第5話 殖栗孝(44)の晩餐「バツイチ気弱男の春野菜まんきつ御膳」



『明日の昼すぎにそっちに向かうから。お寺さんへの段取りはどうなってるの?』

 弟からかかってきた電話に、殖栗うえぐりは目を擦りながら出た。

 寝ぼけた声で、「朝っぱらからなに」と問えば、即座に『時計を見ろバカ』と手厳しい。

 壁の時計を見るとすでに10時半で、リビングに差し込む陽光が眩しい。

 電話は、土曜日に行われる母親の四十九日の法要のことについての確認だった。

『もしかして今起きたの? たるんでいるなぁ、いい加減しっかりしてくれよ。兄貴がそんなんじゃお袋も心配して成仏できないよ』

 弟の呆れた声を聞きながら、殖栗は「うん……」と力なく応えた。


 電話が終わると、殖栗は二度寝を諦めて起き上がった。

 辺りに散らばっているビール缶やつまみの袋を拾って捨てた。元々酒は強くないのに、昨夜は4缶も飲んでしまった。そのまま酔いつぶれてリビングのソファで寝てしまったらしい。

 シャワーを浴びるとやっと目が覚めた。顔を洗い、伸びっぱなしだった髭も丁寧に剃った。

 実家に戻ってきてから二週間と少し経つが、深夜にコンビニへ買い物に行く以外は外に出ず、誰にも会わず、昼間から酒を飲んで寝てまた飲んで……という自堕落な生活を送っていた。

 明日は弟一家がやってくる。義妹と小学生の甥と姪も一緒だ。だらしないことをしていては、また弟に叱られてしまう。


 リビングや客間の掃除をしていたら、あっという間に昼になった。パンとコーヒーのみの簡単な食事を済ませると、殖栗は約一週間ぶりに外へ出た。

 汗をかくほどの陽気で、道ばたにはピンク色のツツジが咲いている。

 子供の頃は学校の帰り道によくツツジの花を摘んでその蜜を啜ったものだ。蜜はほんのちょっぴりしか出なかったけれど、甘いものが口に入るだけで嬉しかったっけ……そんなことを思い出しながら商店街へ行った。母親の葬儀以来、クリーニング店に預けっぱなしだった喪服を回収した。


 荷物を持ったまま、今度は高台にある小学校へ行ってみた。殖栗の母校である。

 春休みのためかグラウンドに人影はなかった。校舎内には立ち入らなかった。数年前に校長になったという恩師に会いたい気持ちはあったが、今の自分は知られたくない。

 ぶらぶらと坂をくだっていくと、右手に「篠原書店 学校用品あり」と書かれた真新しい看板が見えた。

 殖栗は思わず「えっ」声をあげた。

(あの店、まだあるのか……)

 と思うと無性に気になった。


 看板の先へ進むと、果たしてそこに篠原書店はあった。

 殖栗はあまりの懐かしさに、店の前でしばし佇んだ。

 30年以上前の小学生の頃、この店には足繁く通ったものだった。雑誌や書籍だけでなく、体操服や上履きといった学校用品や駄菓子、玩具なども売っていて放課後は子供たちのたまり場だった。


