木曜日の晩餐

八島清聡

第1話 新田英一郎(72)の晩餐「亡き妻の簡単ミルクシチュー」




「でさ、その老健からぜひとも来て欲しいと言われていて。そりゃ田舎だし、面白みもないだろうが報酬は悪くない。な、頼むよ」

 と、内藤は身を乗り出しながら言った。

 新田はコーヒーを啜り、少し思案してから答えた。

「でも常駐だろう? 正直この歳で地方へ行くのは辛いよ。悪いけど」

「大丈夫だ。施設の近くに住む必要はない。大きな声じゃ言えないが通いでいいんだよ。週に1、2回新幹線で往復してさ。急病人の診察は電話かオンラインで対応して、患者を基幹病院に回せばそこで終わり。気楽なもんさ」

 早口でまくし立てながら、内藤は少し焦っているようにも見えた。

 新田は想像した。おそらく内藤は懇意にしている業者から、医師の斡旋を頼まれたのだろう。

 だが、ほうぼうを当たっても北関東の山中にある介護老人保健施設の常勤を引き受ける者はいなかった。だから、ほぼ引退同然の自分にお鉢が回ってきたのだ。

「考えておくよ。また連絡する」

 と言いながら、新田は立ち上がった。

 内藤とは医大の同級生で50年以上の付き合いになる。卒業後は同じ医局に入り、長年の友人、同僚でもあった。しかし、新田が大学を定年退職してからは疎遠になっていた。

 10年ぶりに連絡が来たので会ってみたら、まさか地方の仕事を紹介されるとは……。


 新田は喫茶店を出ると、電車でまっすぐ地元へ帰り、駅前のスーパーへ入った。

 家の冷蔵庫に食材はなく、夕飯の材料を買わなくてはならなかった。

 新田は生鮮コーナーに積まれた野菜の山を見渡し、今夜のメニューを考えた。

 自炊をするようになって半年ほどが経つ。日曜から始まって月曜、火曜、水曜くらいまでは頑張ってメニューを考えるものの、木曜になると元から多くないレパートリーは尽きてしまう。考えるのすら億劫だ。

 明日は、企業の健康診断のアルバイトが入っている。

 仕事は朝早くから始まるので、準備や移動の時間を考えると5時には起きなくてはならない。

 ならば今夜は早めに寝たいし、夕飯も簡単に作って食べられるものがいい。

 木曜日の晩餐は、簡単に作れておいしいものが一番だ。

(晩餐なんて代物でもないけどなぁ……)

 と自嘲しながらも、新田はかすかに胸が高揚するのを感じた。

 食事はメニュー決めからして面倒だが、自分の食べたいものを好きに食べられるのは気持ちがよい。楽しいとすら思う。

 しばし悩んだ挙句、4分の1にカットされた白菜をカゴに放り込んだ。

 牛乳、プレーンとチェダーチーズのミックスチーズ、鶏むね肉とリンゴも買った。

 スーパーを出ると、すぐ近くのコンビニにも寄った。ここではサラダのパックを買った。

 主に働く女性向けに作られたそれは、容器も中身もおしゃれだし、食べきりサイズで余らない。一人暮らしの新田にはちょうどよかった。


 自宅に帰ると、早速にも夕食の準備に取り掛かる。

 まず冷凍庫から、切り分けてラップにくるんだパンを1枚取り出した。

 これは最近流行りの1斤500円以上する高級食パンで、やわらかな食感といい濃厚な味といい値段相応に美味い。エシレバターと生クリームを贅沢に使っているため栄養価も高い。

 一度試しに買ってみて良かったため、今では主食にしている。米は水で研いで炊かなければいけないが、パンはそのまま食べられるのでありがたい。

 この食パンは1斤単位でしか売っておらず、余った分は切り分けて冷凍する。防腐剤が入っていないため、常温で置いておくとすぐにカビが生えてしまうからだ。冷凍すれば1ヶ月は保つ。

 自然解凍すれば食べられるが、オーブンで2~3分トーストするとさらに美味しくなる。

 素材がよく、ひと手間を惜しまなければ冷凍パンも立派なご馳走だ。


 パンを解凍しつつ、鶏のむね肉を一口大に切り、塩コショウで下味をつける。白菜は洗ってざく切りにする。

 包丁の扱いは手慣れたものだった。

 新田の生家は貧しく、彼は苦学して医者になった。学生時代は食べ物を買う金にもこと欠き、モヤシやくず野菜を10円程度で買ってきては塩コショウで炒めて食べていた。料理は必要だから仕方なくする家事の一つであって、楽しいと思ったことはなかった。

 医学部を卒業して内科医になってからも、世間がイメージするような裕福な生活にはほど遠かった。母校の大学病院の給料は安く、当直のアルバイトをしなくては生活できなかった。

 家族の面倒も見なければならず、30代の後半まで奨学金や実家の借金を返済し続けた。地方の関連病院に出向し、慣れない土地で毎日患者と向き合い、数年経ってようやく地元に馴染む頃に医局に戻される。少しするとまた地方へ転勤、30年間その繰り返しだった。


