第4話 安居悠里(34)の晩餐「友の帰還と鶏ハムの温野菜のせシャンパン風味」
『
朝、混んだ電車内で、悠里はスマートフォンの画面を凝視したまま固まってしまった。
それから約2年ぶりに
たっぷり5分は見ていただろう、既読になったのに気づいたのか再び真由からメールが来た。
『近々会いたいんだけどどう?』
悠里は真由に電話したい衝動にかられた。
真由の声や、屈託のない笑顔がありありと思い出され、胸が苦しくなった。
しかし、今自分は通勤の途中だ。次の駅で降りて電話などしていたら会社に遅刻してしまう。
電話は諦めて、震える指で返信した。
「いいよ、週末は空いてる」
すぐに真由から返信がきて、明日の夜会うことになった。
今日は木曜日、金曜を乗り切れば週末だ。
悠里は詰めていた息を吐き、真由と距離を置いていた数年を思った。
真由との付き合いは10年以上に及ぶ。
出会いは、大学入学直後のオリエンテーションだった。
悠里は地方から上京して一人暮らしを始めた直後で、東京に知り合いは一人もいなかった。
元々性格はおとなしく、引っ込み思案だったが、小学生の時に両親が離婚して大好きだった父と別れたことが人格形成に暗い影を落としていた。学校でも友人はできず、いつも一人ぼっちだった。
反対に、真由は美人で明るく人当たりのよい性格だった。帰国子女で英語がペラペラだったし、着ているものも垢ぬけていた。オリエンテーション後もやたらと声をかけてきて、悠里を仲間の輪に入れようとした。
悠里は当初は困惑したものの、真由の親切を素直に受け取ることにした。真由のことが好きになったし、彼女と一緒にいた方が楽しい大学生活を送れるだろうと思った。
真由は、悠里の知らない色んなことを教えてくれた。ナチュラルメイクの仕方、流行っている服や小物のブランド、都内の危険スポットや言い寄ってくる男のあしらい方など。
彼女はモテたので、彼氏が常にいた。時には夜遊びもしたが、羽目を外すことはなかった。根が真面目で努力家なので、勉強もよくできた。
実家暮らしの真由は、時々悠里の家に遊びに来た。ジュースやお菓子を飲み食いしながら、二人はテレビを見、携帯をいじり、化粧をし合って遊んだ。一緒に買い物に行ったり、試験後にスイーツの食べ放題へ行ったり、伊豆に貧乏旅行したりした。真由はよくしゃべり、よく笑った。時には愚痴や弱音や悩みを吐くこともあった。
二人の友情は、社会人になった後も続いた。
大学卒業後、麻友は大手商社の総合職、悠里は中小メーカーの一般職で働き始めた。
週末になると、真由はよく悠里の家に泊まりに来た。月に1.2回は真由が行きたがるイベントや食事会へ一緒に参加した。
交友関係が広い真由は、会社経営者から有名なクリエーター、芸能人やモデルまで普通に暮らしていたらまず出会えない人々を紹介してくれた。その人たちと親密になることはなかったけれど、悠里は満足だった。真由と一緒に過ごせるだけで嬉しかった。
自分が地味でダサいせいで真由に恥をかかせてはいけないと思い、服装や化粧にも気を使うようになった。
最初は勇気がいったが、初対面の人にも物怖じせず積極的に話しかけるようにした。
社交辞令を覚え、なるべく笑顔でいるよう心がけた。会社では声や表情が明るくなったと言われ、客先からも対応を褒められるようになった。
良い方向へ進むたびに、悠里は真由のことを「世界と私をつなぐ大事な糸」だと思った。
友人であり恩人でもある真由を通してこそ、自分は成長できたのだと。
結婚して家庭をもっても、子どもが生まれても、彼女とはずっと仲良くしたかった。
木曜日は、どうしてか時間の流れがゆっくりしている。
日が落ちて定時になると、真由は会社を出た。
就職して13年目、給料は雀の涙ほどしか上がらなかったが、元々仕事量は多くないし残業や休日出勤もない。休みも取りやすい。
