水戸黄門 VS 座頭市

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第1話

 万延二年(1861年)、元旦の江戸城吹上御庭には甘い匂いがただよっていた。

 屋外に並べられたいくつかの寸胴で小豆が煮られていて、快晴の高い空に緩慢とした湯気が立ち上っている。

 調理役を担当したものどもがせわしなく動き回るのをよそに、一人、悠長に寸胴の面倒を見ている男がいる。男は徳川家十四代将軍家茂で、この唐突な催しを提案したのはほかならぬこの若い将軍であった。

 当世、将軍に課せられた公務の忙しさは大変なものであったのだが、めったに私事を口にせぬ当主の思いがけぬささやかな望みをなんとかかなえてやりたく、家臣たちが各所に手を回してどうにかこの時間を作った次第であった。

 家茂は、寸胴で煮られる小豆と粘度を増してきた煮汁を、何をするでもなく、じっ、と眺めている。

 かかる催しに際して、家茂が、

「こなたも小豆を煮たい」

といいだしたので、ほかの寸胴とは離れたところに一つ用意された。

 参列した重臣らは、当の行為が将軍らしからぬと眉をひそめることもなく、ただ見守るばかりである。そうして、この国を束ねる重荷を負った若き将軍の面持ちのあちこちに、まだあどけなさすら残ることに改めて気づかされ、いささかでも我らが当主の御苦労が慰められれば、と無心で祈らずにはいられないでいる。

「光圀殿、ここへ。少し、話をしたい」

 参列した家臣らの中で序列一位を示す座についていた宿老である前副将軍徳川光圀を家茂は呼び寄せた。声に少し遠慮があった。武家の統領とはいえ、この大宿老の途方もない威厳には人間的な敬意の念が自然とにじみ出るようである。一方、参列したほかの家臣らの光圀に向ける視線の大半はなんとなく冷ややかである。

「なんなりと」

 光圀は家茂から数歩ほど離れたところまで寄ってきて、視線を伏せながら跪いた。

 家茂はほかの寸胴か、あるいはもっと遠くに視線をやったまま口を開いた。

「今年は良い年になると思うか」

「公方様の徳と我らががんばり次第、といったところでございましょう」

「そうかもしらん……」

 光圀は通り一遍の世辞は口にしなかった。嘉永六年(1853年)の浦賀の一大事以来、天下は落ち着かない。

 家茂の心労は絶えない。

 目の前の若い当主の聡明さと辛い境遇を思うと、どうしても光圀にはおいそれと楽観的な見解を述べられなかった。

 ほかの寸胴では調理が完成してきたのか、椀がにぎにぎしく並べられ始めた。みな、活気よくはたらいている。しかしその様を眺める家茂の表情には如実にかげりがある。

「みなとおなじものをおなじ鍋で作ったものを食べてみたかったのだ。何か感ずるものがあると思ってだ。もちろん単なる気晴らしという意味合いも否定はせぬ」

「これにてお気持ち労われましたら祝着に存じます」

 家茂は照れをごまかすようにわずかに片頬を緩め、生まれて初めて手にしたしゃもじで寸胴を差し示した。

「こなたは天下のことを考えていた。この寸胴を見ているひとときのあいだ、せめて政などいう卑しい行為を忘れてみたかったが、いかんせん、修養が足らなかったようだ」

 家茂の話しぶりは淡々としていた。光圀をそばに来させはしたが、別段、声をひそめるという感じでもなく、ほかの家臣らに聞かれても構わないといった様子である。

「薩長に謀叛の気配がある」

 光圀と、上座にいた数名の家臣らは、この憩いの場でおおよそ予想だにしなかった家茂の発言に身がすくむ思いをしなければならなかった。

「そなたらの申したいことは分別している。公儀としておおっぴらに扱おうとすれば事は平易には収まるまい。したがって、これはあくまで座興の末にだれが口にしたかもわからぬ戯言だとでも捨て置け」

「御意のままに……」

 光圀は家茂の立場にいたわしさを禁じ得なかった。「御立派であられる」と思う反面、「それがために苦しんでおられる」とも感じていた。

 家茂は寸胴でむっつりとたぎる煮汁を眺めながら話を続けた。

「見よ見よ、いま、天下はこの寸胴の中身のようなものだ。上辺だけ見れば平静を装ってはいるが、その実、底深くでは天下を動かさんとする強烈な熱気がうつうつと淀んでいる。これはもう止まらぬ」

 若い将軍の話しぶりには苦渋の色が感じられた。

「しかれども、東照大権現様が見た千年の夢を破り、再びこの国を血で濡らすことなど許されるものか」

 家茂は寸胴をしゃもじでガンと小突いた。たちまち衝撃で煮汁が突沸を起こして盛大に吹きこぼれた。

 みな、黙ってその様を見守っていた。


 昼前には一座は解散した。光圀公の足取りは重い。晴れ渡る晴天がいやみのようにすら感じられる。

 天下では血なまぐさい出来事が続いている。嘉永六年(1853年)の浦賀への黒船来航を皮切りに、後に安政の大獄と呼ばれる粛清、そして安政七年(1860年)に攘夷過激派の浪士らによって時の大老井伊直弼が殺害されたことは、人々の記憶にも生々しい。

 井伊直弼を殺害した一味は、水戸藩浪士を中心に構成されていた。

 当時、水戸では尊王攘夷の機運が澎湃と湧きあがっていた。その挙句、幕府を通さずに朝廷と政を運ぼうとして、それが幕府による尊王攘夷運動への弾圧と、さらには井伊直弼の遭難へとつながる話であった。