 当時、殖栗は毎週のように週刊少年ジャンプを買っていた。

 月曜日にジャンプを学校に持っていくと、クラスメイトが「見せて見せて」と言って寄ってくる。つかの間でも人気者になれた気がして嬉しかった。

 ジャンプの発売日は月曜だが、この店には土曜の午前中に入荷するため、そのまま早売りをしていた。土曜日は朝から小銭を握った少年たちがたむろして入荷を待っていた。

 殖栗が自転車に乗って買いに行くと、店の前にはいつも店主のおじいさんが立っていて「ジャンプあるよ~」と言って手を振ったものだった。

 店主は、自分から声をかけられない殖栗の気弱な性格をよくわかっていた。


 殖栗は店に客がいないのを確認すると、ガラス戸を引いて中に滑り込んだ。

 薄暗い店内には、昔のまま雑誌や漫画が所せましと並べられていたが、駄菓子や玩具はなく代わりに洗剤や掃除用具、化粧品などの日用品が売られていた。

 篠原書店は、店主の篠原氏が引退後に道楽で始めた店だった。

 元々篠原家は近隣の山林の多くを所有する大地主で、県会議員を輩出する地元の名士だった。

 小・中学校を建てる際も莫大な寄付をしており、地域住民から尊敬を集めていた。

 殖栗は店主の姿を探したが、見つからなかった。30年前でも高齢だったから、すでに鬼籍に入ったと思われた。


 殖栗が書棚を見ていると、突然奥の方から声がした。

「あれ、もしかしてクリリン? クリリンじゃない?」

 声がした座敷の方を見れば、エプロンをかけた小太りの女性が降りてくるところだった。

 クリリンは殖栗のあだ名だ。殖栗もまた女性の顔をまじまじと見た。だいぶ丸くなっていたが、その顔には見覚えがあった。

「もしかして……ヨッシー?」

「そうよ、ヨッシー。良かったぁ。覚えてくれてたのね」

 女性は嬉しそうに目を細めた。小・中学校で同級生だった篠原芳美よしみだった。

 店主の孫娘で、昔は学校のみならず店でもよく顔を合わせていた。

 彼女は明るくおしゃべり好きで、当時殖栗が緊張せずに話せる唯一の女子だった。

 とはいっても、いつも芳美が一方的に話し、殖栗は黙って聞いているのが常だったが。

 

「ほんと久しぶりね。こっちに帰ってきてたの?」

 と言いながら芳美は傍に来た。

「ああ、母親が先日亡くなって……。家を管理する人間がいなくて俺が……」

「Uターンてやつね。お母さんはご愁傷様でした。家は人が住まないとあっという間に荒れちゃうもんね。でもこんなド田舎、奥さんは大丈夫なの? 暮らせる?」

「あ、いや……」

 そこで殖栗は言葉に詰まった。少し沈黙した後、消え入りそうな小さな声で言った。

「その、妻とは別れたんだ……。色々あって疲れて……仕事も辞めて一人で戻ってきた」

 離婚の件は、できれば言いたくない話題だった。気まずい空気が流れるだろうし、芳美にも気を使わせてしまう。


 しかし、芳美の反応は殖栗の想像とは違った。

「奇遇ね。私も同じよ。2年前に旦那と離婚が成立したんだけど、家を出た後も揉めてさぁ……。最近やっとこっちに戻ってきたの」

「えっ、そうなの?」

 殖栗は驚いた。確か芳美は、地元の短大を卒業した後、町で一番大きな料亭の跡取りと結婚したはずだった。

 母親が「さすが篠原のお嬢様は違うわねぇ、昔も今も嫁ぎ先には困らないのね」と感心していたことを覚えている。

 芳美はなんでもないことのように続けた。

「そ。子供が成人したんでね。あ~せいせいした」

「……ヨッシーは、料亭の女将を立派に務めているとばかり思っていたよ」

「全然。そもそも店になんて立たせてもらえなかったしね。私には何の自由もなかったよ。義実家や旦那が欲しがったのはうちからの投資と後継ぎだけ。旦那は息子ができた途端、愛人作って帰ってこなくなったし、もう最悪オブ最悪。そりゃこっちもさっさと別れたかったけど、しがらみがてんこもりでね……。でも今は悪くないよ。自由の身になれたから、おじいちゃんの店を継げたわけだし」

