春の中を走る。

荒城美鉾

春の中を走る。



 走る。走る。走る。

 どうか、間に合って、お願い。

 満開の桜の下を走る。


 *


 まただ。私はすん、と鼻を鳴らした。

 甘いような、酸っぱいような、するかしないか程度の、かすかな匂い。

 中等部2年の教室がある廊下をぬける、午後の風にまざっている。

「そしたらね、田崎くん、付き合おうって!」

 告白して、付き合うことになったばかりの彼氏の話をしているミカ。好きな人のことで頭がいっぱい、って感じ。


 いつからだろうか。時々、「この匂い」を感じるようになった。

 時々、がなんのタイミングなのかは、思春期になるとわかるようになった。これは、「恋をしている匂い」なのだ。好きな人の話をしているとき。それから好きな人を見ていたり、強く意識したりしているとき、人は男女問わず「この匂い」を発する。

 どうやら私以外の人はわからないらしい。私はいつの頃からか、この匂いの話を人にはしなくなった。

 友達の好きな人を当てるのには大いに役立った。

 でも、それだけ。

 まだ寒い日の、水っぽい風みたいなこの匂い。

 この匂い、何かに似てるんだけど、なんだったかな──……。


「ナオは? 好きな人いないの?」

 突然呼ばれて、私は現実に戻る。

「牧田くんは?」

 ミカがひとしきり話して満足したのか、こちらに水を向けてくる。

「マキタ? やめてよ! あれは家が近いだけ!」

 マキタは隣に住んでるクラスメイト。おとなしくて、目立たない。家が近いだけ。親同士の仲がいいだけ。中学になってからほとんど話してないし。

 幼なじみ、なんてダサすぎて言えない。あいつとセットでカウントされたくないし。

「マキタはさすがにないでしょ!」

 と声をあげたところで教室の扉が開いた。

 マキタが私を見る。名前が聞こえたのか、気まずそうに目を伏せて行ってしまった。

 マキタはいつもタイミングが悪いのだ。

「ごめん」

 ミカが申し訳なさそうに言う。

「いいよ別に、どうせマキタだし」

「それでね、田崎くんが……」

 安心したようにミカがまた話し出す。ふわりと、またあの匂いがした。


「坂下、ちょっと」

 部活のあと用具を片していたら、男子部の先輩に呼ばれた。

 うそ。加藤君。私? 名指し?

「うん」

 手招きされるがまま、外についていく。

「坂下、今彼氏いないってきいたけど、ほんと?」

 完全に向こうに友達も見えてるけど、ここで告っちゃうのが加藤くんなんだろうな。さすがモテる人は違う。

「うん」

「じゃあ、よかったら俺と、付き合わない?」

「うん、えーと、その、はい!」

「おおー、じゃ、そういうことで」

 そういうと加藤くんは軽い感じでよかった、と笑った。

 私の鼻をあの匂いがくすぐる。いつもより、ちょっとだけ強い匂い。

 すごい。これが告白か。恋ってやつなんだ。私、いま、恋してるんだ。

──案外、ドラマチックじゃないな。


 帰り道、ホクホクしながら家の門を開けると、隣の玄関灯の下で誰かが立ち上がるのが見えた。

「おお、マキタ」

 待ち伏せ下手かよ。家の前で待ってたりしたら家族全員に筒抜けじゃん。せめてもうちょい手前で待ってろよ。

「……ちょっと、いい?」

 いいけど。


 公園まで移動したけど、これ家帰ったらお姉とかにいじられんだろうな。

「俺ん家、引っ越す」

「えっ? 引っ越すの?」

「そう。3年の4月からは新しい学校。受験は引っ越し先で迎えた方がいいからって」

「そっか……」

 私達はなんとなく黙った。中学に入ってからは確かにほとんど話すことはなくなったけど、マキタはやっぱり、大事な友達だった。

「マキタ、今日ごめんな。「あいつはない」とか言っちゃってさ」

「えっ、そんなこと言ってたの?」

 チッ。墓穴かよ。

「……いいけど。そっか」

 そう言うと、マキタはポケットに手を入れてブランコの柵に座った。

──あ、こいつ、けっこう背、伸びたな。私はぼんやりそんなことを考えていた。

 そのとき、信じられないことが起こった。

 私達の間に、「あの匂い」がしたのだ。

「あのさ……」

 マキタはいつも、タイミングが悪い。私はマキタの言葉を待たずに言う。

「私、加藤くんと付き合うことになったから」

「……そっか」

 マキタは立ち上がった。

「3月の最終土曜の朝7:30の電車で引っ越すんだ」

「早いな」

「なんか母さんがどうしても新幹線に乗りたいってさ」

「少女の心を持ってるな」

「だから……よかったら、見送りに来てくれないか」

「……行けたら行く」

「来ないやつの言い方だね」

「かもね」

 だって私、加藤くんの彼女だもん。


 3月の最終週、マキタの家は慌ただしく引っ越し準備をしていた。隣の家から見ていてもわかるほど。

 その朝、私はいつもより早く目を覚ました。加藤くんからのメールが届いたからだ。土日の予定を聞くものだった。

 私はそのメールの返信を考えながらベランダに出る。隣の家がふと目に入った。

 マキタの部屋にかかっていた子供時代からのカーテンがない。庭でおばさんが育てていた鉢植えもない。

 そっか。マキタはいなくなるんだ。

──いなくなったんだ。

 その瞬間、私はスマホを掴んで家を出る準備をしていた。


 走る。走る。走る。

 川沿いの道を、駅に向かって。

 どうか、間に合って、お願い。

 時間的には、どうだろう。

 満開の桜の下を走る。

 ああ、思い出した。

 梅ほどはっきりしていない、するかしないか程度の淡い香り。

 あの匂いは。桜の匂いに似ていた。


 本当はだめだけど、お姉に借りてきた定期で自動改札を叩く。ホームを走る。

 ホームには何人かの人がいる。いつもより多い? ていうかいつものホームなんて知らないんだけどさ。

 電車はもう行ったところだろうか。

 私はマキタの姿を探してホームを走り回る。

 マキタ。マキタ。マキタ。いない。

「マキタぁ……」

 私は切れた息の下でそうつぶやくと、ホームに座り込んでしまった。

「なに?」

 驚いて顔を上げる。マキタがトイレから出てきたところだった。私はホームを端まで走りきって、トイレの前に座り込んでいた。

「なんでまだいんの」

「なんか信号故障で電車が遅れてるんだって」

 マキタは私の手をとって立たせた。

「で、俺が何?」

 マキタはまっすぐに目を見て言う。

 いや、お前が来いって言ったんだろ。

「あんたは…いつもタイミングが悪すぎんの!」

 強い風が吹いて、桜の花びらを散らせた。



 了

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春の中を走る。 荒城美鉾 @m_aragi

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