悪薬は口に甘し

真摯夜紳士

悪薬は口に甘し

「今回、皆さんに治験ちけんしていただく薬品は、抗うつ剤となっております」


 事前検診の時から思っていた違和感が、徐々に形を成していく。


 いつもより治験の拘束期間が長いこと。

 それを加味しても余りある報酬の良さ。

 初めて聞く製薬会社。

 総合病院というよりかは、どこか研究所チックな、割り当てられた個室。


 で、この前振りだ。


「考えられる副作用として、気持ちの浮き沈み、軽い目眩や幻聴といったもの。もちろん第Ⅰ相試験ですので、症状としては弱くなると思いますが……」

 

 金目当てに今まで色々と試してきたけれど、抗うつ剤の類は初めてだった。入院自体はあっても、個室まで用意されたのも初めて。

 全く不安が無いかと言えば嘘になる。

 けれど……まあ考えようによっては、またとない稼げるチャンスだ。


 治験というのは、健康で暇を持て余した大学生にとっては神のようなバイト(もといボランティア)だ。実際、俺を含めて検診に集まったのも若い人が多い。

 新薬の臨床試験――と聞けば物怖じするが、実際は寝て過ごすだけで、得られる額は高収入。どれだけ卑屈ひくつな性格だろうと、関係なくもうけられる。とりあえず衣食住には困らない。まさに神バイト。投薬後の採血ラッシュに耐えられるなら、これ以上の条件は他に無い。


 澄ました顔の女医が、入院後のスケジュールを事務的に話していく。

 一通りの説明を終えたのか、最後に冷めた目で俺の方へ向き「どうされますか?」と訊いてきた。

 答えは考えるまでもなく決まっている。

 俺は四ヵ月振りに、その台詞を口にした。


「参加します」


 これから二週間、俺は製薬会社のモルモットだ。



***



 初日は薬に対する説明と、入院中の行動制限や、食事睡眠等の時間割りを再び聞いた。

 女医の抑揚の無い口調が、するすると頭の中に入っていく。内容自体は他の治験と変わり映えしない。慣れ親しんだものだ。


「質問はありますか?」

「大丈夫です」

「そうですか。では何かありましたら、来室時か待合所にある電話でお知らせください」


 そう言って病室を出ていく女医。まるで老舗旅館のような受け答えで、少し笑ってしまった。こっちの方が金を貰う立場なのに、至れり尽くせりだ。

 いよいよ明日から投薬が始まる。それ故、激しい運動と飲酒は御法度ごはっとだ。逆を言えば、それ以外は自由の身となる。


 ようやく一息ついた俺は、改めて病室の中を見回した。

 白を基調とした壁と天井、備え付けのロッカーと質素なテーブル。テーブルの上には小型テレビが置かれており、下のスペースには無駄なく冷蔵庫が収まっている。それと安っぽそうなゴミ箱と、丸椅子が一つ。


 やはり目を引くのはベッドで、枕元の周囲と足元に手すり柵が設けられている。ナースコールの類は付いていない。室内は適温で常に換気もされていた。他の治験で味わったカーテンで仕切られただけのタコ部屋と比べたら、天と地ほどの差だ。

 二週間と言わず、飽きるまで暮らしたいと思った。


 簡単に荷下ろして、俺は窓の方へと向かう。アルミ製のブラインドを上げると、外は一面が緑色の田畑が広がっていた。見ているだけで蒸し暑さが伝わってくる。何かの気の迷いくらいでしか、もう外を覗くことは無いだろう。俺はブラインドを下ろした。


 ロッカーから水色の検診衣を取り出して着替える。ゆったりとパジャマのような着心地。微かに柔軟剤の香りが鼻につく。


 さて、夕食まで暇になった。ここからは参加者によって個性が出る。持ち込んだポケットWi-Fiに繋げてパソコンやらスマホで時間を潰したり、読書にふける人も居るだろう。

 俺はバッグからノートと筆記用具を取り出して、テーブルの前に座った。丸椅子の座り心地は悪かったが、そこまでの贅沢を言ったら罰当たりだ。


 ノートを開いて、より詳細に『今回の治験について』を書きつづっていく。入院時の流れや、部屋の内装に至るまで。これも立派な飯のタネだ。


 初めは体調管理に書き始めた日記だったのだけれど、途中で『これをメディア化すれば儲けられるのでは?』と考えた。

 実際、治験に関する動画やブログはわずかだが作られており、まだまだ開拓の余地がある――たがやしがいのある畑だ。こうして治験を受けるだけでも金になるし、さらに自らの体験を記録することで後々にも活かせる。あざといようにも思えるが、これで治験の参加者が増えれば、それはそれで社会貢献にもなるだろう。

