『あの人の名は。』
維 黎
第1話
ご近所さんに子供たちから「知恵おばさん」と親しまれている人がいる。名前はテリー知恵さんというらしい。
知恵さんはテリー家の一階部分を改築して英語教室を開いているようだ。
年の頃は30代半ばといったところ。
正直、その年ごろの女性に面と向かって「おばさん」なんて言おうものなら、世界の半分を敵に回してぶっ飛ばされるだろうことは、想像に難くないのでやめておくことをお勧めする。
それは子供という特権階級のみが許される呼び方だ。
まぁ、小学生の低学年ほどの年ごろから見れば、20代男性だって立派なおじさんと呼ばれる歳だろう。
ところで最近の若者――と言える年齢かは微妙だが――の例にもれず、ご近所のことはあまり知らない。最低限、町内会の回覧板が回って来る
その程度のお付き合いなので、当然ながらご近所の家族構成など知る由もなし。威張っていうことでもないが。
閑話休題。
思っていた以上にご近所には子供が多く、日によっては結構賑やかで時々見かける
英語教室ことテリー家はⅩ字の交差点の真向かいにあるので様子がよく見えるのだ。
知恵さんってば人気者。
全盛期の梨の精霊を彷彿とさせ――あれ? 妖精だっけ? ま、どっちでも。
前から知恵さん――テリー家に関してちょっとした謎というか、不思議に思っていることがある。旦那さんのことだ。
下の名前――ファーストネームを存じ上げないのだが、テリーさん。どう見ても欧米人には見えない。こってこてのアジアンフェイスをしてらっしゃる。
もちろん、日系だったりアジア系アメリカ人って可能性も十分にある。しかし――。
これは多分に偏見が入っているのかもしれないが、アジア系アメリカ人が話す日本語はカタコトだったり、イントネーションが違ったりする人ばかりだと思っていた。
ところがテリーさん。流暢な関西弁をしゃべるもんやから、ちょっとびっくりすんねん。ホンマ、ネイティブ関西やねん――って、いかん、いかん。思い出したらテリーさんの関西弁に引っ張られてしまった。
ともかく、何かと国際結婚のご夫婦には見えないのだ。
※※※※※
Ⅹ字の交差点は生活道路とはいえ、そこそこ車は通る。
夜遅い時間などはあきらかに危険な
「Be Careful!」
知恵さんが生徒の子どもたちに注意をうながす。
土曜日の昼下がり。相変わらず知恵さんは子供たちに囲まれて輪を作っている。
知恵さんが作る輪はいつも賑やかで、笑顔いっぱいで見ている者としては実に微笑ましい。
「せやで! ケアフルやで!」
……いや、回復呪文じゃないんだから。
旦那さんは先生じゃなく、事務方なんだろう、きっと。
「ねぇ! 知恵おばさんは英語が上手のに、どうしておじさんは下手なの?」
生徒だろう子供の一人がそんな疑問を口にする。
「同じく」と激しく言いたい。
そして、こうも言いたい。子供よ。なぜ知恵先生ではなく、知恵おばさんなんだ――と。
「おっちゃんな、大阪っちゅーとこで生まれ育ったねん。大阪の人間はな、みーんな英語しゃべられへんねん」
とんでも発言を平然と口にするテリー
純粋無垢な子供たちに何てことを言うんだ、あんたは。ウソを吹き込むんじゃない。
「Good By」
「グッバイ!」
「ぐっどばい」
「GoodBy」
そうこうしているうちに、子供たちから挨拶の声。
たどたどしい発音が多い中、妙に流暢な発音をする子供も中にはいたりする。
この英語教室が何時から何時まで授業があるのか、休みはいつなのかはよく知らない。ただ、大人の生徒は見かけないことから、子供向けの教室だろうとは想像する。
住宅街の個人教室だ。そうそう大規模なものはやらないだろう。
大半は近所の子供たちと思われるが、たまに今日のような土曜日なんかには、迎えに来る母親らしい女性をちらほら見かける。もしかしたら隣町――とはいわないまでも、隣の地区から通う子もいるのかもしれない。
「――いつもありがとうございます、先生。うちの子、ご迷惑をかけていませんでしょうか?」
「いえいえ。
迎えに来た母親と知恵さんとの他愛ない会話。が、その母親の別れの挨拶にちょっとした違和感。
「――それでは、テルイ先生。またよろしくお願いします」
母親に手を引かれて智くんも知恵さんに手を振っている。
はて?
――後日――
キーボードを打つ手を止めて
窓の外からは蒼天の空と、いつもと変わらぬ英語教室の玄関先の風景。今日も知恵の周りには子供たちの輪が出来上がっている。
実家に戻ってはや二か月。
元々大病を患っていた父はともかく、最近では母も腰を悪くし思うように身体が動かないとの話を聞いて、このご時世もあり維黎は思い切って希望退職を決意。
幸か不幸か独り者の身ゆえ、悠々自適――とは言わないがこの先の将来はともかく、今のところは明日の生活を気にすることもない身の上。
今のところ時間的余裕を持て余し、維黎は登録していた小説投稿サイトで『ホラー』or『ミステリー』というお題の短編小説を書いていた。
今まで定期的に実家に帰って来ていたので街の様子は知っているが、隣近所の町内会となると心もとない。とはいえ、別段焦る必要はないと維黎は思っていた。徐々に知っていけばいいと。
そして最近、一つ知ったことがある。
斜め向かいにある英語教室を開いている方の名前は、テリー知恵さんではなく、
維黎が不思議に思っていた謎は解けた。二人は国際結婚した夫婦ではなく
わかってしまえば謎でも何でもなく、単に維黎の勘違いだったというだけのこと。
窓から入って来る心地よい風に目を細め、維黎はポツリと呟く。
「知恵さんは結婚してなかった――これがほんとのミス
――了――
『あの人の名は。』 維 黎 @yuirei
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