もう泣かないで

石田宏暁

 『もう泣かないで』

「お待ちなさい。君はこの字が読めないというのか! 十二歳にもなって……」


 白髪混じりの教頭先生は呆れたようすで僕に質問した。第二体育館で入学説明会をしている最中にマイクがキィンと鳴った。


「……」


 真新しい制服に身を包んだ新入学生と、明るい色のスーツで着飾った母親たちは一斉に僕と母さんを見た。


「何かの間違いだとしか思えない。そんな馬鹿がこの名誉ある教銘中学に入学出来る訳がない。どうしてここにいるんだ?」


「そ、そんなことないわよね。健太郎、変な冗談はやめて。こんな簡単な案内文が読めないわけないわよね」


「ごめんなさい。ごめんなさい、母さん」


 胸が締め付けられる気分だった。いつかバレるとは思っていたが、ついにその日が来たと思った。僕は……字が読めない。


「ど、どうして? 何を言ってるのよ」


「本当なんだ。ずっと嘘をついてたんだ」


 僕は学校なんていけなくてもいい。何とかなるなんて初めから思ってなかった。だけど母さんは、僕を名門校に入れることに夢中だった。


「ごめんなさい、母さん。今まで騙していて。僕は字なんか読めないし、当然書けもしないんだ。だから帰ろう、今すぐ」

 

 どっと館内が笑いの渦に包まれた。いくらなんでも名門校の入学式前にやるパフォーマンスとしては趣味が悪いと思う。


 ざわざわと後ろから他の保護者の声が聞こえる。入学手続きに並んでいる親子連れが苛立ちはじめていた。


『あの子の制服、新品じゃなくない? なんか貧乏な世界から来た田舎者って感じ』


『普通に馬鹿なんだよ、字が読めないなんて名門校の恥さらしだな』


『やだ。あの母親、車椅子じゃない。なんか悪口言ったらこっちが悪者にされるわよ』


 母さんが車椅子なのは、僕が小学生の頃に交通事故にあったからだ。父さんは死んでしまって母さんは半身不随になった。母さんは僕だけでも無事で良かったと泣いた。


「そんなことないんです!」


 母さんは声を震わせて言った。「上手な字のノートがあるし、小学校では人気者だったんです。先生だって誉めてくれたんです。試験だって普通に合格したわ。失礼にもほどがある」

 

 体育館はざわついて、周りの大人たちはヒステリーだとか害虫を見るような目を向けた。大声をあげて泣きたい気分だった。


 最悪の結末を迎えた気分だった。うちには名門校に入るお金なんかないのに、母さんは無理をして入学金を工面した。でも、もう嘘はつけないと思って言ったんだ。


「ノートは全部友だちが書いていました。試験はマークシートで、たまたま勘が当たって上手くいっただけです」


 更に会場は爆笑の渦に包まれた。ずっと隠して黙っていたのは「僕だけでも無事だった」という母さんを悲しませたくなかったからだ。


『プッ、アハハ、アハハハハ!』


『プハハハ、ヒィッアハハハ!』


 母さんは動揺していた。こんなに大勢の前で嘲笑の的にされるのが、自分だけなら良かったのに。大好きな母さんに辛い思いをさせるのは息が詰まりそうになるほど悲しかった。


「ほう、君は……馬鹿なのか。残念ながら馬鹿はうちの学校には入れないんだ」


「はい。馬鹿でごめんなさい。だから、だからもう許してください」


 保護者や新入生はゲラゲラと僕と母さんを笑った。教頭先生は笑いをこらえるように手を振って言った。


「何か不正な手を使って我が校に入学しようとしたのかな。それだけは、はっきりしてもらわないと帰すわけにはいかないね」


「なっ……なんで」

 