 一石二鳥。いや、それ以上のメリットだ。やらない手はない。良い暇潰しにもなるしな。


 夢中で書き連ねること一時間半、一回目の夕食が運ばれてきた。

 容器がプラスチック製の弁当だ。食べ終わったら割り箸と一緒に、部屋のゴミ箱に入れろということらしい。

 問題となる中身を見て……俺の口角は自然と上がった。

 当たりだ。コンビニのハンバーグ弁当を、さらに豪勢にしたような感じ。食事制限が無かったので察していたのだけれど、期待以上の物が出てきた。これは明日以降も楽しみで仕方がない。上手いか不味いか振り切ってくれると、食レポも筆が進んで助かる。


 さっさと食事を済ませ、シャワーの時間まで寝転がっていると……廊下の方から、足音と声が聞こえてきた。


「だから言ったろ? 大したことないってさ」


 若い男は声を弾ませ、誰かと話しているようだ。ここが病院だということも忘れているらしい。他の患者に迷惑だとか考えないのだろうか。


「今回の薬だって、ほとんど症状は出ないって。心配すんなよ、な?」


 そうやって励ましながら、その声は部屋の前から離れていった。

 俺と同じ大学生だろうか。知り合い同士で治験に来るなんて珍しいこともあるもんだ。

 人付き合いが苦手な俺には関係ないことだが、そういう時間の潰し方もあったのかと、また勉強になった。これもノートに書いておこう。


 シャワーの時間になったので、着替えと最低限のアメニティを持って、浴室へと向かう。

 どこか迷い込んだように長廊下は静まり返っていた。病院ということも相まって、いかにもな雰囲気だ。

 他の治験では看護師やらが世話しなくしていたものだけれど……やはり、この病院は勝手が違うらしい。とはいえ金さえ貰えれば何だっていいんだが。


 そうこう考えている間に浴室へ着いてしまった。

 浴室は三つに区切られており、それぞれカーテンで入り口を閉めている。上には大きくアルファベットのABCが並んでいた。俺に割り当てられたのはCだ。カーテンを開け、覗かれないように隙間なく閉める。検診衣と下着を脱いで洗濯カゴへ押し込み、さらに奥の中折れドアの先へ。

 浴室の中には風呂椅子とシャワー、それと全身シャンプーがあった。本当に至れり尽くせりだ。わざわざ家から持ってこなくても良かったな。


 蛇口を捻る寸前、隣の浴室から水音が聞こえた。他の治験参加者だろうか。気まずい。どうせ一期一会の共同生活なら、人付き合いなんて無意味だ。なんとかはち合わせしないように出なければ。

 身体と髪を洗って、ついでに歯磨きも済ませる。用意されたバスタオルで拭いていると、隣からは何の音もしなくなっていた。

 ほっと一安心してカーテンを開け――思わず表情筋が固まった。


 検診衣を着た、同い年くらいの若い男が壁に寄りかかっている。

 湿った茶髪を七三で分け、人懐っこそうな整った顔立ちだった。

 目と目が合う。


「あ、どもです」

「……どうも」


 オウム返しのような挨拶をして、俺は足早に個室へと戻った。特に引き留められることもない。

 わけが分からない。休むなら個室の方が落ち着くだろうに。

 あの男、湯冷めするのでも待っていたんだろうか。


 個室に帰って、一日の出来事をノートに記録する。しばらくして夜の九時になり、強制的に消灯された。

 田畑が近くにあったからか、眠るまで鈴虫の音色が耳に張り付いていた。



***



 入院二日目の朝。

 昨日、説明された通り朝食はらず、代わりに血圧測定や心電図検査の診察があった。

 前準備が終わると、本題の錠剤を渡された。

 青いカプセルを口に含み、水と一緒に飲み込む。実際に効果が出てくるのは十五分後くらいだろう。


 採血は九時半から十三時までを三十分間隔で行う。つまり計七回だ。これが治験の唯一と言ってもいい苦痛な時間だろう。一回当たり、抜かれる血は大さじ一杯分ほどで。問題なのは刺される腕だ。

