変わらないことを、胸に

井ノ下功

刻みつける

 幻覚、と呼ぶには鮮明過ぎた。老眼と付き合い始めて長い私の目にも、ぼやけた部分など欠片もないほどその映像は美しかった。

 直観像、という言葉を思い出したが、それではあまりに情緒がない。しかも、それを見るには年齢が行き過ぎているし、五十年さかのぼったってそういう素質は持ち合わせていなかった。

 それが見え始めたのは、開いていた窓の鍵を閉め、黒板に向き直った時だった。


 きれいに掃除された黒板を背に、袴姿の先生が立っている。いつもと違う装いの先生に、私はなんだかどぎまぎするのをひた隠していたのだった。先生の方はというと、別段気負った様子もなく、いつものごときたおやかな微笑を浮かべて「――」とおっしゃった。私が「――」と返すと、先生は風に吹かれた桜のように笑みを散らして、私に背を向けた。誰かの粋な悪戯であろうか、袴の後ろに梅が一枝差し込まれていた。盛りを少し過ぎた、裏庭の梅。そこからはらりと花びらが落ちる。空を舞うように漂って床に落ちていく。それを目で追って、


 床に着いたのは私の視線だけであった。

 梅の花はおろか、先生の姿もない。

 私は眼鏡の隙間から指を差し入れて目を擦り、黒板を見遣った。

 黒板は今年の卒業生の手によって華やかに飾り付けてあった。卒業おめでとう、さようなら、またね、おつかれさま、また会おう、元気でね――多種多様な言葉が別れを歌い、その周りは鮮やかなチョークで彩られている。かつてはそんな風習などなく、まして赤や青のチョークもなかった。


 時は進んでいく一方で、世界は変わっていく一方。


 梅の木は私が赴任してきた頃にはもう無かった。台風で折れたのだと聞いた。

 そしてこの小学校も無くなる。今日を最後に、二度と生徒を迎えることはない。


 私はふと思い立って、教室の後ろに行った。ランドセルを入れるロッカーが整然と並んでいる。

 掃除ロッカーの脇の一番下。よっこいしょ、と膝をつき、中を覗き込む。当時も誰も使っていなかったし、今年も使われなかったらしい一角。けれど埃は綺麗に取り払われている。

 卒業したその日、私は先生がいなくなったのを見計らい、彫刻刀でロッカーの内側に言葉を刻んだのだ。ばれていなければ、あるいは情緒を解する者にのみ見つかっていたら、残っているはずである。


「……ふふ」


 私は思わず笑みを散らした。

 そこに刻まれていた言葉は、いつの間にかひとつではなくなっていた。さまざまな世代の卒業生たちが、彫刻刀で、マジックで、鉛筆で、ボールペンで、同じ言葉を繰り返し繰り返し刻んでいる。私が刻んだはずの言葉は、パッと見ただけではどこにあるのか分からなくなっていた。

 まるで他人から贈られた梅の一枝のよう。

 存在しない梅の香りを感じる。その意味を私は直観的に理解した。

 私は立ち上がった。建て付けの悪い引き戸を開けて教室を後にする。後ろ髪を引かれる思いがあったが、振り返ってはいけないと思った。振り返る理由はないし、振り返ったところで時間は止まらない。


 梅の香りのする方へ。

 私もまだ、止まりはしない。



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変わらないことを、胸に 井ノ下功 @inosita-kou

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