 真っ青な顔で母さんは泣いていた。肩をひくひくと揺らして泣いていた。僕の馬鹿のせいで母さんは笑われた。僕が馬鹿だから。


 泣き崩れてしまいそうな僕を、周りの大人がせっついた。声はどんどん大きくなった。


『さっさとしてくれよ。待たせるな!』


『裏口入学なんか追い返せよ』


『あっちにいけ、馬鹿野郎』


『…………』


『……』


 僕をけなす言葉や罵声をうけながら、車椅子を押して体育館を出ていった。母さんが息をころしてすすり泣くのが聞こえた。僕も息が苦しくて全身が凍りつきそうだった。


 薄暗い廊下で待たされるあいだ母さんと二人きりになった。僕は少しずつ呼吸を整えてから勇気をだして車椅子の前にしゃがんだ。


「母さん……ごめんね。でも本当なんだ」


「うん、健太郎があんな酷い嘘をつくわけないものね。母さんのために隠してたんでしょ。気付いてあげられなくてごめんね」


「……ご、ごめんなさい」


 思いのほか、母さんは落ち着きを取り戻していた。僕が心配するより母さんはずっと強い人なんだと思った。


 母さんは教えてくれた。おそらくあの事故の後、僕にはディスレクシアと呼ばれる発達性読み書き障害が残ったのではないかと。


 それは学習障害のなかでも読字に限定した疾患だという。これは勉強不足とか知能が低いこととは無関係で、頭が悪いのが原因じゃないと言ってくれた。


 脳機能の発達に少し問題があるだけ。ただの慰めだと思ったけど嬉しかった。


「あなたは馬鹿じゃないわ」


「馬鹿なもんか。健太郎は大丈夫ですよ」


「……!」


 廊下には小学校の担任だった佐々木先生が立っていた。中学校の教頭先生や校長もいた。


「健太郎のお母さんですね」


「はい……」


「はじめまして。小学校で健太郎の担任をしていた佐々木です。今日は来るのが遅くなってしまい申し訳ありませんでした。説明するのに随分時間がかかってしまいまして」


「健太郎のことですか?」


「ええ、彼がどうして受験に受かったのか、どうしてクラスの人気者なのか、どうして字が読めなくても大丈夫なのか」


 佐々木先生は僕が母さんに隠していた出来事をうまく説明してくれた。優しく心配をかけないように話してくれた。



 第六感。シックスセンス。第三の目。予知能力。あるいは人間には生まれながらに危険を察知する能力が備わっているのかもしれない。


 たしかに事故にあってから彼は読字に困難があった。だがマークシートやまるバツ問題で外れることはなかった。彼には当たり外れが存在しない。


 直接的な予知、直観力。 ほんの少しだけ未来が見える世界で文字を読むことは困難である。集中して書けば書くほど浮かび上がる文字がノートを埋め尽くしていく。


「疾患ではなくて?」


「健太郎の場合、まったく違います。直観物理学でいうと物理の理解能力が飛び抜けている。独立した神経構造は直観より本能に近いとも考えられます」


「ま、待ってください。ごめんなさい、ちょっと難しくて分かりません」


 佐々木先生は少し困った顔で僕を見た。それから、また丁寧に母さんに説明してくれた。小学校で起きた数々の奇跡について。


 階段で転んだ子を助けたこと。


 アレルギーの子に注意したこと。


 不審者が校内に入るのを教えたこと。


 割れた窓ガラスから皆を助けたこと。


 給水口に吸い込まれる子を助けたこと。


 通学路に飛び込む車から生徒を救ったこと。


 佐々木先生は、僕にどんな困難があったとしても問題ではないと言った。救われた小学校の生徒たちや関わった全ての人達が、生涯彼の味方だと言ってくれた。


 だから心配する必要は何もない。彼を研究したいという科学者や政治家が現れたとしても、そんなことはさせないと。


 母さんはまた泣いていた。僕はやっぱり母さんには泣いてほしくなかった。母さんは今日だけでどれだけ泣いたか分からないから。


「もう泣かないで……母さん」


「ええ、ええ……健太郎。あなたを誇りに思うわ。でも、どうしても涙が止まらないの」


  

        END

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

もう泣かないで 石田宏暁 @nashida

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説