 同じ場所に注射されると血が固まって刺し難くなるらしく、微妙に位置を変えながら針を入れられた。こればっかりは何度繰り返しても慣れない。終わった頃には、ぐったりだ。


 少し遅めの昼食は相変わらず豪華で、朝食を抜いていた分、とても美味しく感じた。

 午後の採血もとどこおりなく。今のところ薬の副作用の症状は見られない。


 あっという間に日が沈み――夕食も平らげ、病院の住み心地にも慣れてきたものの。

 一つ、新たな問題に出くわした。

 空になった弁当を捨てるも、個室内のゴミ箱は容量が少なく、およそ三食分で溜まつてしまうようだ。これは共有スペースである待合所に持って行かなければ。


 まだ弁当が配膳されてから、そう時間は経っていない。誰にも会わないように捨てるなら今だ。

 俺は重い腰を上げ、ゴミ箱を片手に待合所へと向かった。


 長い廊下の突き当たり。待合所にはロビーチェアが並んでおり、壁際に大きなはゴミ箱の捨て場があった。

 どうやら早弁なのは俺以外にも居たようだ。

 よりにもよって浴室で出会った男が、弁当の空箱を捨てていた。俺の足音に気付いたのか、ふっと横目で視線を交わす。


「あ、昨日の……」


 やめろ。話かけてくるな。面倒くさいじゃないか、全く。

 下手に無視するわけにもいかなくなったので、それこそ昨日のように「どうも」とだけ返した。

 淡々とゴミを分別しながら移し替え、その場を去る。いや去ろうとした。


「お兄さん、ここに来るの初めてっすか?」


 背中に声がかかる。どういう意味だろう。


「そうですが」

「だと思った。見ない顔ですもんね」


 男の発言に、ますます怪訝けげんになっていく。俺は素通りするのを諦めて後ろへ振り返った。


「君は?」

「常連っすね。ここの治験、めっちゃ条件いいじゃないっすか。飯は出るし、給料も高いし。もう最高。言うことないっすよね」


 それには大いに同意するけれど……普通、治験で参加者同士が交流するなんて聞いたことが無いのだが。


「俺以外もリピーターが多いんすよ、ここ。なんか四か月ぶりに集まる同窓会みたいな感じで。ほとんど顔見知りだったんすけど、お兄さんは初顔だったもんで」


 そんなに常連が多いのか。事前に知っていれば断っていたかもしれない。

 ああ、思い出した。どこか聞き覚えのある声だと思っていたら、初日に廊下で話していた奴か。見た目通りの陽気そうな男だ。


「君、大学生?」

「フリーターっすね。治験こっちが美味すぎて辞めちまいました。健康な内に稼ぎまくりたいっす。お兄さんは真面目っぽいし大学生っすか?」

「まあ一応は。そうだ、ここの病院に詳しいなら教えて欲しいのだけれど、この先を曲がったところってトイレ?」

「あー、ですね」

「ありがとう」


 手短に切り上げて、俺はトイレの方へと歩き出す。

 最小限の人付き合いで済むから選んだバイトなんだ、自ら進んで絡む気もない。


 トイレで適当に手を洗って、少し間を置いてから個室へ戻ろう。

 幸い、トイレには人気がなかった。夜の病院、それにトイレというシチュエーションは不気味さを感じたが、一時の感情だと思って我慢する。ついでに用も足しておくか。

 もう十分な時間稼ぎは出来ただろう。

 それなのに――まだ、あの男が待合所に居た。


「お兄さん、トイレに俺の友達ダチって居ませんでした?」


 だから話しかけてくるなって。


「見てない。というより誰も入ってなかったけど」

「マジかよ、あいつぅ……そこそこ待ってたのに! すんません、あざっした」


 軽く会釈する男は不機嫌そうに、今度こそ待合所を後にした。昨日の浴室で手持ち無沙汰にしていたのも、もしかしたら友達のことを待っていたのかもしれない。

 これだから友人なんて面倒なんだ。作るもんじゃない。

 ……俺も帰ろう。無駄に疲れた。



***



 入院十日目の夜。

 食事、採血、就寝のルーティーンが変わらず続いている。

 これだけ長いこと入院生活をして気付いたのだが、ノートに書くネタも底をついてきた。食べ物のバリエーションと、あの男とニアミスして二言三言くらい会話した内容が関の山だ。何か薬の副作用でもあれば盛り上がるものの、これといった反応も無い。