 一気にまくし立てられて、殖栗は面食らった。相変わらずのマシンガントークに、芳美は昔と何も変わってないと思った。今は芳美が店主と知ると少し嬉しくなった。

「そういえば……おじいさんは?」

「元気よ。今は施設に入っているの。100歳近いのにピンピンしている。今日も裏山で採れた山菜を届けてきたばかり……あ、そうだ」

 とそこで芳美は奥の座敷へ走って行き、新聞紙で包んだ何かをスーパーの袋に入れて持ってきた。


「うちの山で採れた山菜あげる。余り物でごめんね。食べきれないから必死で配っているのよ」

 殖栗が包みを受けとると、ずっしりと重たかった。

 貰ってばかりでは悪いと思い、殖栗は近くにあった週刊誌を取っておずおずと差し出した。

「ありがとう。……これ貰うよ」

「やだ~クリリンいい人! そういうとこちっとも変わってないねぇ。あ、他のも買ってくれていいからね。遠慮しないで」

 芳美はけらけらと豪快に笑った。殖栗もつられて笑ってしまう。頬が無理矢理にも上に引っ張られたのがわかる。久しく忘れていた筋肉の動きだった。


 賞賛半分、呆れ半分に殖栗は言った。

「いや、なんていうか、ヨッシーはすごいな。俺は……まだ、きみのようにはなれない。妻のことを思い出すと辛いしさ……。周囲に離婚のことを知られたくないし、知り合いにも会いたくない……」

「私も離婚して半年位はそうだったかな。40過ぎて出戻りなんて、落ち武者みたいで悲惨よね」と芳美はあっさり言った。

「落ち武者……」

「この20年は一体なんだったんだろうと思うと、あまりに虚しくて消えてしまいたくなったよ。でも、時間が経つにつれて割とどうでもよくなったっていうか。うまく言えないけど、離婚して自活を始めた今が一番人として生きているかんじがする」

 だから気にせずまた来てよ、と芳美は大真面目に言った。

 そして殖栗と一緒に外へ出ると、かつて祖父がそうしていたように手を振って見送ってくれた。


 帰り道、殖栗は芳美からもらった山菜の包みを覗いた。大きな筍が一つ、ふきのとうが10個ほど、それから菜の花の束が見えた。ここしばらくは酒や乾きものばかりで、ろくな食事をしていなかった。

 今日は木曜日。木曜日の晩餐は、簡単に作れておいしいものが一番だ。が、今の自分は気楽な無職で時間だけはたっぷりある。今夜は春野菜をたっぷり食べて栄養をとろう。

(春野菜で作る晩餐か。採れたてだからうまいぞ……)

 そう思えば、心がウキウキする。

 さらに食材を買い足すためにスーパーに寄ると、春キャベツ、新玉葱、油揚げ、卵、クリームチーズ、悩んだ末にビールを1缶だけ買った。


 家に帰ると15時前だったが、早速夕食の準備にとりかかる。

 山菜はアクが強く、採ったらすぐにアク抜きをしなくてはならない。

 子供の頃から台所に立ち、母親の調理を手伝っていた殖栗はそのことがよくわかっていた。

 結婚してからも、休日になるとよく料理をした。しかし妻の亜伊子あいこは、殖栗の料理を全く喜ばなかった。

『そういう妙に器用なところもイライラすんのよね。女々しいっていうか』

 今となっては殖栗にもわかる。自分が良かれと思ってした行為は、料理が得意でなかった亜伊子のプライドを傷つけていたのだと。

 亜伊子とは10年間一緒にいたが、とうとう彼女の望む男にはなれなかった。彼女が出て行ったあとは、戻ってきてくれと泣いてすがり3年も待ち続けた。

 だが亜伊子は戻って来ず、時間ばかりがすぎて今に至る。


 殖栗は考えることをやめ、作業に徹することにした。

 まずは米を2合研ぎ、とぎ汁は鍋に入れてとっておく。

 筍は皮ごとよく洗い、先端は斜めに切って落とし、1~2cmほど切り込みを入れる。とぎ汁を入れた鍋に筍を入れて火にかける。沸騰したら中火にして蓋をし、時々水を継ぎ足しながら2時間ほど煮てアクを抜く。