転職するごとに年収を100万単位で上げていった真由とは収入面でもキャリアでも大きな開きがあったが、悠里はこれで良いと思っている。自分の能力に合っている仕事だ。
帰りに、普段は利用しない高級スーパーに寄った。普通のスーパーには売っていない高級食材や珍しいものが手に入る。今日はなんだかお祝いしたい気分だった。
酒類のコーナーへ行くと、思いきってシャンパンを買った。自分のためにシャンパンを買うのは初めてだ。
冷蔵庫に仕込んだものを考え、玉葱、黄色のミニトマト、ベビーリーフ、生姜、マスタードをカゴに入れ、パン屋で焼きたてのバケットを買った。紙袋に入れられたそれを持つと、パリジェンヌのような気分になった。
木曜日の晩餐は、簡単に作れておいしいものが一番だけど、今日は復習もかねて見栄えのよいオシャレなものを作ろう。
(いつか晩餐と呼べるようなものを作れるようになりたい……)
そのためには料理の腕を磨くしかない。
家に帰ると、まず冷蔵庫から鶏ハムの下ごしらえを取り出した。
これは鶏むね肉300gの皮をとってフォークを刺して穴をあけ、砂糖・大さじ1をすりこみ、すりおろしたニンニクと塩・大さじ2をジップロックに入れて一晩寝かせたものだった。
こうすると肉が柔らかくなり、味がよく染みる。
ジップロックから肉を取り出すと、水に漬けて30分ほど置き塩を抜いた。
キッチンペーパーで鶏肉の水気をとり、円柱状にしてサランラップできつく包む。
炊飯器に70~80度くらいのお湯と、サランラップの肉を入れる。保温にしてタイマーを90分にセットした。これで鶏肉に徐々に熱が入り、おいしい自家製ハムができる。
ハムを炊飯器に放り込むと、悠里は喉の渇きを覚えた。シャンパンクーラーに入れて冷やしたシャンパンの栓を抜いた。
そのままプラスチックのカップに入れて飲む。黄金色の液体は冷たく、するりと喉を伝っていった。爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、悠里は大きく息を吸って吐いた。久しぶりに飲んだが、なんておいしい飲み物なのか。
シャンパンの味を教えてくれたのも真由だ。彼女は週末になると、シャンパンを持って悠里の家にやってきた。シャンパンはボランジェ、ローラン・ペリエ、ルイ・ロデエール、クリュッグ……どれも悠里の給料では手が出せない高価なものだった。飲むときに必要だからとシャンパンクーラーもシャンパングラスもプレゼントしてくれた。
悠里はせめてものお礼にと、サラダや肉の煮込み料理やチーズなどつまみを沢山作って待した。真由は喜び、おいしいおいしいと言って食べてくれた。
そのままシャンパンを飲み続けたい気持ちをぐっと堪え、カップを置く。
鶏ハムに乗せるソースが必要だ。野菜たっぷりのものにしようと決めていた。
玉葱半分を薄切りにし、生姜をすりおろす。玉葱はレンジに入れ600Wで3分ほど加熱する。フライパンにオリーブ油をひき、生姜を小さじ1ほど入れて加熱する。
生姜の良い香りが出たところで、玉葱と塩を少々入れてしんなりするまで炒める。
そこで隠し味としてシャンパンを大さじ3入れた。本当は白ワインを入れるのだが、今日は切らしているし、シャンパンでも問題ないと思われた。さらに水を大さじ3入れて5分ほど煮る。
玉葱が煮えると、黄色のミニトマトを輪切りにして加える。
最後に、マスタードを大さじ1と黒胡椒を少量入れて混ぜるとソースが完成した。
玉葱とミニトマトのソースを作り終えると、あとはハムが出来上がるのを待つのみとなった。
悠里は食器棚の奥から、シャンパングラスを取り出した。
小さなテーブルの上に、白樺模様の北欧製のランチョンマットを敷いた。金のフォークとナイフも並べた。社会人になってから少しずつ買いそろえたお気に入りの食器で、木曜日の晩餐を飾り立ててゆく。室内に密やかな楽しみが満ちていく。