 ここでもう少しさかのぼると、そもそもなにゆえ水戸で尊王攘夷の火がついたかという話になるが、それは水戸藩の長きにわたる成果である『大日本史』と、そこから導かれた水戸学が原因ということになっている。『大日本史』によって醸成された藩の気風が、幕末における朝廷の水戸藩への肩入れと、水戸藩士らの尊王攘夷運動への傾倒を引き起こした。

 ではその、くだんの『大日本史』の責任者はだれかというと、これは徳川光圀にほかならない。つまるところ、遠因か、あるいはいいがかりになるであろうとはいえ、見ようによっては昨今の一連の騒動を引き起こした根本はだれかという議論になれば、どうしたって光圀であるという話題は容易には免れない。それで、彼は憂鬱な気持ちを抱えていたわけである。

 光圀自身は昨今の尊王攘夷運動にさして賛同していない。

「かたわら痛し」

という感想を抱いている。

 いまとなってはもうだいぶ前の話になってしまうが、水戸藩の下級武士どもが光圀の屋敷を訪ねてきたことがある。一橋慶喜が将軍になれなかったことについて御見識をいただきたい、という用向きであった。

 慶喜は水戸と縁のある人物で、水戸藩はもちろんのこと、薩摩、土佐といった藩も彼を次の将軍に強く推してきていた。光圀もそのことは承知している。一方、井伊直弼ら南紀派と呼ばれる一派は家茂を将軍継嗣にすべく動いており、その始末のため、後に安政の大獄によって一橋派を排除したのだとする見方もある。

 ともあれ、将軍継嗣問題は南紀派の勝利となった。慶喜を推していた水戸藩としてはおもしろくない。いや、おもしろくないといった単なる機嫌の話で済めばよいが、権力闘争の常として、敗者には知れ切った末路が待っている。その末路を回避するべく、水戸藩のものたちが光圀への接触を試みたのである。

 光圀といえば江戸の草創期から天下を知る文字どおりの生き字引である。水戸藩主を退いた隠居後も、『大日本史』の完成のため、歴史を求めて諸国を巡っている。その過程で、諸藩の様子を探るように時代ごとの将軍から台命を授かってきたことは、武家のものであれば知らぬものはいない。いまや政から手を引いて久しいが、この副将軍に幕府の役人たちはだれも頭が上がらない。光圀が幕府へ口利きすれば、水戸藩の窮状を「どうにか」してもらえるのではないか、と押し掛けた武士どもは期待していたのである。

 光圀のもとに集まった下級武士らは、このころの攘夷志士に特有の、漢文の書き下し文のような文体を特有の抑揚で話した。この話し方は、さまざまな地方から出てきたものたちが、めいめい勝手な国訛りでしゃべっては意思疎通に支障が出ることと、彼らが古い文献の文言をやたらと引用したためである。

 下級武士らは、大日本史を褒め称え、異国の脅威を語り、低い身分のものたちの困窮を訴えた。光圀はそれらの熱弁を莨なんぞ吸いながら、眉一つ動かさずに「ふんふん」といった風情で聞いていた。

 ひとしきりの話が終わると、光圀は煙管を莨盆に強く打ち付け、口を開いた。

「論外」

「郢書燕説もはなはだしい」

「私憤をこじつけるな」

「別段、一橋殿でなくともできることである」

 そういうことを、弁を論じたものを一人ずつ見据えて、年老いた見た目からは想像しづらい鋭い調子でいった。短い言葉で、切り捨てるような感じがした。

 光圀は表立っておおやけのことを語ることがなかったため、水戸藩のものでさえ彼の真意を知るものもいなければ、確かめようとしたものもいなかった。それでも、集まっていたものどもはただ漠然と、昨今の尊王攘夷運動には肩入れしているに違いない、と無邪気に決めてかかっていた。

 したがって、暖かい言葉だとかあるいは厳しいながらも叱咤激励のたぐいをもらえるとばかり思っていた若い藩士らが、冷や水を浴びせかけられたような気持ちになったのは無理もない。

 いくらかのものどもは光圀に対して更なる説明を求めたり、自らの論に補足を試みるなどして食い下がったが、当の光圀はしれっとした態度で何も返答を寄こさずにいた。きっぱりと拒絶する観があり、もう何も話してくれそうになかった。

 下級武士らが自らの言論の基礎としているのは水戸学であるが、その根本は儒学にたどりつく。であれば無論のこと光圀は儒学者である。そして、このころの儒学者の多くがそうであるように、光圀もまた、無学であったり格下であったりするものとは議論しないのが当り前だと思っていた。光圀は下級武士たちの主張を聞いて、それらのことごとくが、

「論ずるに値しない」

と判断したのである。彼らの論理の過りを手短とはいえ指摘してやったのは、光圀からすればもろもろの事情を配慮した、いたしかたない義理であり、多少の温情というものであった。

 集まった若者らの先頭に立って、血気盛んに弁を論じたものどもは言葉を失い、意気消沈した。そのうち、集団の後ろの方からあれこれ相談事が始まり、まだ話していないものたちも光圀に意見をいえ、という流れになった。全員、等しく恥をかかねば、集団を率いていたものの面目が立たぬという思惑もあるらしい。

 二人の下級武士が出てきて、極端な理想論と、難解どころかはっきり支離滅裂な話をした。光圀はちらと一瞥を寄こしただけで、無言でいる。とすれば、あくまで比較的という評価にはなるが、最初に話したものどもは、まだしも弁が立つ方であったらしい。

