第6話 ナッツチョコと初めて作ったカレー
珍しく、嫌がらせと言える嫌がらせがやんだ。それも一週間近く。
文化祭の準備がはじまり、朝も休み時間も放課後もフル活用して、看板だの飾りだのメニューだのを作っている。うちのクラスがやるのはベタにメイド喫茶だ。私は早々に裏方にまわり、厨房で延々とクレープやら何やらを作る係になった。
聡は私の色鉛筆削りカス入りお弁当を食べた翌日、急性胃腸炎になって病院に一泊した。当たり前だ。
その日、聡がいないことをいいことに佳山から「聡に迷惑かけたっていう自覚ある? あんたが病院送りになればよかったのに、罪悪感ないの? 一緒にいて釣り合うとでも思ってる? 言っとくけどあんたみたいな暗い毒舌女は、頭いい聡からすればいい話し相手になってるってだけなんだから。聡の優しさにつけこまないで」
なんて言われてしまった。なんで覚えてるんだろう私。つい、いつものように「責任転嫁だ」と言いたかったが、聡の忠告を思い出し、こらえた。嫌がらせが止まったのはそれからだった。私に責任を押しつけようと必死になるほど、彼女の中でも病院送りになった聡に対する引け目があったのだろう。
メニューを考えるグループに私は、微妙ながら入っている。中心にいるのはお菓子づくりが得意なかわいい女子たちで、私は彼女たちからはズバズバものを言うちょっと怖い人という印象を持たれ距離を置かれていた。
聡に「優しい話しかたをする練習も必要」と言われた手前、いつまでも「黙ってスルー作戦」はできない。自分だって、できることならもっとトゲのない言いかたをする女の子でありたいと思う。だから、少しずつ、と思った。少しずつ、佳山さんたちじゃなくて彼女たちのような話しやすい女子から、と思い、言葉を慎重に選ぶ。
「それだったら業務スーパーで大量に安く買えると思う。あと、このへんの器具はだいたいどこの家にもあると思うから、買わずにみんなで持ちよろう」
お菓子づくり好きの女子たちにまで感嘆の声をあげられてしまい、なんだか恥ずかしかった。だけど「中野さんってちょっと話しやすくなったね」と彼女たちが話しているのを聴いたときは、嬉しくて顔がにやけた。スキップしそうになるのを我慢するのに必死だった。いかんいかん。
輪をかけて涼しくなってきて、文化祭の準備は佳境に入る。飾りまみれの教室で授業をする。中学に入って初めての文化祭を前に、みんなが浮き足だっていた。
そんな中で、胡乱な罠の最終段階が仕掛けられた。
「ねえ、中野さん」
いつもどおりのお昼休み、聡が美術準備室に行くのを自分の席で待っていると、佳山が目の前に立って威嚇した。ああ、またなんかあるのかな、と呆れる。いつものようにうんざりしていると。
「なんであたしのお弁当に、あんなひどいことするの!」
佳山は大声で叫んだ。その場にいた全員が振りかえる。指さされた先を見ると、佳山のお弁当箱を彼女の友人たちが持ちあげて見せた。そこには消しゴムのカスがびっしりと散っていて、おかずもごはんも全滅だった。
うわ、何それ、もったいない。私は驚くより先に、思わずため息をついてしまった。
「何そのため息。あんなことするの中野さんしかいないじゃない!」
「証拠がないよ」私は比較的冷静に、だけどやっぱり怒った声で言った。
すると佳山は一瞬、口の端をあげた。彼女のお弁当箱を包んでいた風呂敷の中から、コロンと見覚えのある消しゴムが出てくる。クマのキャラクターが書かれた、私の使っている消しゴムだ。半分近くが減っている。
私はあわてて自分のペンケースをあけた。クマの消しゴムが……ない。四時間目は文化祭の準備をしていたので、その間に盗まれたのか。
「どういうことなの、中野さん。これ、あんたが使ってる消しゴムだよね? 回収し忘れ? 馬鹿じゃないの、完全犯罪するならきっちり証拠は残さないようにしなきゃあ」
「回収し忘れどころか、そもそも私は消しゴムのカスを佳山さんのお弁当に入れてな……」
「嘘つかないでよ!」私の強気な態度に、佳山が声を荒げる。「どう見たってこれが証拠じゃん! あんたがいつも使ってるやつでしょ、このクマ! いつもの仕返し? あたしがやってるって証拠はないっていつも言ってんのに、なんでいつの間にあたしのせいになってんの? そもそも自分が元凶のくせに、いじめられたーってかわいそぶって、自己中すぎる。そのうえ関係ないあたしに八つ当たりだなんて、性格悪すぎ!」
私はチラリと聡のいるほうを見た。彼もまた他の男子と同様、こちらを不安げに見ている。
彼は私を見て、首をちいさく横に振った。……やめろ、か、待て、か。どっち?
