Mの悲劇

空都 真

第1話


 ぴっ、と電子音が鳴るのと同時に改札を駆け抜け、電光掲示板の下を通り過ぎざまにちらりと丸時計の時刻を一瞥する。


(……間に合う? いや、間に合わせる!)


 髪を振り乱し、階段を二段飛ばしで駆け上がっていると、ちょうどホームからぱらぱらと人が降りてくる光景が視界に入る。――いよいよマズいぞあたし!


(あー、腿上げが楽になるスムージーが今欲しい! 切実に!)


 最近はまっている室内用運動ゲームのアイテムが走馬灯のように頭を過ぎる中、一つ息を吸い、中間地点の踊り場から勢いよく足を踏み出す。

 さすがに遅い時間帯だからか、人がまばらにしかいないのがありがたい。あたしが鬼気迫る表情で階段を登っているからか、向こうから事情を察して先回りして避けてくれる。……うん、ほんとにごめんなさい。――でも、あなたたちの気遣いを無駄にはしない!


 職場から駅まで約十分、信号待ちの時間以外は全力疾走だったので、さすがに息が上がっている。太腿は弾け飛びそうだし、脇腹がきりきり痛むし、喉もとっくに嗄れている。


 でも、あと五段でこの苦しみは終わる! と自分を奮い立たせ、最後の追い込みをしようと足の裏に力を込めた瞬間、ピー、と甲高い笛の音が聞こえた。


(いや、ちょっと待って! あと少しだから!)


 ――あと二段、一段、着いたああああ! と黒いコンクリートの床を踏みしめたその時、ぷしゅう、と無情な音を立て、一つ身動ぎをした電車は、ゆっくりとホームから滑り出していった。


(あああ待って! 待って! 待ってえええええ!!)


 届かないとは知りながら、思わず電車に向かって手を伸ばす。そのまま悲劇のヒロインのようなポーズでホームに立ち尽くすことしばし、やがて電車が見えなくなった。

 横腹の痛みが限界に達したあたしはよろよろとホームの茶色いベンチに歩み寄り、ハァハァと荒い息を吐きながら天を仰いだ。


(……くっそぅ、空気砲で二段ジャンプができれば、階段なんてひとっ跳びだったのに……)


 ――いや違う。あれはゲームだ落ち着けあたし。

 ぼんやりと、ホームに設置された丸時計と電光掲示板を見上げる。次の電車は、二十一時五分。現在時刻は、二十時三十二分。


(あああ、本屋さん閉まっちゃう……詰んだな)


 今日は、愛読している漫画の発売日だ。――週半ばのこの日を楽しみに、大嫌いな残業を乗り越えてきたというのに、明日から何を糧に生きればいいのよ神様、と項垂れたあたしの脳裡に、天啓のように、ぱっとある光景が閃いた。


「……そうだ! あるじゃん、本屋さん!」


 脇腹の痛みも何のその、とばかりにすっくと立ち上がったあたしは、颯爽とホームを後にして、目的地へと急いだ。




 駅から徒歩三分の好立地にあるその書店に、実のところあたしは足を踏み入れたことがなかった。だって――会社の最寄り駅近くなんて、誰と出くわすかわからないからね! そんな軽はずみなことはしない絶対!


 職場では自分の趣味のことは一切伏せているあたしにとって、本屋さんとは楽園オアシスでありながら、同僚に趣味がばれる可能性をも孕んだ危険な場所でもある。だから必然的に、あたしの行きつけの本屋さんは自宅周辺に限られている。……まあ、特典によっては何軒も巡ったりしますけどね!


 おそるおそるガラス扉を開け、それとなく店内を見回す。――さすがにこの時間だからか、店内にはまばらにしか人影はなかった。……よし、職場関係っぽい人も今のところいない。


 店内の見取り図がないかな、と視線を巡らせると、入り口近くのレジ中にいた、若いお嬢さんと目が合った。まだ大学生くらいの、初々しい雰囲気の店員さんだ。

 軽く会釈して――彼女の後ろの棚に立てかけられた、ホワイトボードの文字に目が釘付けになった。



『――大人気『ソルギム』、最新刊発売キャンペーン! 特製しおり配布中!』



 くわっと瞳孔が開き、アドレナリンが全身を駆け巡る。――特典付きだと!?

 きっ、とフロアマップを睨みつけるあたしの目があまりにも狩人のようだったからか、さっきの店員さんがびくっと肩を弾ませた。それにも構わず、肩で風を切るようにして大股で店内を闊歩する。


 通路を真っ直ぐに進み、立ち読みしているお兄さんを避けて右折。のち、左手前方に、あたしのお目当てのコーナーがあった。


 くふふふふ、と我ながら怪しい笑みを浮かべながら、新刊を物色する。あ、あの作者さん新作出してるわー、今度買おう、とわくわくしながら、手に数冊掴んだコミックスの天を真剣に見つめる。……カバーと本体の折れなし、空気の入りも少ない! よし、合格!