 それからさらに、周囲にやや強引に引っ張られるようにして、若い武士が光圀の前に出てきた。あまり乗り気な様子ではない。

「おれはこういうことは得手ではないのだが……」


 引っ張り出された武士は名を小林維楨(これもと)という。小林家の系図をさかのぼると、先祖は武田家に仕えていたことまではたどることができる。維楨は鉄砲方与力の家の生まれではあったが、五男で、親がだいぶ歳を食ってからできた子である。維楨が生まれたとき、既に父は家督を長男である維治(ただはる)に譲っていた。維治には四つになる子すらいた。ほかの兄と姉は既に全員、実家を出てそれぞれ新たな別の家を営んでいた。

 思いがけずできた子の名づけを、維楨の父は近所の寺の住職に頼んだ。住職は半時ぐらい考えて、「維楨」という名を出してきた。維楨の父はその名について、なんとはなしに文弱のにおいを感じた。さほど良いものとは思わなかったのだが、「けっこうな名づけで」などとありきたりな追従をいってしごくあっさりと受け取った。彼は万事に執着しないたちであった。

 小林家が担う鉄砲方という役職は、その名から想像できるとおり、藩の鉄砲を取り扱うのが役目である。いくつかの隊に分けて構成されており、火縄銃を扱う隊もあれば、大砲を専門とした隊もあった。

 水戸藩には大砲を扱う鉄砲方の隊が二つあった。そのうちの一つを代々預かってきたのが、維楨の小林家である。小林家に課された仕事は、藩が所有する大砲の管理と、それを用いた戦への備えである。これはもう一つの大砲専門の隊である高遠家も同じである。

 しかし幸か不幸か、小林家は江戸時代を通じて、不毛な建前を守ることのみに家格と人生を浪費させられてきた。

 小林家が担当した大砲とは徳川家康が直々に下賜したものであり、その由来は関ヶ原の戦いにまでさかのぼると伝わっている。大坂の陣でも使われ、真田丸を砲撃したなどという記録も添えられている。真偽は確かめようもないのだが、そういったことをしたためた文書が代々受け継がれているのでいまさら疑義を唱えることもできない。

 それだけであればまだ支障はなかった。時代遅れの遺物とはいえ、ともかく弾を撃ちさえできれば、「これは大砲である」と胸を張ることができる。ところが、悪いことにくだんの大砲はだれが見てもわかるほどの大きなひびが入っていた。砲撃を試みればたちまち大破することは容易に予見できる。

 ひびができた理由は定かではないが、そもそも水戸藩に来たときには、もう、できていた。が、徳川家光の時代に、

「権現様より賜った品に瑕疵などあってはならない」

との理由でなくなった。いや、修理修繕などを施してひびがなくなったというわけではなく、文書や実際での取り扱いにおいて、初めからひびなど入っていなかったものとして、「実戦可能である」とすることが命じられた。

 こうして、水戸藩と小林家には二つの事項が長年にわたって代々引き継がれてきた。一つはひびの入った使い物にならない割れ大砲であり、この代物は水戸藩と徳川家に仇名す敵を砲撃し壊滅せしめることができることになっている。もう一つは、そんなことはもちろん無理なのだが、家光がいいだしたせいでこうなっているのだ、という愚痴である。前者の建前は文書によって堂々と受け継がれてきて、後者の本音は口伝によってひそひそと受け継がれてきた。

 水戸藩では当主が代替わりした最初の正月に、備え検めと称して大規模な軍事演習を行うのがならわしであった。旗本をはじめ、騎馬隊から足軽までが一堂に介して、実際の戦を想定した技術を披露する。

 鉄砲方が組織する鉄砲隊であれば、当然のことながら実弾を撃つ。火縄銃を装備した鉄砲方同心らが息の合った一斉射撃を披露する。高遠家が操る大砲は遠方に組み立てた仮設の櫓を砲撃して見せる。

 しかしむなしいかな、小林家は何もすることがない。ひびの入った大砲に張り付いて、いかにも撃ちそうなそぶりをつくろって、ひたすら無為の時を過ごすしかない。

 藩主は陣地を馬に乗って視察して回る。各隊にねぎらいの言葉だとか激励の言葉だとかをかけていく。普段、お目見えを許されないような下級武士らはたいそうかしこまって見せる。

 そこで毎度ひっかかるのが小林家である。

 彼らは特に何もしないでいる。であれば「立派である」ともいえぬし、「いっそう励むことだ」というのも変である。藩主とて、小林家の大砲が使い物にならぬことは、因果も含めて重々承知であるから、小林家のものを叱責するのも筋違いである。小林家もなんらの弁疏などせずに、ただ黙々と撃つ真似事だけを繰り返している。

 結局、藩主は「みなまでいうな。わかっておる」といった視線を送るだけで、無言で立ち去ることになる。方々での活気あふれるやりとりの中、小林家が率いる鉄砲隊だけは、どうにもしらけた空気がただよってしまう。しかたのないこととはいえ、小林家の面目はまるで立たない。周囲のものたちからは軽んじられることになる。

