第32話

 ああ。そんなことって!そんなことって!

 こんな恐ろしい秘密、とてもリリンカには言えないわ!

 私は一体どうしたら良い?


(アンシェマの寝室、書き物机に隠された走り書き)


◼️◼️◼️


 戦艦『ポーピア』は数隻の船を引き連れ華々しく王都に凱旋した。

 出航から約二か月後、リリンカは与えられた任務を全うし、無事の帰還を果たしたわけである。

 海賊の根城において、四人の魔女たちは予定どおり粛々と島を蹂躙し、捕虜となっていた『テルカリス』や、他の船の乗組員たちを救出した。

 そのうえでついでとばかり、係留されていた『テルカリス』のほか、海賊の保有していた船も、助け出した船員たちで動かせる限り分捕ってきたのだった。

 そういった戦果の報告や、さまざまな手続きと雑事を済ませて帰宅を許されるまでには、王都の港に上陸してからさらに数日を要した。

 もちろん、帰還の知らせそのものは上陸当日のうちに送っているので、リリンカが屋敷へ帰る日もあらかじめ伝えておくだけの余裕があった。


 魔法連隊の用意した馬車で送り届けられたのはリリンカの私邸ではなく、ルブリック伯爵家の王都の屋敷タウンハウスだ。

 ユランナは実際には隠れ家で生活していたはずだが、表向き伴侶の実家に預けられているというていであったので、出迎えるにしてもそちらでなくては理屈が合わない。リリンカ帰宅の予定に合わせ、前夜のうちに、秘密裏に移動を済ませている手筈であった。

 しかし車寄せで馬車から降りたリリンカは、実家の様子が普段と違うことに気づいた。

 いつもなら使用人が幾人か、すぐさま飛び出してきて出迎えるところだが、今日は扉を開けた古参の従僕一人だ。それになんだか、屋敷全体の雰囲気が静かである。時刻は夕方近くだったが、まるで真夜中のようだ。

「皆は出かけているのか?」

「はい、実はそうなのです」

 従僕は差し出された軍帽をうやうやしく受け取り、事情を語った。

 曰く。

 リリンカが帰宅する知らせは、前日の朝に届いていた。しかし彼女が王都の港に上陸する一週間前のこと、なんと王妃からルブリック伯爵家一同、揃って昼食会へ招待されたというのだ。

「では今家に残っているのは、キャルスンと……」

 王宮からの招待に応じなくても許されるのが誰であるか考えを巡らせたところへ、玄関ホール正面の大階段の上から、大人の駆ける足音が響いてきた。

「リリンカさま……!」

 見上げれば、淑女の品位を保てるぎりぎりの歩調と裾捌きで、ユランナが飛ぶように階段を駆け降りてきたところであった。

「やあ、ただいま帰り……っ」

 全て言い終わらぬうちに、あっという間にたどり着いたユランナがぶつかるような勢いで抱きついてきた。

 リリンカは同年代の令嬢の中では規格外に頑丈で体幹もしっかりしているのだが、それでもユランナの勢いを受け止め損ねて、後ろへよろめいた。転ぶ、と刹那体に緊張が走るがそれは杞憂で、背に回された長い腕に危なげなく支えられて、そればかりかふわりと床から足が浮いた。

「え……ちょっ、ユランナ?!」

 気づいた時にはユランナの肩に抱き上げられ、階段を登っていずこかへ運ばれているところであった。

 なんだ……?

 いったいなにが起こっているんだ?

 リリンカはユランナの肩に腹を乗せられていて、相手の顔は脇腹のあたりにあった。体を捻ってみても帽子とレースに覆われた頭が見えるばかり、無言で、一心に足を運んでいることだけがわかった。

 吹き抜けの玄関ホールを見下ろせば、従僕が呆気に取られて立ち尽くしている。

 どうやら、使用人たちの食事時の噂話に格好の題材を提供するはめになりそうだ……リリンカは諦観の念とともに、ユランナが運びやすいよう自分も腕を回して体勢を整えたのだった。


 果たして、連れて行かれた先はユランナにあてがわれた客用寝室であった。まあそこ以外にはあるまい、リリンカの留守の間ルブリック伯爵家の王都の屋敷タウンハウスに滞在していたというのはあくまで方便、なれば初日と昨夜に案内されたこの部屋の他、屋敷の中の勝手などわからないはずだ。

 室内に入ってすぐのところで素早くリリンカを降ろし、ユランナは後ろ手に扉を閉めた。それから再び長い腕がこちらに伸びてきて、しゃにむに抱きしめられるに至って、リリンカは普段は物静かな伴侶の大きな体躯の中に潜んでいた、思わぬ激情に気付かされたのだった。

 かわいいひとだなあ、と思いながら、興奮した大型犬めいたしぐさで肩を押し付けてくるユランナの背に自分も手を回そうとしたところ、今度はなぜか、ハッとした様子で体をもぎ離される。

