三つ葉のクローバー

添野いのち

小説の登場人物にはつまらなすぎる

 夜の街中。一人の男が歩き回っていた。

 男は普通の中年サラリーマンで、昼は何も考えずただ黙々と働き、夜は家でぐうたらしてるか飲み屋で誰かと一杯やり、週末はぼーっと過ごすか渋々子供を公園に連れて行く。特に面白みもない、しがないサラリーマンであった。

 男は適当な店を見つけると、ビールを求めて店に入った。案内された席に腰掛け、生ビール(中)と枝豆を注文した。一分ほどスマホをいじったあと、運ばれてきたビールを口に流し込む。

(あぁ、うまい。)

 そう思った時だった。男は何か違和感を覚えた。直感的に、変だと思った。別にビールの味が変だったとかではない。いつも通りのうまいビールだった。

 男の脳内で、誰かが「あぁ、うまい。」と言った後、紙にサラサラと文字を書き留める音がした。何て書いたのかは分からないし、どんな紙なのかも想像がつかなかった。

 男は背筋が凍る思いがしながらも、枝豆を口に放り込んだ。

(この塩っけが良い感じだ。)

 と思った直後、

「『この塩っけが良い感じだ。』か、なるほど・・・」

 と、脳内の誰かが言った気がした。さらに紙に文字を書く音が続いて聞こえた。

 訳が分からない。俺に一体何が起こっているんだ。

(不気味だ・・・)

「『不気味だ』か。ふむふむ。」

 サラサラ・・・。

 さらにしばらくすると、脳内の誰かは勝手に喋り始めた。

「ここの心情ははもう少し誇張した描写にして・・・うん、こんなもんだろ。で、ちょっとばかし比喩を入れたいが、何に例えるのが最も効果的だろうか・・・。」

 心情を描写?比喩?一体どういうことだろうか。男にはさっぱり分からなかった。

 ビールと枝豆を全て腹に流した男は、手早く会計を済ませ店をあとにした。

 家までの帰り道でも、何かを考える度に脳内から謎の声が聞こえてきた。

(明日は土曜か。家でゆっくりしたいが、そうもいかないだろうなぁ。)

「土曜日でも億劫、その原因は・・・あ、これは書く必要はないな。」

(酔ってきたし、さっさと寝よう・・・)

「酔いが回ってきて眠い、と。あとはどんなストーリーができるだろうか、楽しみではあるな。」

 そこで男の鈍い直感がようやく働いた。男は気づいたのだ。脳内の誰かは、俺を題材に小説を書いているのだと。

 男はさらに混乱した。俺みたいな平凡な男が小説の題材になるなど到底考えられなかった。しかしこれ以外、辻褄の合う考えは無かった。心情描写、比喩、ストーリー。これら三つの言葉を結びつけられるのは小説以外に思い浮かばない。となると、脳内の誰かが紙で何か書き留めていたのは小説の執筆で説明がつく。今までの不可解な現象全てを結びつけられるのだ。

 しかしなぜ、俺なんかを題材にするのだろうか。小説の題材にする以上、何か〈普通でないこと〉、つまり小説のネタになるような何かがあるはずだと、男は考えた。男は考えを巡らせた。しかし、〈普通でないこと〉に思い当たりはなかった。

 男は至って平凡な人生を送ってきた。生まれてから今日まで、珍しい事件に遭遇したことがなかった。学校では平均あたりの成績をマークし続け、中企業の正社員として雇われ、順当に昇進してきた。毎日満員電車にもまれて出勤し、働き、仕事が終わると帰ってダラダラと過ごすか酒を飲む。特に苦になることもなければ、楽しいことがあるわけでもない。こんな面白みもない人間を小説のネタにして、何が良いのかさっぱり分からなかった。言うなれば、野原にある一面のクローバーの中から三つ葉のクローバーを選ぶようなものだ。なぜ四つ葉のクローバーを選ばないのだ。一体、脳内のこいつは何を考えているのだ。それが分からなくて、ますます混乱した。

 考えに考えた末、気にしてもしょうがないという結論を出した男は、そいつを気にすることなくその日を終えた。翌日になると、そいつの声は脳内から全く聞こえなくなった。さらにその朝、ネット小説のサイトを見ていると、自分の昨日のことが題材になったと思われる小説を見つけた。タイトルは〈人間観察〉、作者は〈餡濃雲〉というらしい。最新の話には、昨日の自分が見た景色、体験した出来事、感じた心情などが事細やかに記され、ちょっとしたファンタジーが加えられていた。そしてその話は、次のように結ばれていた。

 ここまで平和に生きている人間は初めてだ。平和すぎるが故に面白くはないが、不幸に見舞われ続けるよりはよっぽど幸運な奴だ。

 初めて自分が、三つ葉のクローバーでも良いように感じた。


 こんな話を思いついた僕は、ネット小説サイトにこれを投稿しようと執筆している。そんな僕もまさに今、誰かに脳内を覗かれ、そいつが僕のことを小説にしようとしている、と感じている。まあ、好きに書くが良いさ、脳内の誰かよ。自分の人生を文字にして書き留めておいておくれ。後は僕自身が、お前が面白い小説を書いてくれるように、いろんな経験をして面白い人生を送れるようにするから。

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三つ葉のクローバー 添野いのち @mokkun-t

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