 こういう境遇で人間が取り得る態度は極端な二種類に逸脱する。一つは、常日頃から峻烈な武力と感情を極度に発露して、「我を侮れば切る」といった空気を全身に漂わせるやり方である。実際、維楨の祖父はこのような人間であり、「部屋にいるだけで息が詰まる」といわれた。周りのものたちに激しく疎んじられて、生涯で多大な軋轢を生みながら死んでいった。もう一つはまるっきり正反対に、みなに軽侮されたり哀れみを誘ったりしながら、のらりくらりと生きるやり方である。維楨の父がそういう人間で、御役目のことで皮肉や悪口をいわれても、彼は「おうよ、全くそのとおりで我が身ながらふがいない」などといって、へらへらしていた。周りのものは次第に「あれはしかたのないやつだが悪いやつではない」と苦笑交じりに評価するようになる。

 小林家の当主はおおむねいずれかの気質になるのだが、先代の苦労を間近で見て「ああはなるまい」と思うらしく、その気質は代々で二種類が交互に現れていた。したがって、小林家当主の維治は激しい気性の持ち主であった。父の体たらくをはっきり嫌っていた。

 維治が家督を継いで間もなくのころ、彼は、なれなれしい態度で「割れ大砲」を揶揄してきた軽輩を、頭から股にわたり正中線に沿って一刀両断にしたことがある。維治は返り血をぬぐおうともせず、あまりの出来事に呆然としている居合わせたものどもを、憎悪を込めた目でにらみつけてから立ち去った。平時に躊躇なく人を切り殺せる気質に周囲は震え上がった。以来、小林家の割れ大砲について触れるものはだれもいなくなったことはいうまでもない。

 小林家に与えられた役について、公的な文書としては「大砲を守護し、戦に備えよ」としか記されていない。あとは当人の裁量に任せるということらしい。維楨の父が行っていた仕事は、大砲をしまってある蔵の警備がほとんどで、それに加えて、大砲に錆びなど浮かばぬよう、ときどき蔵の湿気を払って砲身に油を引くぐらいであった。鉄砲方に与えられる給与には弾代だとか火薬代だとかも含まれていたのだが、維楨の父はその分の金を使って、ことあるごとに同輩や上司らに贈り物や付け届けなどをわたしていた。格下の連中にもなんやかや金品をくれていた。その時機や内容がいちいち間が良く、決して卑屈には映らず、また、相手に恩を着せるといった感じも与えなかったあたり、彼には天然の人たらしの才能があったのかもしれない。

 維治は死んでもそんなことはしたくないと思っていた。「吐き気がする」とまでいった。彼は自らの御役を武士として果たすことに血道を上げることを決めていた。毎日、家臣らとともに撃てない大砲を蔵から引きずってきては、戦に備えた訓練を行っていた。実弾は撃てないため、その都度、維治が雷のような大声を張り上げていた。その声に合わせて、大槌を持った家臣が、想定される着弾地点まで走っていき、目標を取り壊す。これを一日ぶっ通しで行う。一同、疲労困憊するが、家臣らはいかなる技術の上達も感じない。けだし、いい面の皮である。見ようによっては滑稽に違いないのだが、水戸藩には彼らを笑う命知らずはもはやどこにもいなかった。

 そんな過激な兄を維楨はどう思っていたのだろうか。維楨は家長となった維治と会話らしい会話をしたおぼえがない。親戚一同の集まりで、床の間を背にした兄に儀礼的なあいさつを行ったうっすらとした記憶ぐらいしかない。維治からすれば、維楨などまるで眼中にない存在であったし、年少者を相手にするならば、我が子の面倒を見た方がよほど楽しいに決まっていた。

 維楨が物心ついたとき、既にして維治の荒々しい振る舞いは水戸藩で知らぬものはいないという状態であった。ごく一部の、古風な趣を懐かしがる藩臣以外は、ほとんど全員が維治を疎んじていた。とりわけ、小林家の家臣たちからの評判は最悪である(維楨の父が甘やかし過ぎていたのも一因ではあろうが……)。

 したがって、ごく自然な感情として、維楨もまた維治をあまり好ましい人物だとは思っていなかった。「ああはなるまい」といった思いを抱きながら成長していった。維楨は武張った物事にはあまり関心を向けることができず、刀剣よりかは筆や算盤を持っている時間の方が長くなった。

「いまはそういう時世よ」

 維楨の父は、我が子がかつての予感どおりに文弱の徒に進みつつあることを、表には出さなかったが、内心では少しさびしく思った。人生を振り返ったとき、彼は自らの立ち振る舞いにいささかも恥じることがなければ、自分の性に合っていたのだとおおむね納得していた。しかしそれはそれとして、多くの人々がそうであるように、維楨の父もまた人生の最晩年にさしかかって「そうではなかった自分」を想像することがあった。維治ほど過激ではなくとも、もっと侍らしいはたらきをしていればどうだったろうと考えずにはいられなかった。そのため、維楨が刀を持ちたがらない人生に進みつつあることに、つい自分を重ねてしまうのであった。

「しかしな、食えるかどうかはわからんぞ」

 維楨の父は親子の歳を読んで、この小さな末っ子が大人になるまで自分は生きているだろうかと心配した。めぼしい伝手はほかの子で使い切ってしまっている。

「まあ、いよいよとなれば、父の仕事を継げばよろしい」

 維楨の父は家督を譲ったのち、町方同心の手伝いをして小遣いをもらっていた。仮にも与力を務めた人間がすることかよ、と近しい人々はみな驚くやら呆れるやらしたが、例のごとく維楨の父はそんな声はいっこう気にせず、「いがっぺ、いがっぺ」とばかりいって泰然と生きていた。

 維楨はそんな父の姿を、極端に蔑みも敬いもせずに育っていった。ひょっとすると大人物なのではないかと思う日もあれば、たいしたことのない人だなぁと思う日もあった。ともあれ、維楨としては父の背中を見て、武家とて無理に武功を求めずとも生きていけるようだとは想像していた。


