障害のひとつである多重人格障害と診断された。別の人格になっている間は記憶がすっぽり抜け落ちてしまうもので、強いストレスが引き金になって起きるという。

 いつから私が二重人格になったのかは分からない。別の人格を持つほど不幸な人生を生きてきたのだろうか? 数年治療を続け、症状が出なくなったあとも、別人格の時に身につけていた服を着てみることがある。もちろん男の身体では似合うはずなどないのだが、母の面影がうっすら残る細い目が鏡の向こうから見つめてくると、不思議と気持ちが落ち着くのだった。

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