仄暗い路の果て

管野月子

見られている

 もう、耐えられない。

 なんて口にしようものなら、誰に通報されるか分からない。


 互いが互いを見張る監視社会。規律から外れた人間は、すぐさま国の更生施設に送られる。行ったまま戻らない者も多く、仮に戻ってきても意思や感情の乏しい、死人のような顔になって帰って来る。正に、従順に命令だけを聞く奴隷だ。

 俺は思ったね、「あれじゃ、ゾンビだ」って。

 唯一、児童施設の頃から気心が知れた親友、アンドリューだけは、「どこのホラー映画だよ」って笑っていたけどさ。


「俺……行くことにしたよ」


 どんよりとした厚い雲の下。今日の義務作業を終えて工場から退勤する、その人の波に乗りながら、俺はアンドリューにしか聞こえない声で囁いた。


「二十八区画、ゲート十五――そこからこの都市の外に出られるという情報がある。地図も手に入れた」

「偽物じゃないのか?」

「偽物かもな……」


 俺は鼻でわらいながら呟き返す。


「それでも、ここで死んだように、同じ毎日を繰り返すよりいいさ」


 どんなことがあっても監視の目をかいくぐって逃げ切ってやる。

 この分厚い壁に囲まれた都市以外の場所なら、何だっていいんだ。


「お前は昔から一度決めたら曲げないからな。けどよ、こんなこと、俺に漏らしていいのか?」


 言外に、「通報するかもよ」と含めてアンドリューは問う。


「通報したければすればいい。そうすればお前は、俺の共犯ではなくなる」

「なるほどね」


 やっと口の端を笑みの形に歪めた。

 そして少し、寂しそうな目元になる。


「俺は……脱出なんて、無理だと思うな」

「試したことあるのかよ」


 俺の問いに、アンドリューは曖昧に笑って視線をらした。

 誰だって一度は考える。けれど実行に移せる者は少ない。


 この世に生まれて二十数年。

 親の顔も知らず、乳児の頃から家畜のごとく施設で育ち、能力で振り分けられ、底辺での暮らしを決定づけられた。娯楽は古い映画のみ。

 このままじゃ、死ぬまで工場と自室を行き来するだけの、半死者ゾンビだ。

 だったら、まだ人としての気力が残っている間に足掻くだけ。


      ◆


 陽が沈み、誰もが寝静まった時刻。

 俺は身の回りのわずかな物だけを背負い、壁に開けた小さな穴から外に出た。

 ベッドには時間稼ぎのダミーを置いている。ドアの開閉は記録されるが、それ以外の場所からの出入りは意外と誤魔化せる。実際に何度か抜け出して戻るを試したところ、一度も発見されなかった。

 当然、街のあちこちには、監視カメラが設置されている。

 けれどそれも、全部が全部稼働しているわけじゃない。壊れたまま放置されている物。節電の為に輪番停電させている物。その穴を突けば、目的のゲートまで行くのも不可能じゃない。


 監視社会……といっていても、システムは穴だらけだってことだ。


「よし……」


 途中、巡回の監視員と遭遇しそうになったが、上手く隠れて誤魔化した。

 アンドリューもまだ通報していないのだろう。もしかすると既に通報済みで、俺は泳がされているだけかもしれないが、それならそれで、血路を開くだけだ。




 目的のゲートのドアロックは、情報通りに壊れていた。

 一瞬、「立ち入り禁止」の文字に目を止めるも、ここで引き返すわけがない。

 開いたドアに音も無く滑り込み、閉める。

 青白い光が、大きく間隔を空けて点々と続いている。人がどうにかすれ違えるだけの細い通路を行った先に目的のドアがあり、その向こうの巨大な空洞に、未来への路は続いているはずだ。


 ――と、その瞬間、微かな気配と物音を感じた。


 振り向き、周囲を見渡す。というほど広くない。数歩先に今閉じたばかりのドアがあり、後は小さな通気口と配管が見えるばかりだ。

 虫か……今は姿を見なくなった、鼠という生き物だろうか。

 ただの風の流れや管を伝う振動を、生き物の気配と勘違いしたのだろう。


「情けないな」


 苦笑いに顔を歪めて、俺は歩き始める。

 どれほどカメラや監視員の目をごまかしても、朝になれば動かないベッドを感知され、逃亡は確実に発覚する。そうすれば監視が強化されるか、追跡されるか。

 成功の分かれ目は、追跡するのも馬鹿らしいぐらい、俺が遠くまで逃げることだ。


 連れ戻すにしたって人員がいる。

 逃げたヤツは放って置けば、どこかでのたれ死ぬだろう。

 そう判断されれば俺の勝利だ。


「このドアで間違いないな」


 曲がりくねり、途中に幾つかの分かれ道もあったが、手に入れた地図の通りにドアはあった。目印の番号も間違いない。再び「立ち入り禁止」の文字を目にするが、俺はかまわずドアを開けた。




 生臭い匂いが鼻を突いた。

 思わず顔をしかめ、腕で鼻を覆う。果てが見えない程広い空洞。遠くから、ゴオン、ゴオン、と規則的な機械音が響く。

 俺は一度来た通路を振り返り、人の気配が無いのを確認してから後ろ手にドアを閉めた。ガチリ、と嫌な音がする。試しにドアノブを握るがびくともしない。動かない。


「鍵が……かかった?」


 通路から開けた時、ドアロックのような物は無かった。

 もしかすると通路側からしか開けられない仕組みなのかもしれない。


「まぁ、いいさ。戻るつもりはない」


 自分の声が、強がりのよう聞こえた。

 無為な日々は終わらせると決めてきた。退路を断たれたとしても、俺の決意に変わりは無い。




 足音を響かせる。宙づりの橋のような通路は、両側に細いパイプの手すりこそあれ、足元は頼りない金網状になっていた。隙間から見える階下は、縦横に巡る配管と同じような通路が入り組む底なしの谷のようだ。