 なんだろうと顔を上げると、ユランナは素早くあたりを見まわしてから、数歩奥にある長椅子へリリンカを導いた。それどころかまたしてもさっと抱え上げられ、腰を下ろしたユランナの膝の上に横抱きで座らされる。

 次いで長椅子の上にあったクッションのうち一つを胸の上に置かれ、なぜかそれを二人の間に挟んだ状態でぎゅうと抱きしめられたのだ。

「ご無事で、よかった……心配していました、お会いしたかった」

 ため息のように低くユランナがつぶやく。

「リリンカさまが私の知らないところで危険な目に遭っているのかと思うと、たまらなかった」

「こうして無事に帰ってきました。私も、あなたにお会いしたかったですよ」

 今回の任務に限ってはさほど危険な目に遭った記憶はないものの、リリンカはユランナの心配をありがたく受け取った。

 ぐりぐりと肩と首の間に顔を押し付けられ、背に回った腕に痛いほど締め付けられているのだが、なにしろ頑健なリリンカであるので、なんと健気でいとけない方だろう、と相手の頭を抱えて優しく撫でる余裕すらあった。

「顔を見せて、ユランナ」

 今日もユランナは、首の詰まった高い襟の、厚手の生地のドレスを着ている。その首筋にするりと指を差し込んで髪の生え際の肌の感触を楽しみつつ、反対の手は結い上げた黒髪と小さな帽子の境目からピンを探り当てた。

「リリンカさま……」

 小さな葡萄を模した装飾のついたピンを引き抜くと、顔を覆うレースがはらりと落ち、ユランナがこちらを見上げた。

 長いまつ毛に縁取られた薄氷の瞳が感極まったように潤んでいる。

 長椅子にゆっくりと倒されて、ごく自然にリリンカも相手の背中を引き寄せた。

 くちづけははじめは優しく触れるだけで数度、それからもう少し深く――、

「あのう、お嬢さま、ユランナ様……たいへん恐縮でございますが、伯爵ならびに奥様、ご兄妹きょうだいさまがたがご帰宅なさいました」

 控えめなノックと共に、扉の外からアコーレの気まずげな声が聞こえたのだった。


「出迎えられなくてごめんなさいね、リリンカ。王妃さまがご招待くださってからの、あなたの帰還の知らせだったものだから、どうしても調整がつかなくて」

 ユランナと二人で気まずい雰囲気の中、お互いに髪やら襟元やらを整えて居間におりると、まず母ナラルがリリンカを抱擁して詫びを述べた。

 さすがに王妃主催の催しを中座できるわけがなく、ゼアドゥ家の面々はこの時間になってようやくお開きになった昼食会から帰ってきたのだ。

 会場が王都郊外の庭園で、おつきの従僕を幾人も伴った外出であった。リリンカが帰ってきた時にやけに屋敷が閑散とした雰囲気だったのはこのためである。

 しかしながら、今はゼアドゥ家ではなくリリンカ個人に仕えているアコーレとヤーラは屋敷にいて、なんと玄関ホールでのユランナとの一幕も陰で見守っていたと言うのだからたまらない。

「まったく、今日の昼食会ときたら、ほとんど顔を合わせた全員からおまえの結婚について尋ねられたぞ。早いところ披露の舞踏会でもなんでも開いて、皆にそのを喧伝してくれ」

 とこれは兄のテオセン。

「お披露目はもう音楽会を開催したので、じゅうぶんと思っているのですが……」

 ユランナと並んで長椅子に腰をおろしたリリンカは辟易した様子の兄に言う。

「それだけ世間の関心が寄せられているということよ。ああ心配しないで、もちろん悪い意味の関心ではないわ。ただあなたが戦争から戻ってからこっち、最初の婚約解消以来あまりにも色々な出来事が短期間にあったものだから」

 つまりは好奇の目で見られているわけだ、とリリンカは口に出さず解釈した。

「ね……ねえ!それより、リリンカが戻ってきたのだもの、今年もそろそろ領地のほうへ行くのでしょう?」

 不自然なくらいの明るい口調で突然言ったのはアンシェマだ。リリンカが居間へやってきてからずっと、一番隅にある出窓にひっそりと腰掛けていたのだ。

「おお、もちろんその予定だ。準備はすでに整えてある、リリンカとユランナさんも、都合が良ければ一緒にどうかね?」

 アンシェマの様子がおかしいのには気づいていないのか、伯爵が手を打って尋ねる。

「そうですね……いくつか、ユランナと、それから子爵とも相談しなければならない案件があるのですが、それが済めば」

「バゼルとも……?」

 隣のユランナが密やかな声でつぶやき、リリンカを見た。

「ええ、そうです。ユランナ、私たち子どもを引き取りませんか?」

 何気ない口調でリリンカが言い出した内容に、ゼアドゥ家の居間は蜂の巣を突いたような騒ぎになったのだった。

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戦役魔女の白い結婚 居孫 鳥 @tori_1812

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