 維楨の人生の転機は、徳川斉昭が水戸藩主を継いだときから始まっていたことになる。斉昭は海防を重視して、近代的な大砲の整備を家臣らに命じた。大砲の材料となる金属類を集めるべく、領地の寺社や庶民たちから金属類を強引に徴収したことが幕府の不信を招くこととなり、一時期、斉昭は謹慎処分を受けて政から遠ざけられた。

 嘉永二年(1849年)に処分が解かれて再び藩政に復帰すると、斉昭の大砲整備への熱はますます高まっていた。謹慎の身なれど、世の動きは逐一彼のもとに届けられていた。米国が日本を目指しているという話も耳に入っていた。米国の目的は不詳であったが、阿片戦争(1839年)を経験した清の惨状を知っていればうかうかしていられない。なまじ実務から遠ざけられていたせいで、斉昭の中で国防に関して強烈な強迫観念が構築されていたとしても不思議はない。斉昭は当時の最先端技術を手に入れるために、島津斉彬のはからいもあり、水戸から薩摩へ学者や技士を派遣している。

 安政元年(1854年)、水戸に反射炉を建設することが決まる。近代的な大砲の自力での製造が、ようやく現実的なものとして進められることになったわけである。この研究のために、薩摩に留学させていたものたちは当然として、さらに多くの人材を身分の軽重を問わず在郷から広く求めた。

「小林維治という男は、この仕事に向くと思うか」

 斉昭のもとに藩の重臣らが集められ、大砲研究の役目を与えるものを詮議していた。自然な流れとして、まずは水戸藩で大砲を扱っている人間に声を掛けよという話になる。高遠家からは当主が選定された(実際にはさらに当主が指名した代理のものが参加)。それからもう一つの大砲を扱っている家である小林家からもだれかということになる。だが、斉昭も維治の振る舞いにはわずかに感心するところもあれど、ほとんど辟易としていた。

 この大砲研究にはさまざまな身分のものが分け隔てなく選ばれる。武士だけでなく、大工や学者といった庶民も参加する。彼らが立場のわだかまりなく、自由闊達な議論を行わなければならないと斉昭は考えていたし、家臣らにもその旨伝えて、人選をさせている。

 維治という人間にはとてもではないがやれそうにない。庶民に意見されれば、たちまち激昂して刃傷沙汰を起こすことは明らかである。

「なにぶん、あれはがありますゆえ……」

 近習がことさら慇懃な口調で斉昭に具申した。みな、維治には思うところがあるらしく、どこからともなく失笑が漏れた。

「あれの息子も……、ホッ、似たようなものですなぁ。しからば先代の末っ子、あれは気が利きますゆえ、丁度よろしいかと」

 斉昭も家臣らも、当の本人である維楨の人となりについてはあまり把握していなかったが、気性は父親に近いものがあるとは伝わっていた。なれば、たとえ維楨が凡愚であったとしても、大きな問題は起こすまいと推測した。雑多な人々が集まるゆえ、ああいう座持ちのよい人間がいてもよかろうという思いもあった。

 かくのごとき経緯によって、維楨は大砲研究の一員に抜擢された。世に出ることなどほとんどあきらめていた維楨は、思いがけぬ僥倖によろこんだ。兵として武功を示せという仕事ではないことも維楨には好都合だった。あまりにもうれしすぎたのか、照れ隠しとして周囲には「うれしくないこともない」などとうそぶいたりしたが、そういうときの維楨の顔は緩み切っていた。

 反対に、維治は藩の一大事に声がかからなかったことに失望し、怒り狂った。彼は、自分か息子かが選ばれるに決まっていると思っていた。そうはならなかったことに気づいたとき、維治はすさまじいうなり声を響かせ、血反吐を吐いて卒倒した。もし維治に親しい人がいたならば、普段の仕事が大変そうであるから藩も気を遣ったのではないか、のような慰めの言葉で気を紛らわしたのだろうが、維治にそんな声をかける人間はいなかった。維治は藩への怨嗟を書き散らした書状を残していずこかへと逐電した。薩長に落ち延びたともうわさされるが、維治親子はこれ以降歴史の舞台に出てくることはなく正確なところは不明である。

 維楨は大砲とその周辺の運用について研究した。技術的な実装については技師や大工といったその筋の専門家が担当しており、維楨にもっぱら課せられた仕事は文献の調査である。無論のこと外国語で書かれた本ばかりを扱う。維楨はオランダ語ならそこそこ読めたのだが、ほかの言語については未知であり大変な苦労をした。が、やりがいも感じられた。集まった学者などと夜となく昼となく知恵を絞り合い、ジョミニの『戦争概論』だとかクラウゼヴィッツの『戦争論』だとかいった、今日では古典的名著とされる書籍を通読したようである。このころに維楨が書いた日記を読むと、「蒙を啓かれる想いであった」という文言をしきりに散見するので、さぞかし刺激的な毎日であったのだろう。

 特段、大きな期待はかけていなかった維楨の意外なはたらきぶりに、「思いがけず拾物」といった評を斉昭は残している。


「拙者は天下のことについては暗く、ほかのもののように申せることは多くはございませんが――」

 維楨は光圀に対して、まずは水戸藩が建設した反射炉に触れながら話し始めた。それから大砲の仕組みと海防について説き、最後に少しだけ諸外国のねらいについて私見を述べた。大勢の前で話すことを好まぬたちであったため、ごく手短に話を切り上げた。

