第3話  長谷川恭平(30)の晩餐「読書男子の卵納豆ツナパスタ」




「で、休む理由は何?」

 上司の鋭い視線を受けながら、恭平は慎重に言葉を選んだ。

「……私用です」

「病院か?」

「違いますが、大事な用でして」

「困るんだよねぇ、年度末で忙しいのに。そりゃ有休はきみの権利だ。でもねぇ……」

 わざとらしくため息をつかれて、恭平はげんなりした。

 確かに今は年度末だが、自分の所属する課はそれほど忙しくない。休みを取りたい旨は周囲に伝えてあり、根回しは済んでいる。

 有給休暇を電子申請し、部長である天満てんまの承認が降りれば休みは確定する……はずだったが、なぜか呼び出されてしまった。

 天満は「俺の若い頃は休みなんて取れなかった」と尚もネチネチと嫌味を言った。

 恭平は「はい、はい、申し訳ありません」を繰り返し、余計なことは一切言わなかった。結局、天満はぶつぶつ言いつつも有休を承認した。


 一週間後、恭平は朝7時に出社し、午前中のうちに急いで仕事を片付けた。

 昼食も取らないまま、13時ジャストにタイムカードを切って会社を飛び出した。

 入口のところで、ランチから戻ってきたらしき女性社員たちとすれ違った。

「長谷川さん、外回りですかぁ」

 今や耳に馴染んで久しい声に振り返ると、経理部の笠井あかりだった。

「すみません、今日はもう帰ります」

 と答えると、あかりは目を丸くした。


 恭平は逸る心を抑えながらせかせかと歩き、駅前の書店に飛び込んだ。

 目的は一つ、本日発売の新刊「暗黒大陸」の第8巻を買うためである。

「暗黒大陸」は中世ヨーロッパのような世界のファンタジーで、新刊はおよそ7年ぶりの発売だった。

 作者は日本人で、昔はファンタジー好きの間で多少知られている程度だったが、海外で英訳版が出て人気が沸騰し、ハリウッドで映画化されると大ヒットを記録した。

 しかし、作者が病気で倒れてからはなかなか続巻が出ずファンをやきもきさせていた。


 恭平は小学生の頃に図書館で「暗黒大陸」を読んで以来大ファンになり、20年以上シリーズを追いかけている。

 わざわざ半休を取ったのは、待望の新刊を発売日に購入し、いち早く読むためだった。

 彼にとって暗黒大陸を読むことは何ごとにも代えがたい大事な用事だったが、「読書のために休みたい」と言っても周囲からは理解されないだろう。特に天満のような気分次第で嫌味を言ってくる上司には。だから会社の誰にも言わなかった。


 恭平は、暗黒大陸の新刊を探したがいくら探しても見つからない。

 店員に聞いてみると午前中で完売したとのことだった。「予約で大部分がはけてしまいまして店頭に出せたのは数冊だったんです」と申し訳なさそうに言った。

 それなら仕方ないと思い、恭平はさらに近場の書店を2軒回った。が、いずれも完売していた。

(嘘だろ、漫画やライトノベルならまだしも600ページもある辞書みたいな小説だぞ) 

 恭平は愕然とし、読みが甘かったことを知った。この7年のうちにファンは想像以上に増えていたようだ。

 あらかじめネットで予約すれば良かったのか? 