 足を滑らせたら命はない。

 まぁ……この手すりを越えない限り、落ちることなどないだろう。

 俺は走り出したい気持ちを抑え、やや早足で、一歩一歩、前へと進む。


 地図では、この巨大な空洞を突き抜けた先が都市を囲っている外壁となり、外の世界となる。その外周を直接見た者は知らないが、こうやって地図がある以上、行き来をしている人はいるはずだ。


 現時点まで、驚くほど計画はスムーズに進んでいる。

 追っ手の気配は無い。

 まだ逃亡したことに気づかれていないのか。それとも、追跡範囲を越えたのか。

 どちらでもいい、今は余計なことなど考えないで進むだけだ。


 ――そう、思い始めた時、背後……斜め上から、ギシリ、と音がした。


 足を止める。


 ゆっくりと振り返る。


 仄暗い金網の通路の向こう、入ってきた時のドアも見えない程遠くまで、人影は無い。変わらず生臭い風と、ゴウン、ゴウン、と低く響く機械音だけだ。


 気のせいだろうか。


 単に古い配管が、空気の流れで軋んだだけだろうか。いやそうに違いない。俺は進む先に振り向き直し、足を進める。


 心臓の鼓動が煩い。

 呼吸が浅く、早くなる。

 俺の、足音が響き渡る。


 そして――ミシリ、と嫌な音が耳に触れた。


 見られている。


 視線を感じる。


 生臭い、吐息の匂いがする。


 振り向くことができない。


「あぁああ……あぁぁ、あ、あ、ああ、あぁぁあ!」


 走る。

 走り出す。

 ガンガンと足音で金網を震わせ、通路を吊り下げるパイプが軋む。

 ギシリ、ミシリ、と重量のある音がついに、俺が走ってきた通路に、落ちた。パイプを割るような音が響き、振動に通路が揺れる。


「ああ! あ、あぁぁあ!」


 来る。


 追いかけてくる。


 細い一本路に、逃げ場はない。


 恐怖に冷たい汗が吹き出す。


 振り向き、音の正体を確かめろという心の声と、絶対に振り向くなという本能がせめぎ合う。どこまで、走ればいいんだ。


 後どのぐらい走れば出口に辿り着く!?


 後、どれだけ走れば――。


「わぁああっ!」


 足がもつれて思いっきり倒れ込んだ。

 反射的に体を起こし、そして俺は、振り向いてしまう。


 もう……数歩と離れていない場所に、腐れ、ただれた顔の人が、闇のように穿った両目を向けて、腕を伸ばす姿がある。


 アンドリューと見た、古いホラー映画の化け物さながらの姿が。


「がぁぁああっ!」


 蹴り上げた。

 覆いかぶさろうとする胸を思いっきり蹴り上げ、俺は立ち上がり、走る。

 追う化け物の姿は一体じゃない。


 咄嗟に数えることもできない程の数が迫って来ているんだ。幸いなのは、未だ行く手に現れていないこと。俺は、「落ち着け」と自分に言い聞かせる。


 正気を失ったなら、その時が命の終わりだ。


 金網の通路が、幾つかに分かれる分岐点に差し掛かる。地図を確かめている余裕はない。追う化け物の足は速く無いが、確実に迫ってきている。


「くそっ!」


 地図を見た時の、記憶を頼りに走り続ける。

 とにかく遠くへ、化け物をくまで逃げ切らなければ。

 とこでもいい。どこかのドアに逃げ込むんだ。

 一瞬――内側から開かなかったなら、と嫌な予感が脳裏をよぎる。不安を必死で振り払い走る。そしてやがて遠くに、壁を見た。


「ドアだ!」


 出口だ。


 まだ化け物は追い続けてくる。

 俺は力の限り走り抜け、貧弱な階段を上り、無機質なドアに取り縋る。ドアノブを握る。


 すぐそこに化け物の姿。


「開けよぉおお!」


 ガキッ、と音がしてノブが回る。

 倒れ込むように開けて駆け込んだ。ドアを閉める。

 寸での差で化け物が取り縋る。ノブを回されないように掴み、力を込めた。奴らは「ノブを回す」という行動ができないのか、ドアを叩くだけでノブを動かす気配が無い。


 どれほどの時間が過ぎたのか、やがて――音は静かになった。


 立ち去ったのかも知れない。


「助かっ、た……」


 体中の力が抜けて、俺は地面に座りこむ。

 意識も手放しそうになる、その時……静かな足音がした。

 俺は再び体を緊張させて顔を上げる。




 夜開けの空があった。


 無機質な建築物が天を突くように立ち並ぶ。この景色は、

 長い通路を抜けて……俺は、都市の外に出たのではないのか?

 ゆっくりと顔を巡らせ、足音の方を向く。そこに立っていたのは――腐りかけた化け物ではなかった。


「だから、出られないって言っただろ」



 監視員を引き連れ、困ったように笑う親友、アンドリューの姿があった。






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仄暗い路の果て 管野月子 @tsukiko528

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