第2話 藤森明子(21)の晩餐「コロナ禍の紅白イクラ雑煮」



「藤森さんは年明け5日から休みやったな。田舎に帰るん?」

 マネージャーの高須の声がして、明子は並べ直していたゼリー菓子から手を離した。

 振り返ると、ゆっくりとかぶりを振った。

「いいえ、帰らないです。おばあちゃんも歳だし、持病があるので」

 高須は明子の横に来ると、カウンターに手を置いて身を乗り出した。遠くの鮮魚コーナーや惣菜コーナーを羨ましそうに眺めた。

 今日は大晦日。店には新年を祝う準備のため、多くの客が押し寄せる。

 デパートの食品フロアも例外ではなく、おせちの材料や蕎麦、天ぷら、高級な肉やフルーツ、刺身の盛り合わせや寿司は飛ぶように売れている。色とりどりのマスクをつけた老若男女がせわしなく動いているのが見えた。

「同じや。俺も帰省は諦めた。出かけるなとは言わんけど、休みの間も気を抜かんといてくれや。もし一人でもコロナが出たら、このフロアごと閉鎖になってまう」

「はい、気をつけます」

 明子は神妙に答えた。

「にしてもお客さん、こっちにも来てくれないですかねぇ」と続けると、

「しゃーないわ。菓子折は土産に持っていくもんやから。新年の挨拶も自粛なんやろ」

 と高須の声は沈んだ。

 マネージャーが落ち込むのも無理はない、と明子は思った。

 もう17時なのに、今日はケーキが2個と小さな菓子折が一つしか売れていない。

 明子は高校を卒業後、神戸の老舗の洋菓子店に販売職で就職した。

 大阪のデパートに配属されて3年になるが、こんなにも暇な大晦日は初めてだった。

 まず客が来ない。客が来ないので、商品が売れない。全ては新型コロナ感染症が流行し、人々が外出を控えているためだ。

 周囲の菓子店も似たような状況で、店員はみな手持無沙汰にぼーと突っ立っている。

 時折、菓子売り場を回る客もいるが、感染症対策のため呼び込みは禁止されている。

 客が店のカウンターの前で足を止め、あれこれ迷い始めてから、やっとビニールの衝立て越しに声をかけることが許される。「お客様、何をお探しですか」と。


 結局、その後も売れないままデパートは20時で閉店になった。明子は後片付けをし、高須と共に正月の飾りつけをした。

 明日は元旦だが、普通に出勤である。サービス業の宿命で、かき入れ時である盆や年末年始を休むことは許されない。クリスマスが終われば7連勤から9連勤が当たり前で、まとまった休みが貰えるのは1月の中旬頃になる。コロナ禍にあるからこそ、デパートは他社との差別化をはかり、1日からの営業を決めたのだった。


 21時すぎに、明子は職場を出た。

 腹は空いていたが、どこかに寄って食事をするつもりはなかった。夕食に関しては当てがあった。

 先日、明子はインターネットの通販で北海道産のイクラを買った。普段は高級な鮨屋や料亭に卸すイクラが、コロナ禍で在庫過多になりセールで半額になっていた。半額でもそれなりの値段がしたが、人助けにもなると思いひと箱(500g)買った。

 大晦日は、思う存分イクラを食べようと決心し、昨日から楽しみにしていたのだった。


 まっすぐ自宅のアパートに帰ると、手を洗ってうがいをし、夕食の準備に取り掛かる。

 冷蔵庫を覗くと、白菜ともやし、おせち用の蒲鉾、干しカレイがあった。

 明子は、雑煮と干しカレイの煮つけを作ることにした。餅も干しカレイも、祖母のタカが送ってきたものだった。

 餅は一般的には正月に食べるものだが、どうせあと2時間ほどで元旦だ。

 誰に気兼ねすることもない気楽な一人暮らしなのだから、少しくらいフライングしたっていい。

 ふとカレンダーを見ると、コロナに振り回された一年の最後の日は木曜日だった。

 今年最後の食事……木曜日の晩餐は、簡単に作れておいしいものが一番だ。

(晩餐はちょっと大袈裟かな。でもイクラはご馳走だよね……)

 そう思うと、心が浮き立つ。


 雑煮用の小鍋に、水とだしの素を入れて火にかける。鍋が沸騰すると切った白菜を入れた。

 白菜を煮ている間に、干しカレイの煮つけを作る。

 フライパンに、水をコップ半分、醤油・大さじ2、みりん・大さじ1、酒・大さじ2、砂糖・大さじ1を入れて火にかける。

 茶色い汁が沸騰すると、干しカレイを目の方を上にして一尾入れた。

 蓋をして10分ほど煮る。干しカレイはすぐに火が通るので、煮すぎると身が崩れてしまう。

 雑煮の白菜が煮えると、もやしをひと掴みと、切り餅を2つ、切った蒲鉾を数枚入れた。3分ほど煮て餅が柔らかくなると、醤油とみりんで味付けをした。

 雑煮を椀に盛りつけているうちに、カレイの煮つけも仕上がった。

 砂糖やみりんの甘い匂いが台所に充満すると、明子の胃袋はきゅうっと鳴いた。

 お雑煮の椀とカレイの煮つけの皿、それからイクラの入った木箱をテーブルに並べた。


 明子は両親というものを知らずに育った。物心ついた時には、母方の祖父母の家にいた。

 故郷は北陸の山間部にある小さな集落で、明子の幼少期にはすでに限界集落の様相を呈していた。農業以外に産業はなく、若い人は仕事を求めて都会に行ってしまい、同年代の子供もいなかった。