 そもそも維楨は昨今の若い藩士らが没頭している尊王攘夷の運動に、あまり熱心ではなかった。いまの彼の頭の中には大砲を撃つことしかない。この場に、のこのこと連れられてきたのも、生来の押しの弱さと人の好さに起因するものである。したがって、維楨の論説の骨格は大砲だとか火薬だとかで構成されており、ほかのものたちが力説したような政に触れる論はわずかであった。

 維楨の同輩たちは「変なことをいいやがる」と呆れ顔を並べている。

 光圀、最初こそほかのものの話を聞いていたときと同じような風情でいたが、しばらくすると長く垂れた白眉の下で双眸を閉じ、わずかに首をかしげた体勢となった。とはいえ、そこから先、うなずくでもなし、話をきちんとと聞いているのかどうか判然としなかった。しかしともかく維楨は話を終えた。

 光圀はまだ何もいわない。束の間、静寂が訪れ、下級武士らは手持ち無沙汰でいささか居心地の悪さを感じた。

 ようは、この老人は若いものが憎いのだ、だから我らをなんでも否定するのだ、そんな雰囲気になったところで、不意に、光圀が口を開いた。

「……傾聴に値する」

 これまでになかった反応に、一同は当惑した。さらなる発言を期待して、身じろぎもせずに待ったのだが、光圀は目を閉じたまま黙っていた。釈然としない気持ちを抱きながら、若い下級武士らは解散した。

 井伊直弼が襲撃されるのはそれから間もなくのことであった。


「土台、あのものらは言葉が多過ぎる」

 光圀は江戸の会津藩邸で幕府が差し向けた御典医の往診を受けながら、問わず語りに前述の話をこぼしている。

 御典医は毎日朝食が終わったころにやってきた。おざなりに脈を取り、体のあちこちを触診して帰る。ほとんど常に「御壮健にあられます」としかいわない。まれに「臓腑が疲れております」といって煎じ薬を置いていくが、まともな効き目は感じられない。この男はひいきめに見ても名医には思えないが、実のところは光圀の近辺をさぐるために、幕府が送り込んできた間諜に類するものであった。そのことを男はあえて隠さないふうであったし、光圀もとっくに気づいている。

「さようでございますか」

 間諜の男は無感情で相づちを打った。この男との話が幕府に筒抜けになっていることはわずかに不快ではあったが、普段ほかに手頃な話し相手もおらず、つい光圀はいろいろと話し込んでしまう。案外、聞き上手に感じることもあり、この男は医者の技術は皆無なれど間諜としては腕が立つ方なのかもしれない。

「理に適っている物事には説明などいらぬ。後ろめたいことがあるから、言を飾り立てるのだ」

 あの日、光圀のもとに集まった若者らが運動の拠所としていたのは水戸学であることは既に述べた。水戸学は儒学に基づく思想であり、その上で実学を重視した。つまり、思想とは実践できねば意味がなく、あるいはまた、もし真に徳を備えたものであれば、特別意識せずともおのずからあらゆる行為に徳が伴っているとも主張している。

 諸国を巡る旅の中で、光圀は日本の歴史だけでなく、人間(じんかん)の中に徳を探そうとした。全国津々浦々、老若男女にわたる無数の人々が繰り広げる無数の営みを観察してきた。

 長い時間と労力をかけて、結句わかったこととは、庶民には徳がないということであった。

 光圀は庶民のあまたの生活と人生を見た。ときには庶民に身をやつし、彼らに紛れておなじような生活を体験したこともあった。その中でたまには心が晴れるような善性に邂逅することもあったし、惻隠や謙遜といった美徳をよしとし、それを目指す精神が彼らにあることも理解していた。

 しかし、である。そこで光圀の思考はいつも逆接してしまう。かつての諸国を巡る旅を回想し、そこで出会った無数の普通の人々に思いを寄せるたびに、光圀は彼らに哀れさや不憫を感じずにはいられなくなってしまうのである。

 彼らの人生は過酷である。余裕がない、余力がない。いつも、生々しい生活のことを考えていなければならない。赦せば付け込まれ、譲れば奪われる。しばしば狡猾で強欲でなければ生きてゆかれない。かような火宅でどうして徳が育まれようか。運よく、どうにか徳が芽吹いたとしても、それは普通の人々に容赦なく踏みにじられ、ほじくり荒らされ、実ることは決してない。そのことが、光圀を悲しくもむなしくもさせるのであった。

 徳は、庶民らの暮らしの中では得難い。徳を備えたもの同士でのみ育むことができる。徳を体現するのは天皇と、我々武家の責務である。それが光圀が自らの体験より導いた結論である。

 光圀は徳を根拠に政を執ることを自他に求めた。すると中には、

「どういったことが徳であり、どういったことが不徳なのですか」

といってくるものもいる。そういう相手に光圀は、まず何もいわない。相手にしない。光圀の認識によれば、徳というものは備えることはできても、言葉で説明したり、唯物として数えられるものではないからである。かろうじて機嫌が良いときであれば、太陽を指差して、

「さしずめ、ああいうものだ」

とだけ話してやる。日が昇り落ちすることは天地開闢から今日まで現世の理に従っているだけであり、そのことになんの意味も理由もない。

 徳とは、現世の理の言い換えに過ぎない。その理に身を任せれば、あとは水が自然(じねん)と低きに流れていくかの如く、ただ思うがままに生きていくだけで、あらゆる行動が理に適ったものとなり、つまりは徳を備えた言動となるのである。


