時速30キロの旅路

神山雪

時速30キロの旅路

 出前のラーメンには専用のラップがあると私が知ったのは、バイトを始めたその日だった。大学進学のために上京し、生活の足しにバイトをしようと思い立ち、アパートから徒歩5分のところの中華料理屋のチラシに飛びついた。「原付の方大歓迎!」と書いてあったからだ。


「ラーメンができたらね、まず丼にそうようにラップをかけるのよ」

「はあ、はあ」


 大鳳亭はどこにでもありそうな、赤い看板、白い暖簾の小さい店だ。店を彩るテーブル類は一昔前のデザインで、メニューもラーメンや餃子といったありふれたものだ。女将は50そこそこの恰幅のいい女性で、旦那さんが出前を行っている。

 行っていた、といった方が正しい。


「薄い分強いから。一枚ラップを掛けたたら、今度は十字になるようにもう一回ラップを掛けるの。そうすれば、汁も溢れないから」


 カウンターの向かいに座る旦那の足には厳重に包帯が巻かれていて、それが出前ができなくなった理由を声高に語っていた。


「はい、ラーメン一丁と餃子一皿。後、海老チャーハン一人前。3丁目のサチさんのところね。常連さんだから」


 女将さんが手際よくアルミの出前箱に入れていく。本当に汁が漏れないのか私には半信半疑だったが、ラーメンは待ってくれない。Googleマップでしっかりと場所を確認し、ヘルメットをかぶって私は走り出す。

 

 

 店の原付は125cc以下なので、法定速度は30キロだ。自転車や本気の街ランをしているランナーと並ぶこともしばしばある。どどどどどとどう聞いても全く速くないエンジン音がやけに大きく響いた。乗り心地は悪くないが、この原チャリは一体いつの年代のものだ? 道沿いに植えられたソメイヨシノが、一斉に花ひらきながら、原付よりも速いスピードで舞っていく。信号や道幅が狭い分、地元での運転よりも気を使う。


 3丁目のサチさんの家は大鳳亭から走って十分の一軒家だった。ラーメンが伸びていないか心配になりながら、玄関のチャイムを鳴らす。すぐに出てきたのは、古希も過ぎた女性だった。この方がサチさんだろうか。


「大鳳亭の方、ですか?」

「はい。今日からバイト始めなんです」

「ああ、旦那さんが怪我されたからねえ。それはご苦労様」


 扉の奥から、サチ、と呼ぶ声がした。テレビの音が漏れる。出前箱からラーメンを出すと、確かに汁が全然漏れていなくて静かに感動した。麺も伸びた様子はなかった。


「ごめんなさいねえ。うちの人、大鳳亭のラーメンと餃子が好きだから。早くいただきたいのよ」

「皿は玄関に置いておいてください。夜に回収に伺いますから」


 サチさんから代金をいただいて家を出た。ここからは、店までの短いドライブだ。


 忙しない街の様子を眺めながら、原チャリの運転を楽しむ。赤城山の麓で気ままに運転していた頃とは違う楽しみがここにあった。山は走ることと山の空気を楽しみ、街は走りながら街中の様子を五感で楽しむ。この街は人通りが多くて少し忙しない。子供が元気よく掛けていく。赤信号で止まった私の鼻に、1メートル先のコロッケ屋の香ばしい香りが届いてきた。

 

 これが3年と10ヶ月前、私が初めて出前に行った日のことだった。

 

 *

 

 慣れ切ったシート。握り慣れたハンドル。旦那さんの足がよくなった後も、私はバイトを辞めずに出前を運び続けた。そんな日々も、今日で終わりだ。夜の道は人の姿がまばらだった。時折、同業者のようなウーバーイーツのバイクとすれ違う。


 私はサチさんの家に、食べ終わったであろう出前の皿を取りにいった。この4年弱の間、この家に何回大鳳亭の料理を運んだだろうか。


 サチさんの家の玄関には、昼に注文された海老チャーハンの皿だけが置かれていた。ラーメンと餃子が頼まれなくなったのは一年ぐらい前だ。サチさんの元に届けるのは海老チャーハンだけになり、サチ、と飛ぶ声も奥から届かなくなった。その件について、当たり前だが私は何も聞かず、サチさんも何も言わなかった。


 家の中は既に暗くなっているから、さっと回収して店に戻ろうとした。


「あれ……?」


 洗われた皿に、一枚の便箋が置かれていた。出前の方へと書かれていたので、私は皿を出前箱に入れた後、丁寧に便箋を開いた。

 

 『いつもありがとうございました。これからも頑張ってくださいね』

 

 水仙の花が描かれた、品のある一筆箋に、流麗な字でそう書かれていた。前の出前の時に、うっかりと言ってしまったんだっけ。地元に就職することになったから、このバイトももうやめないといけないと。


 今日が最後だとは言っていないのに、覚えていてくれたのか。湧き上がるものを自覚しながら、私は一筆箋を便箋に入れ、コートのポケットの中に閉まった。もう、ここに届けにくることもないだろう。


 

 ハンドルを握って走り出す。どんなに頑張っても、原付はやっぱりそんなに速くは走れない。どこまでも30キロで走っていく。あの道もこの道も通り、大鳳亭から半径5キロメートル圏内はほぼ網羅しているといっていい。


 走りながら、あの家には餃子を5人前届けた、とか、5丁目のゲンさんの家には滅多に頼まれない坦々麺を届けたなとか思い返す。どんな時でも、厳重にラップを貼り、アルミの出前箱に入れて、この原付で届け続けた。


 赤信号で停車すると、ひらき始めたソメイヨシノの花弁が一枚だけ舞ってきた。


 散る花が幸福を与えてくれるように、走った分だけ幸せを運んだと思いたい。


 初めて乗った時と同じ壊れそうなエンジン音で、私は店までの最後のドライブを楽しんだ。

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時速30キロの旅路 神山雪 @chiyokoraito

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