「中野さん、こんなひどいことする人だなんて思わなかった!」
佳山がことさら大声で叫んだ。「証拠もないのにあたしを勝手にいじめの犯人扱いしてこんな嫌がらせするなんて、いじめと同じじゃない。正々堂々と話せばいいのに。前から口悪い子だとは思ってたけど、ひどすぎる!」
そうだよ、口悪いんだよ。知ってるよ。――私は心の中でつぶやいた。
だけど、ここでその口の悪さをめいっぱい発揮したら余計に事態がややこしくなる。それを分かっていたので黙っていた。黙っていてもややこしくなるだろうが、火にガソリンを注ぐよりずっとマシだ。彼女が自分でやったことぐらいはとっくに分かっていたが、指摘すればきっと戦争になる。
案の定、佳山は「なんで何も言わないの!? 黙ってるってことはやましい気持ちがあるからじゃないの!」と言う。だんだん金切り声になってきた。何も言わない私の心境が読めず、焦っているのだろうか。周囲のクラスメイトも、先生を呼ぶかどうかで迷っている。
そろそろ何か言おうとすると、肩にぽんと手が置かれた。顔をあげると……
「ストップ、そこまで。四季、よく我慢したね」
毒舌家、中野四季。……ある意味で喧嘩っ早いこの性格は、今日で店じまいだ。
聡は私の肩をもう一度叩き、佳山に正面から対峙する。彼女も思い人が出てきたのでうろたえ、何を言えばいいのか迷っているようすだった。
「まあ、分かる。四季、口悪いもんね」
ずるっ、と私は机の上で腕をすべらせた。あれれ、味方じゃないのか?
聡はさらに容赦なく「ツッコミきついし毒舌だし、佳山さんの反感買うの当たり前だと思う」と上乗せする。
うわ絶対佳山さんに調子づかせるよそれ! 私は心のなかで冷や汗をかくが、聡はいつものぼんやり顔のままだった。
だが、彼はぐっと眉をひそめ「でも」と言う。
「四季は、そういうことする人じゃないって信じてる」
彼は佳山のお弁当に視線を向けた。消しゴムのカスまみれで、汚い。
「ちゃんといただきますをする子だし、危なっかしいながら料理もどんどん覚えて、おいしいもの食べたときは素直に笑う。そんな彼女が他人のごはんにこんなことするとは俺が思えないし、それと毒舌は関係ない」
「で、でも」佳山がようやく口をひらく。「この消しゴム、中野さんのだし……」
「ぶっちゃけそんな工作なら子どもでもできるよ。放火犯に仕立てるためにポケットにライターをこっそりしのばせるのと同じレベルの三流推理小説。決定的な証拠じゃない」
「だけど、中野さん以外に考えられない! あの子、いつも私をいじめの主犯扱いして、小声で悪態ついてて、私のお弁当をこんなにして復讐しようと……!」
私は「いや小声どころか大声でトイレで悪口かましてるのは誰だ」と心の中で罵倒しかけ、やめた。
聡は私への嫌がらせの主犯が佳山だということ、消しゴムのカスを佳山が自分で入れたことに気づいているはずだ。それを指摘して論破させるものだと思っていた。
だが、聡はただ「うん」と言った。
他に何も言わなくていいとばかりに、シンプルに。
「佳山さんのお弁当、すごく残念。おいしそうなのに、もったいない」
それだけを言って、聡は黙った。佳山もその言葉に拍子抜けしたのか、言葉を失った。細められた聡の目元は、台無しになった佳山のお弁当に向けられたままだった。
教室がシンと静まりかえる。その場にいた二十人ほどの生徒の誰もが、身動きがとれなかった。
佳山は目を真っ赤に充血させて、今にも泣いてしまいそうだった。
「なんだったら……」
聡は佳山のお弁当を手にとった。
「……これ、俺が食べるから」
「だ、駄目だよ、聡、またおなか壊しちゃう!」佳山が彼の手をおさえて叫んだ。