 結婚したのは40を過ぎてからだった。

 教授の紹介で見合いをし、15歳年下の道子と結婚した。道子は開業医の娘で、義理の父は新田を自分の医院の後継ぎにしたいと考えていた。

 義父に「大学に残れなかったら、うちを継げばいい」と言われて新田はホッとした。

 ようやく安心して暮らせる場所を得たような気がした。いずれは開業するとしても、それまでは第一線で腕を磨こうと決意した。

 結婚した翌年には娘も生まれた。一年も経たないうちに、僻地の病院へ赴任することになったが、道子は何も言わず赤ん坊を抱えてついてきた。それからも数年ごとに引っ越しを余儀なくされた。


 深鍋に、オリーブ油とチューブのにんにくを少し入れて加熱する。

 鶏肉を入れ、焼き色がつくまで炒める。切った白菜を全て鍋に入れ、下の鶏肉がひたるくらいまで水を入れる。鍋に蓋をすると中火にした。

 10分ほど煮て火が通ったことを確かめると、コンソメを大さじ一杯いれる。

 さらに具材が見えなくなるほどたっぷり牛乳を入れ、クリームシチューのルゥを1かけら入れる。

 鍋が煮立ってルゥが溶けたら、片栗粉を水で溶いたものを流し入れる。

 ゆっくりと木べらでかき混ぜると、ほどよくとろみがついてミルクシチューが完成した。

 新田はスープ皿に慎重にシチューをよそい、仕上げにチェダーとプレーンのミックスチーズをふりかけた。

 チーズはすぐに溶け、ほどよい塩味が出る。牛乳を入れすぎて味が薄くなってしまっても、チーズの量で調節できる。


 テーブルの上には、シチュー、解凍したトーストとコンビニで買ったサラダが並んだ。

 簡単な食事だが、栄養バランスは悪くないと新田は思った。

 あつあつのシチューを口に運ぶ。

 牛乳が多いためあっさりしているが、塩コショウ、コンソメとルゥ、チーズで味はしっかりついている。鶏肉は柔らかく、白菜はシャキシャキしていて食べ応えがある。溶けて浮かぶチーズをトーストにつけてもうまい。

 食べながら、新田はようやく道子の味に近づいてきたかな……と思った。

 簡単ミルクシチューは、道子が忙しい時によく作った料理だった。洋食を食べて育った彼女は、貧乏舌だった新田にシチューのおいしさを教えてくれた。


 仕事は激務で、家に帰れるのは月に数回の時もあった。病院での日勤を終えて当直が始まる前に休憩が1時間ほどとれる場合は、大急ぎで自宅に戻って夕食をとった。それが家族と過ごせる唯一の時間だった。

 ある日、道子は夫が帰宅してから娘をおぶったままで夕食を作り始めた。

 が、30分もしないうちにシチューが出てきたので、新田は驚いた。

 洋食とはもっと時間と手間がかかるものと思っていた。

「シチューってこんなに簡単にできるものなのか?」

 と尋ねると、道子は

「じゃが芋や人参だったら無理だけど、白菜は早く火が通るから。あなたがあまりにも忙しいから、私も野菜も素早くなったのよ」と言って笑った。

 そして新田が食べている間に、道子は泣く娘をあやしながら夜食用のおにぎりと総菜を作って詰め、着替えを用意した。

 温かい食事で満たされた新田は、荷物を持って病院に戻りさえすれば良かった。

 今にして思えば、道子の献身があってこそ乗り切れた日々だった。


「ああ、うまいなぁ」

 と新田はため息をつきながらひとりごちた。

 それなりによく出来たが、まだひと味足りない気がする。レシピを詳しく聞いておくべきだった。そうしたら、彼女の味を再現できたのに。

 道子は夫が実家を継ぎさえすれば、もっと家族で過ごす時間が増えると信じていた。そうしたいと願っていた。

 しかし、新田が義父の医院を継ぐことはなかった。義父は晩年に医院の経営に行き詰まり、義弟の放蕩もあって莫大な借金を抱えてしまった。

 義実家や医院は抵当に入っていて返済のめどが立たず、閉院して手放さざるを得なかった。


 新田は大学病院で勤務医を続けたが、出世は叶わなかった。講師止まりで、60歳で定年退職した。同期の内藤は教授になり、その後名誉教授となって今も母校に在籍している。

 定年後は看護学校で10年教えた。医療記事の監修をしたり、市区町村の公演に呼ばれることもあった。娘が独立し、70を越えた頃にようやく都内に家を買った。

 そして夫婦二人の落ち着いた暮らしを始めたその矢先に、道子は癌で逝った。56歳の若さだった。


 新田は、時間をかけてシチューを完食した。デザートにリンゴも半分食べた。

 一人で1個は多いけれども、残りは明日の朝食べればいい。小さな楽しみが一つできた。

 片づけをしようと思ったところで携帯が鳴った。

 娘の美嘉からだった。美嘉もまた医師になり、関西の病院で救急医として働いている。多忙を極める彼女から電話が来ることは滅多にない。何か悪い知らせかと新田は身構えた。

「あ、お父さん。元気? 明日の夜、そっちに帰るから」

「何かあったのか?」

「何も。日曜日に横浜の学会に出るから。それだけ」

 美嘉の明るい声に新田は安堵した。

「18時に東京に着くから、待ち合わせて食事でもしましょう。どうせろくなもの食べてないんでしょ。母さんに全部任せきりだったから」

「そんなことはない、最近は料理も楽しいもんだ」

 返事をしつつ、新田はやはり老健の仕事は断ろうと決心した。北関東へ転勤してしまったら、娘の急な帰省に対応できないので。


 

 【了】

 

 

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