「綱吉公は良くなかった」

 今日の光圀はいつもより多くしゃべった。間諜の男にとってはそれも仕事のうちであるから、しずしず話を聞いている。

 ことあるごとに、光圀は第五代将軍徳川綱吉をくさした。光圀に近しい人間であるならば、彼らの確執を知らぬものはいない。間諜の男は「始まったわ」と思ったがそんな態度はおくびにも出さない。

「綱吉公は徳を記そうとした。あれは良くなかった」

 実際のところ、光圀は彼自身が見てきた将軍の中で、綱吉がとりたてて暗愚だとは思っておらず、むしろ英邁な部類にすら入るであろうと考察している。しかしながら、「生類を大切にせよ」というお触れを発したことに関しては厳しい評価を下していた。

「綱吉公の気持ちとてわからんでもない。徳を庶民らに根づかせようとがんばったのだ。しかれども、いったい彼らにそこまでの余裕があったかどうか。もっと悪いことは、徳を規律として持ち出すことは、公儀の徳のありなしを疑ることになる」

 光圀の愚痴とも昔話ともつかない話は続く。

 徳を御法として明文化することによって、「お前はここに確かに書かれている御法に触れたゆえに罰せられるのだ」のように、徳に反したものを取り締まりやすくなるのは確かだが、それは逆にいえば、「書かれていないことは徳に反していないのだろうか」といった疑念を世人に抱かせることになる。

「綱吉公が、犬をいじめ殺した町人に対して『犬を大事にせよ』といって罰したと聞いて、私は犬以外の生き物の死体をわざわざ送りつけた。もちろん私は綱吉殿の真意は承知していた。しかし、果たして多くの庶民らはどうであったろうか。綱吉公は、己の徳が確かなものであるならば、言い訳じみた法など用意せずとも、自らの心のままに従って粛々と罪人を処罰すればよかったのだ」


 光圀という人は徳を具体的に説明することを徹底的に忌避している。彼の生涯の一大事である『大日本史』について、この書は司馬遷の『史記』に倣って紀伝体の体裁を取っている。つまり、時代ごとの主要な「人」に焦点を当てて記述した歴史書であり、『大日本史』は神武天皇を始まりとした皇位継承と歴代の天皇の行いについて記したものである。

 一方、歴史書の編纂体裁として、「出来事」に焦点を当てるやり方もある。これは編年体と呼ばれ、歴史の教科書などは編年体の体裁を取るのが普通である。

 なぜ光圀が紀伝体という体裁で日本の歴史を編もうとしたかについて、一つには前述のように『史記』がそうであったということもあるが、主要な理由は、あくまで天皇を主体とする目的があったともいわれている。

 編年体によって歴史の出来事を客観的に記述した場合、その出来事に関係した人々それぞれの利害関係もあらわになってくる。すると、主客の立場からの言い分を説明せねばならず、事項によっては必ずしも天皇側に理があるとはいいがたい見え方も出てくる。やむにやまれぬ事情があったか、いっときの乱心であったかは一概にはいえないが、ともかくそういう記述が出てきてしまう。これらにいちいちもっともらしい注釈を、つけようと思えばつけられた。しかし、不遜であろうし、第一、読み手が天皇の徳をあやしみかねない。

 そのため、光圀は紀伝体として天皇の行いを記述して、その行いについて注釈のたぐいをつけなかった。この行いは徳を備えているとか、これはそうではなかったとかいった説明は一切書かなかった。そのあたりは、「徳を備えた」読み手の判断に委ねることにしたのである。


「掃部頭殿(井伊直弼)を弑したあのものたちは、全く私の意図を読み違えてしまった。なるほど、掃部頭殿が朝廷をないがしろに異国と約定を契ったことは確かにぞっとしない。されども帝の御心はいかほどばかりだったろうか」

 光圀の愚痴は続いた。間諜の男は光圀の肚を知るいい機会とばかりに、珍しく意見を入れてみた。

「さようでございますか。ときに亜相(光圀が最後に就いた官職である大納言の唐名での呼び方)様、拙は浅学ゆえお教えいただければ幸いですが、国内のことであれば徳なきものを武家が従わせることはできましょうが、徳をもたぬ異国にはどう応接すればよろしいでしょうか」

「清国と英国のことか……いや、話はそこにとどまるまい。フハッ、最近の医者は病人だけでなく天下の心配もせねばならぬとは御苦労なことだ……」

 光圀は腕組みして、大儀そうに首をかしげて見せた。市井の老人が昔語りを始めるときの風情である。

「伊達政宗公を知ってるな」

「は、確か仙台の……」

 光圀の口調は心なしか得意げである。自分だけが知っている物語を他者に話すときの気持ちがわいているらしい。

「公は戦国の気風を肌で感じた最後の武将だったかもしれない。公が御健在のころ、私は何度か公が亭主を務める茶湯に参席したことがある。そこで公は戦国の世のことをよく話したものだ……ああそうか、あのときの公は、ちょうどいまの私のような気分だったのかもしれない」

「それで政宗公はなんと」

「つまるところは殺し合いだといっておった。あるいは、川で溺れる身内と他人のどちらを助けるかということだとも」

「はあ……なるほど……」

 間諜の男は釈然としないふうでいる。光圀はすました顔をしているが、真意をごまかしている。いいや、実際のところ、光圀にも昨今の時世への確たる答えはわからなかった。異国に恭順の姿勢を見せたところで、戦国の世のようになるとは思えなかった。光圀の史観によれば、極端な話にはなろうが、国内での争いは天皇の監督のもとでの兄弟喧嘩であった。結局は、物心つく前から体験してきた事象を共有することで、最後には歩み寄る余地があった。