 選りすぐった一冊を手に取り、意気揚々とレジへと向かう。ちなみに同じ漫画好きでも、親友のマナは列の一番上から躊躇いなく取るタイプである。――こだわりも好みも、人それぞれだよなあ、とその光景を目にするたびに、あたしはしみじみと感じ入る。


 よっしゃこれで今晩は完璧! とうきうきしながら、レジに並んでいると――



「……幹先輩?」



 躊躇いがちな声が、油断していたあたしの背中に襲い掛かった。


(ちょっ、ちょっとちょっと待った!!! これはまずい!)


 あたしの名前を知っているということは――十中八九、職場の同僚! というかこの声、めちゃくちゃ聞き覚えがある!


(……聞こえなかったふり、しちゃダメかな……)


 永遠に振り返りたくない気持ちをぐっと押し殺し、にこりと社交辞令じみた笑みを顔じゅうに張り付ける。――戦闘開始!


(あの名作を思い出せ――……仮面をかぶるのよ、ミキ!)


 振り向くと、やや緊張気味に強張っていた相手の表情が、マスク越しにもほっとゆるむのが見て取れた。馴染みのある面差しに、ふっとあたしの気持ちも和らぐ。


「ああ、佐伯ちゃん! お疲れ様、こんな遅い時間まで頑張ってたの?」

「いえ、そんな、幹先輩こそお疲れ様です。……今、お帰りなんですか?」


 佐伯ちゃんは、今年あたしが異動する前に、二年間同じ部署で働いていた子だ。一生懸命な頑張り屋さんで、仕事の覚えも早い、いい後輩のお手本のような、可愛い女の子。


「うーん、最近はちょっとね! 佐伯ちゃんこそ、大変じゃない? 今繁忙期だし、後輩もできたんでしょ?」

「そうですね、ちょっと大変です。でも、やりがいもだんだんわかってきたといいますか……充実、してます」


 言いながら、一歩前に出てレジに近付く。よし、次はあたしの番だ――と拳を握り締めた瞬間、佐伯ちゃんがとんでもない爆弾を投下した。


「でもやっぱり、幹先輩ってすごいんだなぁ、って。……あたし、こんな本を買って読んではいますけど、後輩との付き合い方って難しいなあって思いますもん。――先輩も、何かで勉強されたりしてたんですか?」


 そう言って佐伯ちゃんは、大事そうに抱えていた本をこちらに掲げ、あたしの手元をちらりと見遣る。……この流れはまずい! 非常にまずいぞ!


「そうかなぁ? 佐伯ちゃんって気遣いもできるし、後輩も遠慮なく相談とかできそうだけどね~」

「そんなことないんです……あの、先輩は、普段どんな本を読まれているんですか?」


 あはは、と浮かべていた笑みに、ぴしりと亀裂が浮かぶ音が、我ながら聞こえるようだった。あの名作だったら、確実に白目になってるやつ。

 佐伯ちゃんのまっすぐなまなざしが、こっそり背中に回したあたしの右手に注がれている。……いやいや、『後輩との付き合い方』なんて真面目な本を買おうとしているあなたの前に、ちょっと耽美な感じのイラストが描かれた表紙を差し出せるかい!



「お次の方―、どうぞ」



 ――はい詰んだー! 栗原幹、終了のお知らせです! 次回作をお楽しみに!


 打ち切りでよく見るワードが脳裡を過ぎったその瞬間、本日二度目の天啓が降りてきた。ひび割れかけた仮面を急いでかぶり直したあたしは、冷静な声音で店員さんに告げる。



「――プレゼント包装、お願いできますか?」



 ……よっしゃ、これで表紙を佐伯ちゃんに見られてもなんら問題なし! あたし天才! と、内心勝利に酔いしれていると――



「お客様、特典は……」「あ、ヴィードニル様でお願いしま――――三番で」



 ――やっちまった。



 何となく事情を察した若い店員さんが、慣れない手つきで一生懸命にコミックスを包んでくれる。……うん、ごめんね。せっかく包んでくれてるのにね。


 何事かを告げようとする佐伯ちゃんを遮るように、あたしは片手を挙げて口早にまくしたてた。


「ごめんね佐伯ちゃん、あたし電車の時間があるからこれで! じゃあまた、何かあったらいつでも相談してね!」


 ――むしろあたしが今すぐ誰かに相談したいわ! 助けて神様!


 綺麗にラッピングされた単行本を受け取り、あたしは猛ダッシュで書店を後にした。


 ――結果、次の電車にも乗り遅れたことと、ホームで佐伯ちゃんと気まずい再会を果たしたことを、ここに申し添えておく。

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