 求めていた退屈も、与えられ過ぎれば毒になる。これも汗水たらして働く人間にとってみれば、贅沢な悩みなんだろうな。


「そろそろシャワーの時間か」


 身支度を整え、個室を出る。と、長廊下の先には男の姿があった。

 いや……いい加減、避けるのも限界だろう。取って食われるわけでもないし、いつも通りの挨拶で終わらせればいいか。


 男の後を追って浴室へと入る。陽気な男は初日のように、壁に背を預けていた。何か思い詰めているような、不可解な表情をしている。


「あ……お兄さん」

「どうも。いつになく元気が無いな。腹でも壊したか?」

「お兄さんこそ、今日は口数多いっすね」


 確かに。らしくない。退屈の余り、おかしくなったようだ。

 苛立ち交じりに鼻を鳴らして、俺はCと書かれた浴室のカーテンを開け――


「ちょっと待ってもらっていいっすか」


 男の制止に手が固まる。こんな風に呼び止められたのは初めてだった。


「何か」

「本当すんません。友達、来るの待ってもらっていいっすか?」

「なんで俺が」

「お兄さん。あいつと会ったこと、あります?」


 考えるまでもない。俺が病院内で出会ったのは、この男と採血に訪れる女医だけだ。

 けれど、それは基本的な生活は個室内で完結するからで。

 それだけで、他の人が居ない証明にはならない。

 男は、ぽつりぽつりと、うわ言のように呟きだした。


「俺、よく待合所とかで他の参加者と世間話するんすけど……なんか、お兄さんの話が出てこないなって。それで不安になったっていうか。毎日、薬も飲んでるし」

「言っておくが、俺は妄想の産物じゃないぞ」

「ですよね。でも、それじゃ納得できないっていうか」


 気味の悪い話だ。ひょっとしたら、からかわれているのだろうか。煮え切らない態度の男にも腹が立つ。


「……わかった。付き合ってやるよ。あと十分だけな。ただし、疑いが晴れたら必要以上に絡まないでくれ」

「あざっす! マジ助かります!」


 花が咲くように明るくなった男。演技にしては臭すぎる。単なる思い過ごしか。

 男と同じように壁を背にして、俺は呆けながら浴室を見ていた。

 アルファベットのABC。俺と男がBCを使っている以上、大方もう一人がAを使っている友達なのだろう。


 しかし、こんな狭い空間で他の参加者と出くわさないことなんてあるのだろうか。

 シャワーの時間帯は決まっている。どんなに早く使っても、姿くらいは見ても不思議じゃないはずだ。


「なあ……そういえば初日は、友達と会えたのか? ここで待ってただろ」


 そう問いかけると、男は不審そうに首をかしげた。


「あれ? あの日は……ああ、お兄さんとで」


 言いかけて、止まる。

 それは変だ。なら俺が気付かないわけがない。浴室までは一本道のはずだ。


 空気が凍る。のどが締まって、息苦しくなっていく。

 俺より顔を青ざめる男。必死に何かを打ち消しているかのようだった。


「お兄さん。俺……おかしいんすかね?」


 震えた声で、下手に笑って見せる男。七三分けした隙間から、汗がにじんでいくのがうかがえる。


「落ち着け。名前は。思い出せるか? 友達だけじゃない。誰か他の参加者でもいいから」

「え? え? あの、あのぉ……ほら、ほらぁ! ちょっマジ、何なんだよ、これぇ!」


 異常だ。

 治験どころの騒ぎじゃない。

 いや、俺も例外じゃないのか。

 毎日、欠かさず飲んでいた薬は、一体。


 俺は何もかもから逃げるように、浴室から出て行った。最短で個室に戻り、荷物を全て鞄に詰める。

 頭の中では警鐘が鳴り響いていた。

 ここは『まとも』じゃない。これ以上は、耐えられない。

 命は金に換えられない。


 病院の長廊下を走る。急いで階段を駆け下りる。心臓が張り裂けそうだ。一階の非常口が目に入り、そこから俺は外へ出た。


 暗闇の田園地帯は、わずかな明かりすらなく。

 構わず俺は、治験という存在から逃げ出した。



***



 あれから数週間。

 製薬会社や治験紹介サイトから送られてくるメッセージを全て無視して、なんとか日常に戻ってこれた。

 最近では夜も眠れるようになったし、唐突に叫びたくなることもない。これだけ時間が経てば副作用だって起こらないはずだ。大学生活も至って順調そのもの。


 あれは悪い夢だったのか――そう思うこともあったのだけれど、いくつもの物証が打ち消した。

 改めてノートを見返して、気付いたことがある。


 明らかに採血の量と頻度ひんどが多かったことと、食事のバランスだ。

 何の疑いもせずに食べていたメニューは、貧血予防の食材ばかりだった。

 後々になって調べてみると、俺が貰うはずだった治験の給金より、『抜かれた血の値段』の方が高かった。

 それを何に使うつもりだったのかは、想像もしたくない。

 抗うつ剤と言われていた薬も、はたして何の成分が入っていたのやら。


 世の中、美味い話なんて無かったんだな。

 真面目にコツコツと、汗水たらして働く方が性に合っていたんだと思う。


 あ、そうだ。

 大学に戻って良かったことが一つある。


 こんな卑屈ひくつな俺にも、新しく友達が出来たんだ。

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