「さあ、もう痛みも覚えてないな」聡は困ったように笑った。「あのときは必死だったんだよ。四季のおばさんって、陽気で楽しい人でさ。あんな優しいおばさんが毎朝、四季のためにおいしい弁当作ってくれてるんだって考えたら……また土に埋めるところを見るのが嫌で、無意識に食べてた」
誰がやったかなんてどうでもいいんだ、と彼はちいさな声で言った。
佳山はその言葉に傷ついたような表情をして、口元をゆがませた。
私は……そうだ、呆然としていた。数日前、病院の公衆電話から「やっぱり腹下したわ」と電話をもらったときは、佳山に対する怒りがこみあげた。だけど、そうじゃない、と思った。私は机の上で両手の拳をにぎって、解いた。
今さらになって謝罪も言いわけもできないのか、佳山は黙って立っていた。もともと美人だから、泣きそうなその表情は同じ女としてもグッとくる。
だが聡は動じなかった。同じように悲しみをたたえた目で、消しゴムのカスまみれになった自分のお弁当箱を大事そうに抱える佳山を、じっと見ていた。
やがて佳山は一瞬、強く唇を噛み、「いいんだよ」と言った。
「ママ、仕事が忙しいから……これも……冷凍食品詰めこんだだけなの。味は平坦においしいけど。別に捨てたって、手作りじゃないからママも諦めるよ……」
「違う」
佳山の言葉が終わらないうちに、聡が鋭い声で一閃した。こんなに大きな声をあげる聡を見たのは久しぶりだった。
佳山は一瞬肩を震わせた。聡は怒ったような、泣いているような目で「そうじゃない」と言った。
「――そうじゃないって分かってるだろ」
凄みがあるのに、優しく包みこむような声。
それに気圧されて、佳山はとうとう泣きだした。子どものようにみっともなく声をあげて、涙も鼻水もぐちゃぐちゃにして、お弁当を持ったままその場にへたりこんだ。聡は彼女の脇の下を支えて一緒に座りこみ、頭を撫でてやっていた。
私は自分の席から立ちあがって佳山の前に膝をつく。
そして「ごめん」と言った。
「今までいろいろ、ごめん。ぜんぶ佳山さんが悪いんじゃないのに」
佳山は髪が乱れるほど激しく首を振った。「違う、違うの、ごめん、中野さん、そうじゃないの」と言って。息が詰まるほど泣きじゃくりながら、佳山はうわごとのように、「ごめん」とつぶやいていた。彼女が抱えたお弁当箱に涙がぼたぼたと落ちる。
今、聡には何が見えているのだろう。私には分からないけれど、彼女が流した涙だけは、私の目の前にいる佳山の一部で、確かに心の一部を成していることを知っている。それぐらいのことは、私にも見えた。
悲痛なすすり泣きの声が、文化祭の為に華やかに飾られた教室に響く。
冷たい水の中にいたような空気が、ふいに呼吸しやすくなった気がした。
そのあと、私と聡と佳山は、お弁当箱から消しゴムのカスをひとつひとつ丁寧に、箸の尻で拾ってはゴミ箱に捨てた。きれいになったお弁当を、佳山はいつもの友達と集まって残さず食べていた。
誰もが「優、泣かないで」「あたしのプチトマトあげるから」と、彼女を慰めていた。
食べ終わったあと、無意識なのかそうじゃないのか、手を合わせなかったけれど佳山は確かに「ごちそうさま」とつぶやいた。
聡は自分の鞄から、ナッツ入りチョコの箱を出して、佳山に差しだした。
「ネットで聴いた話だから真偽は分からないけど、チョコレートには人間が誰かに優しくされたときに脳内で分泌される物質と同じ成分が入ってるんだって」
それは別に、佳山が今食べたいと思っていたわけじゃないだろうけど。
彼女は一瞬とまどい、そして箱を受けとって、その容姿によく似合う花のような笑顔で「ありがとう」と言った。かわいくて、美人で、誰かに愛されてきたその頬笑み。そして陽気に「いっただきまーす」と言ってひと粒を口に放りこむ。彼女の友達も寄ってたかって「私にもちょうだい」と箱に手を伸ばした。
