「祝福(Blessing)」瀧方沢雲 油彩、カンバス 遺作
冬野瞠
遺稿
絵を描くというのは、ひらめきの連続であり、ひらめきを際限なく積み重ねる行為である。
そう断言したところで、日常的に描画をしない人間は、ひらめきの積み重ねという概念をなかなか想像しえないかもしれない。少々説明を加えよう。
風景や心象を描破するための画力は、多くの人が誤解しているかもしれないが、なだらかな坂道にも似た右肩上がりの直線状に上昇するもの、ではない。画力は絵と組み合って七転八倒しているうちに、ある時ふと直観を得て、唐突に伸びるものだ。
それは影の描写の理解であったり、人体の構造の把握であったり、遠近感の会得であったりする。どうしてもできなかったことが、不思議と急にできるようになる。ゆえに画力とは、いびつな階段を一歩一歩のぼるように伸びていくものなのだ。
そういったひらめきはいつやってくるとも知れない。おそらく、芸術を
長年絵筆を握っているうち、こうして数々の直観を得、私の描写力はある域に達した。私は現在の画力でもって生涯の最高傑作を――遺作となる作品を――完成させるに至った。
遺作には、ある謎めいた仕掛けを施してある。これからの時間を考えると、気持ちが沸き立つように楽しみだ。
なぜならこの絵は私や他人に対する「祝福」なのであり、この絵のおかげで私は理論上
私の名が画家として、この世に残り続ける限り。
* * * *
彼は明治時代から昭和初期にかけて、莫大な親の資産を食い潰しながら創作活動に没頭した。心配の種が無かったことを裏づけるように画風は奔放で、高価な画材を信じられないほどふんだんに使っているが、画面は一様に暗く、その奇妙な乖離が鑑賞者を戸惑わせる。
沢雲は晩年、とある騒ぎを起こしている。彼に雇われていたモデルが、数人行方不明になったのだ。手がかりがまったく見つからず、当然沢雲も嫌疑をかけられたが、その度に「私が描いた彼女らの絵の人間らしさが、生身の人間を上回った。ゆえに、この世の彼らが不要になっただけだ」と答えた。そう伝えられている。
私の目の前にあるのは沢雲の遺作である。
「祝福」と画家本人が名づけた絵で、その名に反して画面は全体的にどんよりと暗く、どこか不気味で不吉な印象がある。画家のアトリエであろう室内が描かれていて、端で画布を前に筆を握る人物は沢雲本人だ。カンバスの下半分のほとんどを占めるのは巨大な鏡らしき物体であり、そこにこちらをぼんやりと見つめる
個人が設立した小さな美術館。その一角に「祝福」はひっそりと飾られていた。額に入れられた遺稿も絵の隣に掲げられているが、謎めいた内容のそれを足を止めて読む者は少ない。
私は数年に一度、この美術館を訪れていた。最初は幼少の頃だったと思う。「祝福」を見て言い表せない衝撃を受け、自らも絵を描くようになった。高校時代に己の凡庸さを思い知り、その後はぱっとしない会社勤めを経て無事に定年を迎え、現在の私は既に老年に差しかかっている。
私は沢雲の遺作をじっと見つめ続ける。この絵には
曰く、沢雲の画力は実在を凌駕し、画家は自分の姿を絵の中に描いて封じ込めた。画家は今でも絵画の中で画業を続けていて、絵の前に気に入る人物が立つと、その姿を「祝福」の鏡面に写しとるのだという。鏡に映った人間が年々増えているとも言われる。
眉唾だというのが一般的な見解だ。写真も、電子記録も、描かれた人数の増加を支持しないから。しかし私は知っている。画家の力量は過去の記録にも及び、印刷物や電子データさえも描き換えていることを。私の記憶が正しければ、「祝福」に描きこまれた人間の数は、少なくとも初見の三倍にはなっている。
私はほとんど不自由なく生きてきた。物欲は薄い
私のたったひとつの望み。それは、中学生の頃に憧れていた美術の先生に再会することだ。その望みは、この絵の中に取り込まれて叶えられるはずだ。
先生は自分が在学中に突然失踪した。予兆はなく、解決の糸口もなかった。私は後年になって、先生が失踪する直前にこの美術館を訪れていたと知ったのだ。
私は信じている。絵に喰われれば、先生にまた遇えるだろうことを。絵の中の人影は折り重なっていて、どこまでが一人なのかも判然としない。しかしきっと、先生はいるはずなのだ。昔、失踪した時の姿のまま。
「祝福」の前にこんなに立ち続けたのは初めてのことだった。
私は沢雲の祝福を受けるに敵う人間なのか、否か。心がじりじりと焦れる。杖を握る手がじっとりと汗で湿る。
絵に描かれた画家の片目が、きらりと光ったように感じた。
そして、私は。
「祝福(Blessing)」瀧方沢雲 油彩、カンバス 遺作 冬野瞠 @HARU_fuyuno
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