 だがネット通販の場合、本は発売日よりも後に届くことが多い。

 それでは意味がない。新刊は発売日に、誰よりも早く読まなくてはならない。それがファンの使命……いや、宿命なのだ。

 地元にならまだあるかもしれない。恭平は気を取り直して電車に飛び乗った。

 そして家から一番近い個人経営の書店でやっと新刊を手に入れた。


 自宅に着くと、スーツから着替えることもなくそのまま本を開いて読み始める。

 もう止まらなかった。ずっとずっと待ち焦がれていた物語の続きが目の前にあった。

 文字の羅列にすぎないものが、読んだ途端にそびえ立つ城になり、賑やかな町になり、感情を持った人間となってぐいぐい迫ってくる。

 恭平は、いつの間にか騎士になり、主人公のリードと共に暗黒大陸を、深い森や湿地を駆けていた。

 先行するリードが言う。「早く来てくれ、俺にはお前が必要なんだ」と。

 恭平は悲鳴をあげながら応える。「待ってくれよ、追いつけないんだ」と。

 面白すぎてページを繰る手が止まらない。もっともっと先へ行きたい。未知なる世界の数多の運命を、この目で見て知って感じたい。


 一心不乱に読んでいると、携帯がブルルと振動した。

 なんだよ……と舌打ちしたい気分で画面を開くと、笠井あかりからメールが来ていた。

『具合でも悪いの? 急に早退したから心配』とある。

 あかりとはつき合って1年ほどになる。会社では業務以外の会話をすることはなかった。

 早退したわけではなく有休だが、訂正するのも面倒だった。返信を打っている暇があるなら、小説を100字でも200字でも読み進めたい。

「違う。大丈夫」とだけ返信した。

 またすぐに返事が来たが、ここで返しては延々と続く予感がする。

 恭平は携帯から手を離した。読み終わってからゆっくり返信すればいい。全ては暗黒大陸を制覇してからだ。


 集中して読んでいると、あるところで疑問が出てきた。

 長編小説で登場人物も多い場合、細かい設定や関係性がわからなくなってしまうことがしばしばある。

 あれ、ルース卿はなんで主人公に味方してるんだっけ? 彼の従者のカシウスは異母弟、それとも異父兄だった? そもそも王家の生き残りは何人だったっけ?

 こういう時は、暗黒大陸の考察サイトを見れば大抵解決する。

 恭平はノートパソコンを開き、20年近く運営されている暗黒大陸ファンサイト「ヘヴンズ・コンティネント」、略してヘヴコンにアクセスした。

 ここに掲載されている各巻の詳細なあらすじや貴族の家系図、人物関係図などはわかりやすく、小まめに更新もされていてありがたい。


 恭平は、高校生の頃からヘヴコンに通う常連だった。

 サイトの管理人は「ヘヴンズフール卿」といって、暗黒大陸ファンの始祖とも呼ばれる界隈では知られた人物だ。どのファンにも親切かつ公平に接するので、「ヘヴンさん」と呼ばれて慕われている。恭平もサイトに通っているうちにヘヴンに認知され、今では個人的にメールでやり取りする仲になった。

 ヘヴンと直接会ったことはないが、50代の男性でITメーカーの管理職をしているらしい。

 暗黒大陸にのめりこみすぎて、グッズ収集やモデルになった国への聖地巡礼を続けた結果、奥さんに捨てられそうになったという話は大いに笑わせてもらった。


 サイトのトップページには、「8巻のネタバレ禁止」の注意書きが踊っていた。

 当然だと恭平は思った。なぜ発売日に買って急いで読んでいるのかといえば、全ては「ネタバレを踏まないため」だった。

 インターネットは勿論のこと、電車や喫茶店での会話・通話などネタバレはありとあらゆるところに潜んでいる。

 それはもう空から降ってくる焼夷弾みたいなもので、いくら自衛しても防ぎようがない。

 悪意をもってネタバレする輩なぞは、2年以下の懲役か100万円以下の罰金、むしろその両方が科せられて滅んで欲しい。


 ヘヴコンで疑問点が解決したあとも、うっかり考察などを読んでしまい気がついたら30分以上経っていた。慌てて読書に戻る。

 リードたち一行の前には、宿敵のダレン将軍が蛮族を率いて立ちはだかった。苦戦を強いられるリードたち。恭平も歯を食いしばりながら読み進める。

 途中で、あかりからまたメールが来た。

 横目で確認すると「今日も残業になりそうでツラ……。でも明日の夜ご飯を楽しみにしてるね。焼肉かハンバーグがいいな」

 などと呑気なことが書いてある。

 何を言ってるんだお前は。こちらはハンバーグどころではない。主人公たちが蛮族に襲われてミンチになりそうなのに! と思ったところで恭平は気がついた。


 明日の夜ご飯? 