騒ぎが収まって、授業の予鈴が鳴ったとき。先生が来るギリギリで聡は私のいる席に来て、同じ箱を出した。見なれてしまった優しい笑顔を向けられて、私もつられて笑ってしまう。そしてやっぱり「じゃあ遠慮なく、いただきます」とチョコの粒をかじった。
甘くて、少し苦くて、口の中でふわっと溶けた。
ずいぶん久しぶりに感じる味だった。
聡は感極まる私を見て、ちいさな子どもを見守る母親のように微笑んだ。
* * *
「入学して最初に話しかけてきたのが佳山さんだったんだ」
足で少し地面を蹴ると、ふわりと身体が宙を泳いでスカートが揺れる。聡はブランコを漕ぐこともなく、じっと座ったままだった。
私はギイとうなるブランコを、構わず揺らす。
「まあ、私も見た目自体はそんなに地味でも暗そうでもないって自負してるからさ。何も分からない最初のころは、佳山さんも気の合いそうな女子を見た目で判断してかたっぱしから話しかけてたんだと思う。でも、ご存じのとおりの口の悪さが彼女の逆鱗に触れて、気がついたらグループからもハブられて五月にはぽつーん」
薄暗い夕暮れの公園。日が落ちるのが早くなり、小学生たちは帰ってしまった。
オレンジ色に染まる無人の敷地をぼんやり眺めながら、ブランコに並んで座って、ぽつりぽつりと昔の話をする。
聡は何も言わなかった。私はひたすらにブランコを漕いだ。伸びる影がしつこくついてくる。
「でも、何もかも彼女のせいだったとは思えない」靴裏でずずずと地面を擦った。「私にだって落ち度はあったよ。聡はこんな毒舌な私でもいいって言ってくれたけどさ、その一方で彼女みたいに誰かを傷つけて怒らせることもあるんだってこと、重々承知して覚悟もしてる人が『自分らしく生きる』っていうのをうまくやれてるんだなって思った」
だから私は、究極的には彼女の嫌がらせに対抗しなかった。やられっぱなしではなかったしぼそっと皮肉を言うていどだった。
それでもじゅうぶん悪質だし油を注いでいるが、心のどこかで結局は自分が悪いのだと諦めていたのかも知れない。
これで両成敗だ。佳山から謝罪を乞いたいわけじゃないけれど、せめて休戦しよう。あんな雑な謝りかたじゃ駄目だ。折れるわけじゃない、自分が悪かった点が少しでもあるならそこを謝るのが人間だ。そして私が、人間だから。三段論法。
土で少し汚れたローファーをじっと見つめていると、隣の聡が頭をぺんぺんと叩いた。
「まあ、満点とは言えないかもだけど」
少し掠れた、ちいさな声。「あのときの四季の精一杯だったんだなってのは分かるよ。だから及第点でいいんじゃない。俺だって、何かしたわけじゃない」
「じゅうぶんしたじゃん。どこの大塚ナントカくんよ、佳山さんを懐柔したの」
「懐柔なんて。彼女だってあんだけ殺気立ってたとはいえ、根っこはただの人間なんだ。自分がしたことを後悔して泣くぐらいにはね。あの子、消しゴムのカス入り弁当、お腹の心配しないでぜんぶ食べちゃったよ」
彼に何が見えていたのだろう。佳山の心の中に写ったもの。欲しがったもの。
もう少しして、彼女が自分の落ちつける場所にそっと腰をおろして、また最初のころのようにまともに顔を見られるようになったら、いろんなことを話してみたいと思う。
私は普通の人間だから、言葉が必要だ。喫茶店かファミレスで、お茶やごはんを挟んで。被害者アピールじゃない、互いに傷ついた部分を知ったら、変わるような気がした。佳山を抱いてなぐさめる聡を見ていて、そう思った。
「なんか、思ってたより驚かなかったなあ」
なにが、と訊かれて「佳山さんがあんなに泣いたの」と言った。聡は何も言わなかった。
遠くから踏切の音が聴こえて、それに電車の音が重なる。ぎりぎり残っていた太陽の細い光がビルの向こうに吸い込まれるように消えた。今日一日のできごとをぜんぶまるがかえして、また巡ってくる明日のために。
