姫の偽りの神託

悠井すみれ

第1話

 第三王女ジェウ・ミン殿下は神の声を聞く巫女姫と評判だ。幼少のみぎりより、小は翌日の天気や晩餐の最後に出される甘味から、大は侍女が同胞から盗んだかんざしの在り処や汚職を犯した官吏まで、さらりと告げて周囲の者を驚かせてきたとか。年頃を迎えても姫の神力は衰えることなく、父君もしばしば助言を求めているとか。宮廷には権謀術数もつき物ゆえ、巫女姫の眼を前に平静ではいられない者も多いだろう、ということでジェウ・ミン姫が公に姿を見せる機会は少ないが──どういうわけか、下級官吏のタン・ジエムは姫の尊顔を拝する光栄にたびたび浴している。


 王宮の奥、水と花の香りも芳しい庭園の一角の東屋あずまやにて。タン・ジエムが机上に並べた資料にちらりと目を走らせるなり、ジェウ・ミン姫は赤い唇から溜息のようにを零れさせた。


「犯人は当主の妹よ」

「それは、神のお告げ……なのですよね。姫様のお考えではなくて……」

「ええ。わたくしのは犯人だけ。どうやったのかを調べるのは貴方のお仕事でしょう、タン・ジエム?」


 寛いだ姿の姫が首を傾げると、結わずに下ろした鴉の濡れ羽色の髪がさらさらと揺れた。桜色の爪をした指先が、剥いた茘枝ライチを摘まんでタン・ジエムに差し出す。資料を汚す懸念と、貴人の厚意を無にすることの畏れ多さに彼が仕方なく口を開くと、ぷるりとした果実が鳥の餌のように放り込まれた。冷たく甘い果汁が喉を潤すのを感じながら、タン・ジエムはもう一度資料を睨みつけた。


「例によってお言葉には間違いはないのでしょう。ですが、どのようにその直観に至られるものか、もう少し余人に分かるように説明していただきたいものです」


 心優しい巫女姫は、奇跡の力を下々にも惜しみなく分け与えてくださるということだった。たとえば、人が殺されてその犯人が分からない、あるいは取り調べるにも憚りがあるような身分や立場の容疑者であった場合に、王女が聞いた神の声である、というお墨付きは非常に心強いものなのだ。


 神のお告げなど、タン・ジエムは信じてはいない。神が人の世の些事をそこまでおもんぱかってくださるのなら、そもそも悲惨な事件が起きるはずはない。厄介な事件の解明のために何度もジェウ・ミン姫のもとに足を運んで彼が密かに思うのは、この方は頭が良すぎるのではないか、ということだ。事件の現場に足を運ぶことなく、容疑者と顔を合わせることさえしなくても、紙の資料を眺めるだけで真相を看破することができるほどに。そして、推理の過程もあまりに一瞬で行われるから、姫自身も全てを記憶しきれない──のでは、ないだろうか。結果として余人が窺い知ることができるのは姫の知性の煌めきのごく一瞬の閃光だけ、それが眩しすぎて神託だと思い込んでしまうのだ。


「だから、貴方がしっかりと調べてくださいな、タン・ジエム。貴方のお話を聞くのは私も楽しみなのですから」

「姫のお言葉が神のものでないと分かったなら、もっとお気軽に色々な場所にお出ましいただけると思うのですが……」


 神秘に包まれた巫女姫ではなく、非常に聡明な姫君だということになれば。彼自身の推論を裏付けたいという思いもあって、タン・ジエムは姫に協力を仰ぐたびに推理の過程を開示して欲しいと乞うているのだが──


「あら、でも、貴方のお仕事場所に足を運ぶ訳には参りませんでしょう」

「はあ……」


 ジェウ・ミン姫は決まって美しい微笑で首を振ってしまうのだ。もしやこの方の興味は少々下世話なところにあるのではないかと、タン・ジエムは密かに疑っている。


「時に、姫」

王宮ここに姫は何人もおりましてよ。名前を呼んでくださいな、タン・ジエム」

「……美しく賢いジェウ・ミン様」


 お互いに未婚の身なのだから、馴れ馴れしい真似は慎みたいのに、と思いながら、タン・ジエムは渋々と言い直した。すぐ傍に控える侍女のほうを、意味もなく──聞かれたくはないけれど聞かせない訳にもいかないので──窺ってから、できるだけ小さな声で、尋ねる。