 しかし、そうでないものとの争いはどうなるのだろうか。近ごろ、光圀の思考は「しかし」が増えた。彼らは徳を知らない。大義名分を同じくしない。みな、知恵をつけ過ぎたのかもしれない。

「……少し、しゃべり過ぎた。もう帰るがよい」

「これはとんだ失礼を。おいとまさせていただきます。また、明日参ります。それとも亜相様も御多忙の身、心身丈夫なようでおられましたら三日に一度ぐらいにしましょうか」

「構わん。そなたのおとない、迷惑でもない。老人のひまつぶし相手に悪くもない」

「さようでございますか」

「それに、私の肚がきれいなことを見せてやれるからな」

 意外な光圀の軽口に間諜の男は「御冗談を」と少しだけ笑みを浮かべ、去っていった。


 万延二年三月、会津藩主の松平容保が光圀の邸宅にやってきている。

「亜相様、何か御不便はしておりませぬか」

「これはかたじけない。会津殿には至れり尽くせり世話になってばかり、面目次第もない」

 井伊直弼を襲った一味はまだ全員は捕まっていなかったが、計画の背景についてはあらまし判明しており、水戸藩からの脱藩者らによるものであることが調べられていた。

 幕府は水戸藩になんらかの懲罰を与えなければならない。とりわけ、井伊直弼を藩主としていた彦根藩からは水戸藩の改易をも含んだ厳しい意見が噴出した。幕府が動かなければ我らが直々に水戸藩と一戦交える覚悟である、とまでいってきた。

 幕府としてはそこまで事を荒立てることにはいまひとつ気が向かなかった。諸藩が力をつけてきているとはいえ、水戸藩一つをつぶすことはいまの幕府の戦力をもってすれば可能ではある。

 しかしながら、水戸は薩摩をはじめとした攘夷運動盛んな藩とのつながりが強く、水戸藩との争いを嚆矢にそれらの藩が一斉に蜂起するおそれがある。薩摩から江戸に向かう道すがら、土佐や長州にとどまらず、西国の藩らをことごとく伴いながら大挙してくるやもわからない。そうなればあとは国中を巻き込んだ凄惨で不毛な殺し合いを経て、異国が漁夫の利をねらうことは火を見るより明らかである。

 加えて、水戸藩は朝廷とのつながりも強い。朝廷の頭越しに外交を行った幕府への、孝明天皇の不信は強く、幕府の改革を指示する勅諚を水戸藩に送っている。もしいま幕府が水戸と干戈を交えれば、孝明天皇は幕府を朝敵とみなすことは想像にかたくない。そうなれば幕府は大義名分を失い、薩長と幕府のいずれにつくか日和見していた藩も、迷うことなく幕府に弓を引いてくることだろう。

 井伊直弼の件、できれば幕府は穏便に事を済ませたかった。直弼時代に冷や飯を食っていた幕臣からは「思えば掃部頭様の専横は目に余るところもあり、よい奇貨ではないか」などという声まで上がり出した。

 事態の収拾に立ち上がったのが、会津藩主松平容保である。松平家会津藩の徳川将軍への忠誠は厚い。江戸時代を通じてもっとも厚かった国だったかもしれない。

 松平容保は責任感や使命感が強く、当事者意識にあふれる人物であった。容保は、家臣らがごく私的な事由によって諍いを起こしても、「我が不徳の致すところ」と嘆き悲しむような人間だった。

 幕府重臣の一人である容保は内情を重々承知している。それに、容保には安政の大獄で幕府が水戸藩を苦しめたことに忸怩たる思いがあった。容保自身はかかる弾圧に特に関与していたわけではないのだが、それでもなお、一連の粛清が起きてしまったことに心を痛めていた。

(いまは身内で争うときではないのに……)

 容保は、彦根藩過激派を懸命に慰撫し、水戸藩に対しては襲撃事件に関する捜査への協力を促した。容保の努力は功を奏し、少なくない水戸藩の関係者らが処分されたとはいえ、どうにか戦争の道は回避できた。

 水戸藩への懲罰の一環として、幕府への恭順を示すために江戸に要人を差し出すように、との達しが出された。つまりは人質である。

 このころ、光圀は水戸で隠居生活を送っていたが心の休まる暇がなかった。攘夷運動家たちがひっきりなしに自宅に押し掛けては活動の神輿として担ぎあげようとしたし、それを袖にすれば、今度は「光圀殿は幕府と内通しているらしい」などと風聞を立てられ、やはり有象無象の手合いが自宅に押し掛けてきた。

 光圀は幕府の人質として自身を自推し、というよりかはもうほとんど逃げ出すようにして江戸に身を寄せた。

 光圀の身柄を引き受け、江戸での暮らしを差配したのもまた松平容保である。容保は会津藩邸の一角を光圀に明け渡し、何不自由ないようとりはからったのであった。


「御支障なければ何よりです。さて、亜相様、本日参上いたしましたのは御上意をお伝えするためにございます」

 容保はうやうやしく一礼すると、気品のある声で用向きを切り出した。「来たか」と光圀、居住まいを正した。これが最後の奉公になるだろうな、と考えた。と同時にかつての旅での膨大な記憶が氾濫のように脳裏にあふれてきて、気が遠くなるような思いがするのであった。

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水戸黄門 VS 座頭市 @con

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