 もしかして……明日の食事っていうのは、恒例の週末デートのことか? 

 だとしたら、今日は……金曜日ではない?

「あああ~」

 と恭平は叫び、大きく仰け反った。

 暗黒大陸を存分に楽しみたいという気持ちばかりが先行し、勝手に週末だと思い込んでいたのだ。

 木曜日なら、当然ながら明日は仕事である。

 落胆に呼応するように、ぐううっと腹が鳴った。

 そういえば昼飯も食べていなかった。外はいつの間にか暗くなっていて、時計を見れば19時を過ぎていた。


 恭平は立ち上がり、ふらふらと台所へ行った。明日はあかりと外食だ。

 だったら木曜日の晩餐は、簡単に作れておいしいものが一番だ……けど、今は本が読みたい。

(晩餐つーか、もう話の続きが気になりすぎてメシどころじゃない。でもなんか食べないとな)

 面白い本を読むと、どういうわけか無性に腹がすく。そして、本は気力と体力と集中力がないと読めない。食事とはすなわちエネルギーだ。読む原動力になるものだ。


 とにかく早く作れるものを考えて、恭平は棚からパスタ(スパゲッティ)を取り出した。

 イタリアのメーカー・バリラの1.4mmなら5分程度で茹であがる。大鍋に水と塩を入れ、沸騰するとパスタを放り込んだ。

 茹でている間に、卵を一つ割り、黄身を小さなボウルに、白身をカップに入れる。

 黄身が入ったボウルに納豆を1パック、缶詰のシーチキンを1缶、鰹節や昆布やダシで味つけされた練り梅を小さじ1、めんつゆを小さじ1入れて混ぜる。納豆のタレやからしも入れてしまう。

 パスタが茹で上がると、お湯を切って皿に盛り、混ぜた卵納豆ツナを乗せる。

 最後に、大葉を2枚ほど千切りにしたものを加えて完成だ。

 残った卵の白身はインスタントのオニオンスープの素とお湯を入れて即席のスープにした。

 熱が通ると、固まった白身がふわふわと浮かんできて見栄えもいい。


 わずが15分ほどで完成した食事をテーブルに運び、早速食べ始めた。

 このパスタ、正直見た目はそれほどよくないが、細い麺に卵のまろやかな味、ツナの塩味、納豆の豆の味、梅の酸味がよく絡んで実に美味い。ネバネバしているので食べやすいし、栄養も満点だ。

「あ~うまっ」

 と恭平は感嘆した。

 およそ12時間ぶりの食事、パスタとスープが五臓六腑に染み渡る。

 本に夢中になるあまり忘れていた食欲が蘇ってきて、あっという間に完食してしまった。


 また携帯が震えた。確認すると、今度はあかりではなくヘヴンからメールが来ていた。

『新刊買った? 仕事帰りに書店3軒回ったけど完売してた。終わった……』とある。

 恭平は同情しながらも笑ってしまい、やや得意気に返信した。

「ヘブンさん、何やってんですか。今日は仕事どころじゃないでしょ。俺なんか有休とっちゃいましたよ」

『俺も休みたかったよ。でも会議があってだめだったんだ。休む部下に嫉妬して嫌味まで言ってしまった。あ、ネタバレはしないでくれよ』

「しませんけど、今夜は徹夜してでも読みきる予定なんで。早く新刊ゲットしてください。ヘヴコンのみんなも更新待ってますよ」

 恭平は本を持ちあげ、残りの未読の部分を確かめた。

 大分読んだと思ったが、あと200ページ以上残っている。

 クライマックスはこれからなのだ。まだまだ暗黒大陸の世界を楽しめると思うと頬がゆるんだ。


【了】

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