どんなにつらいことがあっても明けない夜はないとよく言うけど、毎朝晴れているわけじゃないだろう。雨が降っている朝、誰かに傘を差しだせるような人間になりたい。私も、たぶん聡も。
「さっき、聡には」
風がざあっと吹いて、髪を乱してゆく。「佳山さんの食べたいもの、何が見えたの?」
聡は何も言わなかった。答えを探しているわけではなく、ただ黙っているだけに見えた。
彼は思案するような顔つきでいたが、やがて「さあ」と答えた。
「彼女にしか分からないことだってあるさ」
困ったように言う聡の横顔を、私はじっと見て、そらした。
仮にも、入学した直後は親しげに話しかけてくれた佳山。彼女が今の友達と接するように私に話して、意地悪そうな雰囲気はまったくなくて。ただの新中学生で、ただの女の子だった。
聡はそれを知っている。そして私も、覚えている。
やがて聡はブランコから立ちあがった。足元に置いていた鞄を拾いあげて「駅前のクレープを食べに行こうか」と言った。
「まったあんたは」私は顔をしかめる。「人の頭ん中勝手に覗き見して」
「してないよ、こればっかりは勝手に見えるんだって」
駅前のクレープ。聡と一緒に下校したときにいつも食べている、私のお気に入り。今も「帰りぎわに買おうかなあ」と思っていた矢先だった。慣れたとはいえ、恥ずかしさは拭えない。もういっそ何も考えないでおこうか、と思ったが、彼は人の無意識にまで入りこむので無駄だと思い出す。
駅までの、人通りの少ない住宅街をゆっくり歩きながら、私は話題を変えた。
「そういえば、お兄ちゃんが今就活中なんだけどね」
「大学生?」
「うん。で、もうお祈りされ飽きたっていって沈んでるの。なんかさ、こう言うのって変な話だし正直超恥ずかしいんだけど」
私は空中で指をくるくる回す。
「ひとり暮らしで大変だろうから、一度、家族みんなでごはん食べたら、元気出してもらえそうな気がするの。私も、聡と一緒にごはん作って楽しかったし、元気も出るから。だから、私が作った料理をお兄ちゃんにも食べてもらって、まあそこそこ士気あげて欲しいなあって」
「そこそこなんだ」
「コックの腕がまだ未熟すぎるからね」
我ながら漫画みたいなことばかり言っているような気がするが、すべて本心だった。
私が作った、というより手伝った料理は、まだ聡と京と母にしか食べてもらっていない。産業廃棄物を作ってしまう可能性はじゅうぶんにあるが、妹にメールですがるほど疲弊しきっている兄に何かをふるまいたい、という気持ちのほうが勝った。
作った人の手のぬくもりが伝わってくるものが俺は好き。聡は確かにそう言った。
受けとってばかりだった私にも、真似ごとにしかならないかも知れないが、同じしあわせな時間を誰かに作ってあげられるのだとしたら。
作ることが楽しくて、食べてもらうことが嬉しくて、それを知った今、やりたいことはひとつだった。
――大切な人のために、おいしい料理を作りたい。
一日一日を強く、折れないように生きるために。
私には超能力なんてない。人が食べたいものなんて分からない。まして心を読むなんてこと、小説のようにはできない。
だけど、だからこそ食べてもらいたいと思った。手が込んでいなくてもいい。明日も頑張ろうと元気が出て、大切にされていると思えるような、優しい料理を。人をしあわせにするちいさな魔法を。連鎖してゆく優しさを。
ああ、と私は思った。
世界はそんなふうにまわっていたんだ、確かに。忘れられてしまうほどに、それが当たり前だったのだ。今まで気づかなかっただけなのだ。気づかないほどちいさすぎたからだ。
決して大きな宝石のような幸福じゃない、一粒一粒がきらきらかがやくビーズみたいに、ささやかで、だけど絶対に忘れていない大切なもの。