 筍を煮ている間に、ふきのとうでふき味噌を作る。これは酒のつまみだが、おかずとして食べても美味しい。

 ふきのとうは洗ってみじん切りにする。フライパンにごま油を多めに入れ、刻んだふきのとうを入れて手早く炒める。

 油を吸ってしんなりしてきたら、味噌・大さじ4、みりん・大さじ2、砂糖・小さじ1を混ぜて弱火にし、さらに炒めて水分を飛ばす。

 火が通ると別の容器に入れて冷まし、クリームチーズを入れて和える。

 これでふき味噌のクリームチーズ和えの完成。ビールにも日本酒にもワインにも合う万能のつまみだ。


 菜の花は、シンプルに食べた方がうまいのでおひたしにする。

 鍋に湯を沸かして塩を入れ、菜の花の茎の方を下にして束ごと入れる。

 1分半ほど煮てからザルに上げ、その際にゆで汁をカップ半分ほど取っておく。菜の花は冷水でしっかり冷やし、固く絞った後に食べやすい大きさに切って容器に入れる。

 取っておいたゆで汁が冷めてから、醤油・大さじ2とみりん・大さじ3、練りカラシ・大さじ1を加えて混ぜる。ゆで汁で作っただしを菜の花にかけて全体に馴染ませた後、冷蔵庫へ入れて冷やした。


 ここまで来て殖栗は一息ついた。喉の渇きを覚え、ビールを取り出した。

 小腹も空いていて、もう我慢できない。筍の水加減を見ながら、冷えたビールをぐいっと飲み、ふき味噌のクリームチーズ和えを頬張った。

 途端、ふきのとうの爽やかな苦味が口いっぱいに広がる。味噌とクリームチーズの濃厚さに水分が欲しくなり、さらにビールが進む。今日の酒はこの1缶で終わりにするつもりだ。

 いい加減、前に進まなくてはいけない……と殖栗は思った。もう亜伊子は戻って来ないし、飲んで現実逃避していても仕方ない。


 筍が茹で上がると、穂先は繊維にそって縦に切り、根本はいちょう切りにする。

 水に浸しておいた米を炊飯器の釜に移し、だし汁を2合のメモリまで注ぎ、醤油・大さじ3、みりん・大さじ2、塩・小さじ1を加える。

 その上に筍を重ね、一番上に油揚げ1枚を細かく切ったものを入れて炊く。

 筍ご飯を炊いている間に味噌汁を作る。鍋にお湯を沸かしてだしを入れ、千切った春キャベツと薄切りにした新玉葱を入れて5分ほど煮る。味噌を溶かし、最後に溶き卵を入れる。


 筍ご飯ができるとしゃもじでよく混ぜて盛りつけ、ふき味噌のクリームチーズ和え、菜の花のおひたし、春キャベツと新玉葱の味噌汁と共にテーブルに並べた。

 一見すると地味に見えるが、筍ご飯以上の春のご馳走はない。

 筍はしっかりとアクが抜けてやわらかかった。噛みしめると、山の滋味が口いっぱいに広がる。

 歯ごたえも味わいも、市販の茹で筍とは比べ物にならない。ふき味噌をごはんに乗せて食べてもうまい。


 菜の花は、カラシとだしの味がしっかりとしみていた。歯ごたえと共に、ほどよい辛味が舌を刺激する。味噌汁は春キャベツと新玉葱のほのかな甘みが卵に包まれてなんとも優しい味がした。

「は……うまい……」

 思わずため息が漏れた。殖栗は子供の頃から親しんだ故郷の味を思いだした。

 採れたての山の幸をその日のうちにいただく、これ以上の贅沢はない。

 同時に芳美の顔が思い出された。

 あの豪快な笑顔と彼女が山で採った素朴な山菜に、自分は救われたのかもしれない……そう思うと、また彼女に会いたくなった。亜伊子ではなく、今は芳美に会いたかった。


【了】

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木曜日の晩餐 八島清聡 @y_kiyoaki

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