「例のには変わりないのでしょうか」

「はい。私は貴方と結婚するのですわ」

「然様でございますか……」


 これもまたいつもと変わらぬ答えを聞いて、タン・ジエムは肩を落とした。


 身分低い彼が、このように王宮の奥にまで入ることを──さらには、姫と差し向かいで語らうことを許されているのは、ひとえにこの冗談のようなのおかげ、だった。


 忘れもしない三年前の夏のこと、士官したてのタン・ジエムは書を抱えて王宮に上がっていた。壮麗な建物に目を瞠り、視線をあちこちにさ迷わせていた彼の耳に、高く澄んだ声が響いたのだ。


『お父様、私はこの方と結婚します。ひと目で分かりました』


 気が付くと、彼の腕には美しい少女がしがみついていた。身につける衣装や装飾品の豪華さから貴人であることは明らかで、けれど彼女の細い指の意外なほどの力ゆえに、跪くこともできなかった。身動きさえも許されないまま、駆けつける兵やら侍女やら召使やらの言葉から、彼は相手が王の娘だと知ったのだった。


「……お戯れは早く撤回していただくのが御身の評判のためとも存じますが」


 巫女姫が下々の事件の解決に関わってくださるのはありがたい。だが、美しい姫と美しい庭園で過ごすのは彼には過ぎたことに思えてならなかった。だからタン・ジエムは一縷の希望を託しては毎回尋ね、そして決まってジェウ・ミン姫が優美に首を振るのを見るのだ。


「でも、父も納得しておりますわ。何しろなのですから」

「恐れながら、姫は神のお言葉など聞いてはいらっしゃらないのでしょうに」


 何度も零した愚痴めいた言葉を、タン・ジエムはまた漏らしてしまう。姫は自身の言葉の重さを知っているから、ずるい。当時は姫の幼さゆえに有耶無耶にすることもできたけれど、姫ももう年ごろだ。第三王女だし、神の御心による結婚と喧伝できるなら良いだろう、という雰囲気を感じて彼としては少し怖い。


「貴方は私との結婚がお嫌なのでしょうか」


 彼の表情か何かから心のうちを読み取ったのだろうか、ジェウ・ミン姫が首を傾げた。


「そのようなことは──ただ、あまりに畏れ多いので」

「ああ、良かった」


 安心したように微笑む姫は、また悪ふざけを続けるつもりなのだ。彼が本気で拒否したら止めてくれるつもりなのか──だが、彼の仕事を考えると王族との人脈を諦めるのは惜しい。だから毎回、このように遠回しな懇願で終わってしまうのだ。


「タン・ジエム。私の言葉の意味を考えてくださるのが貴方のお仕事ではありませんか? 私は過程を略しているだけで、道筋は確かにあるはずだといつも仰っているでしょう。どうか考えて、見つけ出してくださいませ。私の心の在り処、私がどうしてあのようなことを言ったのかを」

「……ご助言には感謝申し上げます、姫様。きっと、お言葉は正しいのでしょう。改めて証拠と証言を調べ直すことにいたします」


 姫に言われて、タン・ジエムは訪問の理由を思い出した。姫の言葉は、神のそれではないとしても正鵠を射ている可能性は非常に高い。言われた通りの犯人と考えて臨めば、きっと新しい発見もあるだろう。


「結果が分ったら教えに来てくださいね。お待ちしておりますから」

「はい、無論」


 立ち上がったタン・ジエムに、ジェウ・ミン姫はなぜか少しだけ眉を顰めた。


「貴方を、お待ちしておりますのよ?」

「はい、余人には任せません」


 上司だろうと部下だろうと、名高い巫女姫をひと目見たいなどという者を会わせるのは無礼というものだろう。何より、姫に言葉を託されたのは彼なのだし。


「それは──嬉しいお言葉ですわ」


 やはり彼にはまだ計り知れない理由で晴れやかに笑うジェウ・ミン姫は美しいし。彼女の本心も、知りたいと思う。だから、彼はなんだかんだで姫を訪ねるのを楽しみにしているのだ。

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