私はくるりと踵をかえし、後ろ向きに歩きながら言った。
「ひとりでも作れるような料理って、やっぱりカレー?」
作ったことはないが、子どもでも失敗しない料理といえばそれしか思いつかなかった。
聡は少し後ろを歩きながら、「いいね」と言って笑う。
「ふたりがかりでならすぐに作れるよ」
「ふたりじゃないよ」私は両腕を前に伸ばして、手をひらいた。「私ひとりで作る。聡は隣で見てて。お兄ちゃんをうちに呼んで食べてもらうんだ。だから、作り方だけ教えてくれないかな」
聡はしばらく黙っていたが、やがて私の顔面を右手でつかんだ。「ぐわっ」と声をあげる私の身体を反転させて、前を向かせる。
「ちゃんと歩きなさい。あと、カレーなんて十秒で説明できるぐらい簡単だから、当日ぶっつけ本番でじゅうぶん」
すたすたと先を歩きながら、聡は肩越しにふりかえった。いたずらを仕掛ける子どものような笑顔だった。
情動の幅が狭い超能力少年の、ほんの少しだけ見せる素直な表情。
「四季は優しいよ、やっぱり」
聡は静かに言った。
「誰かのために作ってあげたいって、そう思える心がいとおしい」
「いとおしいって……何それ恥ずかしい」
私は情けないやら、嬉しいやらで顔がゆがむのを感じながら、それでも笑ってしまった。「とりあえずクレープな」と言って先を進む聡の背中を、少し軽い鞄を肩にかけなおし、やはり私は走って追いかけた。
長身なので嫌にスラッとして見える、いつも通りのその背中。いたずら心が湧いたか、あるいはやられっぱなしなのが悔しくて、私は走るスピードをあげて聡を追い抜いた。
ふりかえって、ポカンと口をあけている聡に向けて舌を出す。
じゃがいも、にんじん、タマネギ、牛のサイコロステーキ。あとはもちろんカレールウ。それだけで出来てしまうことは知っていた。五人分がどういうものかよく分からず、とりあえずスーパーで一袋ずつ、牛肉は五百グラムを買ってきた。多いんじゃないかと悩んでいると、
「まあ、カレーって余らせるぐらいがちょうどいいし」
台所にごろんごろんと野菜を並べる私に、京が言う。「なんで?」と私が尋ねると、彼女はふふんと鼻を鳴らした。
「カレーってのはね、作りたてよりも日を置いたほうがおいしいんだよ。余ったぶんを冷蔵庫に入れといて、あとでまた温めなおして食べても絶品すぎる」
「えー、そんな裏技があるんだったらもっと多めに作っとこう」
「あたし、鍋ごとおいといて、次の日そこに出汁まぜてカレーうどんにすることが多いよ」
なんだか、それっぽく料理の話をしている気がする。それが嬉しくて、京さんと台所でふたり、あれやこれやと話してしまった。ダイニングでは聡が母と雑談をしている。
日曜日、就活の休憩を兼ねて兄を実家に誘った。今回は聡にも京にも手伝ってもらわず、私ひとりで作る。まだ包丁の使い方がおぼつかないので京が隣で監督することになったが、絶対に手を貸さないように頼んだ。それを聴いて京は面白そうに笑い、どこから持ってきたのか絆創膏を私の目の前にちらつかせた。……絶対に出番なんかやらん。
じゃがいもとにんじんを洗って切るところまでは、今まで聡を手伝ったときに何度かやったことがあるのですんなりできた。だがタマネギを切っている途中で、当然だが目の奥がヒリヒリと痛くなり、滝のように涙を流した。「痛い痛い痛いー!」とわめいてハンカチで何度も目を拭い鼻をすする私を、母と聡はダイニングから笑い飛ばした。うう、悔しい。聡が隣で切っているときはなんともなかったのに……どんな裏技だ。