30歳を過ぎた頃に、真由は最愛の母を事故で亡くした。
彼女は深い悲しみから憔悴し、食事も満足にとれなくなってひどく痩せてしまった。
悠里は心配し、真由に電話やメール、あるいは直接会って必死に励まし続けた。
1年後、真由はすっかり立ち直ったかに見えた。みんなで遠出がしたいと言い出したので、悠里は旅行を計画した。真由と共通の友人4人と共に湯河原へ遊びに行った。
ホテルの夕食が終わると、一室に集まって宴会が始まった。
真由はハイペースで酒を飲み、そして宴もたけなわというところで突然泣き出した。
俯いて、しゃくり上げながら彼女は告白した。自分は半年前から妻子ある男と付き合っていると。
母さんが死んで寂しくて仕方がなかった、その時にあの人はとても優しくしてくれて……ずるずると関係を持ってしまった。でも彼の奥さんや子供のことを思うと申し訳なくて死にたくなると。
悠里にとっては晴天の霹靂だった。到底信じがたかった。賢くて仕事もできて、明るくて優しい真由が不倫をしているなんて、あまりにも似つかわしくない。
友人たちは「早く別れた方がいい。何もいいことはない」「あなたは遊ばれているだけ」「悲劇のヒロインになって酔っている」と口々に真由を諌めた。悠里も同感だった。真由は愚かな過ちを犯していると思った。
不倫相手の加藤にも腹が立った。母親を失って情緒不安定になった真由の心につけ入った卑怯な男だと思った。だが、怒りも悲しみも声にならなかった。何か言おうとしても言葉が空回って意味のある単語にならない。ひどい眩暈がして、唇をぎゅうと噛みしめるしかなかった。
真由に言ったことはないが、悠里はかつて真由が申し訳なく思う妻子の側にいた。
母は父を責めなかったものの、成人後に叔母から両親の離婚の真相を聞かされた。父は外に女を作り、母と自分を捨てたのだ。
その後も、真由は加藤とは別れずだらだらと関係を続けた。友人たちは呆れ、「もう関わらない方がいい」と悠里に忠告した。
悠里は悩んだ末に、真由とは距離を置くことにした。真由から誘いが来ると適当な理由をつけて断り会わなかった。
彼女との関係を完全に断ち切ることはなかった。それは悠里自身の心の弱さでもあったし、真由を信じたい気持ちの表れでもあった。友の過ちを犯したときに、叱って責めて諭すだけが友情ではないだろうと思った。
炊飯器がピピピと鳴り、鶏ハムの完成を知らせてきた。
悠里はキッチンへ行き、炊飯器からハムを取り出すと氷水で冷やした。冷えてハムが固まるのを待ってから包丁で慎重に輪切りにした。
大きな平皿を出すと、鶏ハムを円状に並べ、その上に玉葱と黄色のミニトマトのソースをのせた。ハムとハムの隙間にベビーリーフを散らす。バゲットは切って、オーブンで軽く焼いた。
鶏ハムの温野菜のせとバケットをテーブルに運び、グラスにシャンパンを注いだ。
シャンパンのゴールドと黄色のミニトマトがなんとも華やかで美しく、べビーリーフの緑が鮮やかだ。ビタミンカラーは見ているだけで元気が出る。
鶏ハムを口に入れると、肉はしっとりとして柔らかく、温野菜は玉葱の甘みとトマトの酸味、マスタードのピリリとした辛味が合わさって絶妙な味だった。舌の上にかすかに残るシャンパンが後を引く。
カリっとして香ばしいバケットも口に頬張る。これは酒が進んでしまう。
「うん、おいしいね」
誰もいないのに、相槌を打つかのように呟いてしまった。
友は悪い夢から覚めた。きっとこれからは一緒にお酒が飲めるし、この料理を「おいしい」と言ってくれるだろう。
悠里は食べながら、知らず知らずのうちに微笑んだ。
ずっとそうだったし、今でもそうだ。
私が傍にいてもいなくても、あなたにはいつも笑っていて欲しい。
いつでも願っている。あなたの幸せを願っているから――。
【了】
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