深手の鍋を強火で高温にし、牛肉を入れて表面をさっと炒める。いったんそれを皿に取り、同じ鍋に野菜を投入。油がまわったころを狙って牛肉を戻し、出汁を加える。牛肉を先に炒めて取り出すのは聡の提案だ。サイコロステーキなので、牛肉の表面を一気に強く焼き内側は煮込んで火を通すことにより、外はしっかりと、だが中はやわらかいままになる。肉汁も逃げない。彼好みに作ろうとは思っていないが、料理がうまい人の意見は素直に取り入れたい。醤油と料理酒を入れて、京の勧めでウスターソースも混ぜる。
ただカレールウを溶かせばいいのだと思っていた私は、京や聡の勧めるイレギュラーな調理法にとまどった。カレーはシンプルで誰にでも作れるので、料理に慣れた人たちがどんどん自己流のアレンジをして独自に進化してゆくものだとそのとき分かった。確かに、ネットでレシピを調べようとしたら、世の主婦たちが編み出した進化型カレーの多さに驚いた。
本物の「料理ができる人」とは、レシピどおりに作れるだけでなく、すでにある料理を自分流に改造できる人や、冷蔵庫にあるものだけを使って即興でさらっと創作してしまえる人のことをさすのだと思った。そしておそらく、聡と京がそれだ。
「なんか、子どものころの調理実習を思い出すなあ」
改めてそんなデフォルトなカレー作らないから、と京が言う。そりゃそうだ、私は基礎からやり直しているのだから、彼女や聡にとっては逆に基本料理ばかりになってしまう。カレーしかり、味噌汁しかり。
「どんなのが出てきても、ちゃんといただきますとごちそうさまは欠かさないから」
「そりゃそうだって」私は笑った。今となってはどちらも習慣づいている。
「ほら、いただきます言わない人多いから。給食費払ってるんだから全員でいただきますとか言わせるなって言う親もいるんだから」
「うわ、それは嫌だ」
「私も聡も、絶対に『いただきます』『ごちそうさま』を言うようにしてるの。それは作ってくれた人に感謝する意味も込めてるけど、明日の自分を作るぜんぶに感謝するための言葉なんだよ。料理って、まがりなりにも生き物を殺して、大事な命をいただくものだからね。残しちゃ駄目なんだよ」
「命をいただく……」
「牛や豚の解体を見ちゃうと、申しわけなくなる気持ちも分かるんだけどね。でも生き物みんな誰かを犠牲にして生きてるんだよ。それは別に悲しいことでも、愚かなことでもない。その動物が見るはずだったもの、聞くはずだった音、感じるはずだった感情をぜんぶひっくるめてかかえて、せいいっぱい生きていく。自分一人が不幸だと思ったり、誰の助けも借りないとか言っちゃだめ。毎日のごはんで、しーちゃんは必ず他の何かの命に助けられながら生きてるんだよ。大切な命を自分のものにして毎日一歩を踏み出すんだから、ありがとう、って言いながら食べる。だから、いい加減に生きちゃだめなんだよ。胸を張って、笑って、みんなが生きているこの世界を何回もころびながら歩いていくんだ」
京は笑って鍋を指さした。おいしそうな色に染まった牛肉は、ルウとからまって私を誘惑する。早くも生唾が出てきた。
大切な命のための「いただきます」と「ごちそうさま」。
作った人と、自分の身体の一部になる世界じゅうの命への感謝。
――誰かが料理してくれたごはんを食べて、明日も前を向いて歩いていけるように。
私はおそるおそる灰汁をとり、市販のルウを割って溶かす。焦げないように鍋をかきまぜながら、「京さんは」と言う。
「料理上手になりたいって、やっぱ思う?」
「それ、まんましーちゃんの願望だよね」
図星でした。
「うーん、うまくなりたいっていうより、せめて『料理ができます』って言えるぐらいには作れるようになりたいんだよ。自分の好物とか特に」
「ああ、分かる。あたしも外国で自炊してるうちになんか即興料理みたいなのはできるようになったけど、もうちょい箔つけたいよね。料理のできない人って呼ばわられるより」
でもね、と京が言う。聡と同じように、目を切なげに細めて。
「結局、スキルとしての料理なんて練習すれば誰だって身につくんだよ。家庭料理ぐらいはね。ただ、冗談みたいな話、愛情という名の隠し味はレシピには絶対載ってないのだ」
私は、失礼ながら思わず笑ってしまった。京も笑う。
「なるほど、隠し味ね」
「そう。おいしく食べてもらいたい、しあわせな気持ちになってもらいたいっていうのは、やっぱり気持ちのこもった料理にしか入ってない味わいなんだよ。焦げてようが形が変だろうがいいの。人の心を優しくするのはおいしい料理じゃなくて、言葉がなくても気持ちが見える料理なんだよ」
ほんの数百円の、誰が作ってくれたとも知れないから揚げ弁当に不覚にも涙した私。お金を断固として受けとらなかった聡。放課後に食べるクレープや、自販機のコーヒー牛乳とフルーツオレ。初めて包丁を持って作ったラザニアと、それを食べてテンションがあがったお母さん。ぐちゃぐちゃになったお弁当。京が喜んでくれた冷やし中華。聡がていねいに食べて、また作ってきて欲しいと言った、初めて自力で作ったおにぎり。鉛筆の削りカス入りのお弁当を完食した聡。母親が撮った紛争地の写真を見て目覚めた聡の優しい超能力。消しゴムのカスが入ったお弁当をかかえて泣き、ただひたすらに謝っていた佳山。彼女を大輪の花のような笑顔にした、ひと粒のチョコレート菓子。
当たり前のようにある食べものが、一本の脚本を作るように人の心を複雑に動かす。ぐるぐるとつながって、世界じゅうの人たちを常に巻きこむ物語。じっくり煮込んだあたたかいスープのように、胸の奥をそっと包みこむぬくもり。
それを知ったから、私はもう……忘れたくないだけなのだ。
玄関のほうから鍵穴が回る音がした。母が立ちあがって、ドアをあけて入ってきた人に「おかえりなさい」と言う。リヴィングに入ってきた兄は、連日の面接ですっかり疲れ切った顔をしていた。母に似て陽気だったはずの彼は、手をあげて「よう、四季」と笑っていたが、疲れは隠せていない。
聡と京が兄に自己紹介しているあいだに、私はカレー皿に盛ったごはんの上から、お玉ですくったカレーをかけた。うまくできた気がする。野菜も煮崩れせず、牛肉もやわらかい。とろっとしていて、熱くて、おいしそうで。
「ものっそいカレーの匂いがする」
兄がキッチンをのぞきこんだ。私は兄のぶんのお皿を差しだして、「これがお兄ちゃんのぶん」と言って笑った。できたてのカレーを前に、兄の表情がぱっとはなやいだ。
「これ、四季が作ったのか? すっげえ! うまそう!」
皿をかかえてうきうきでテーブルについた兄を見て、私はこみあげる笑顔をおさえられなかった。聡がそんな私を見て楽しげに笑っているので、ふふんと鼻を鳴らして胸を張った。全員分の皿がテーブルに乗り、五人そろうが否や、いきなりスプーンを持って食べようとする兄の鼻先にびしっと人さし指をつきつけた。
「お兄ちゃん。先、いただきます」
兄はあっけにとられ、だが照れくさそうに笑って「確かにそうでした」と言った。小学校の給食のように全員で手を合わせる。作り主である私は、めいっぱい「いただきます!」と声をはりあげた。兄、母、京、そして聡がそれにつづく。
中野家の長女が初めて作った、やけどしそうなほど熱いカレーをスプーンに山盛りすくい、全員ほぼ同時に食べた。
母と兄が感嘆の声をあげ、京が熱がる。聡は口元をおさえて苦笑していた。
辛くて、熱くて、とろっとしていて、母の作ったものに負けないと思えるほどおいしくて、いとおしい。
笑顔が、花火のようにはじける。
私は声をあげて笑った。
終
馬鹿正直なチョコレート 真朝 一 @marthamydear
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