 祖父は道路工事の現場で働き、祖母は小さな畑で米や野菜を作りながら、冬の間は町のベルト工場にパートに出ていた。

 明子は村の年寄たちのアイドルで、どこにいても何をしていても「あーちゃん、あーちゃん」と呼んで可愛がられた。祖父も祖母も、たった一人の孫を猫可愛がりした。

 食事は干物や漬物などの保存食もよく出た。それも子供だからということで、味付けを甘くされる。そのせいか20歳そこらだというのに、塩辛いもの、あまじょっぱい物を好むようになってしまった。


 タカは年末になると、町で木箱に詰まったイクラを買ってきた。これは新年用のご馳走だった。

 年が明けると、蓋を開け、雑煮やおせちと共に食卓に並べた。

 雑煮は醤油ベースで、具はゴボウや大根や、青菜、春菊とその時ある野菜を使ったが、最後に必ずイクラを乗せた。

 明子は、この野菜とも海鮮味ともつかない不思議な雑煮を喜んで食べた。

 祖父は「イクラは塩味が強すぎて毒や」と心配そうだったが、タカは「正月やし、好きに食べればええ」とニコニコ笑っていた。明子は、3人で迎える正月の食卓が好きだった。


 期待に胸を躍らせながら、明子はイクラの木箱の蓋を開けた。

 中には艶々した大粒のイクラが、箱のふちまでぎっしり詰まっていた。早速にもスプーンでイクラをすくって雑煮にたっぷり入れた。

 浮かんだ白い餅の上にイクラがあふれ、電灯の光を受けてキラキラと輝く。まるで赤い宝石のようだった。椀の中に紅白があってめでたい気もした。

 早速にも餅にかぶりつく。餅が舌の上で溶け、イクラが口の中でプチプチと弾ける。

 白菜やもやしをかじり、イクラがこぼれたあまじょっぱい汁をすする。餅を一個食べると、またイクラをすくって入れた。

「あ~おいしい……」

 明子は天井を見上げて唸った。こんなにも美味しいものを知らないなんて、世の中の人たちは損をしている。

 半分ほど雑煮を食べてから、カレイの煮つけにも口をつける。

 カレイの身はふっくらとしていて、甘い煮汁をたっぷりと吸っている。カレイのしょっぱさと相まって絶妙な味だ。

(ばあちゃんの味だ……)

 と思えば、タカがたまらなく恋しかった。タカは、今となってはたった一人の家族だった。


 明子が高校一年のときに、祖父は亡くなった。

 前日の夜まで元気で酒も飲んでいたのに、朝起こしに行ったら布団の中で冷たくなっていた。

 近所の人たちがやってきて、「大往生や」「こんな幸せな死に方はない」「タカさんにもあーちゃんにも迷惑かけんで本当に偉いわ」と口々に言った。

 タカが連絡したのだろう、祖父の葬儀には祖父の娘である母親が来た。

 明子が母親に会ったのは、それが初めてだった。高そうなスーツに身を包んだキャリアウーマン風の女性だったが、名字は藤森ではなかった。明子の知らないところで、別の家庭を築いていた。

 母親はタカにまとまった現金を渡すと、何も言わずに去っていった。


 葬儀のあれこれが終わった後で、タカは明子に言った。

 少し悲しそうな顔で、「あーちゃん、あんたはお母さんのとこに行くか?」と。行きたいなら私が話をつけるから安心しなさい、と。

「どうして?」と明子は問い返した。

 母親と暮らしたいと思ったことは一度もなかった。過去に何があったにせよ、祖父が亡くなるまで一度も連絡がなく、会ったこともない人だった。

 タカは少しの間迷っていたが、やがて重い口を開いた。

「でも……血の繋がった家族と一緒にいた方が、あーちゃんは幸せかもしれんと思ってね」

 タカは祖父の後妻だった。タカも若い頃に男の子を産んだが、子供は病気で夭折した。

 明子の母親は祖父の前妻の子であるため、タカと明子の間に血の繋がりはなかった。

 そのことを知っても、明子に迷いはなかった。タカの目を見て、きっぱりと言い切った。

「おばあちゃん、何言ってんの。私はもう高校生だよ。子供じゃないんだから、お母さんがいなくたって平気だよ。おばあちゃんはおばあちゃんだし、ここが私の家だよ」

「まだ子供だよ。私みたいな婆から見たら、あんたは今も赤ん坊みたいなもんさね」

 と言ってタカは笑った。それからハンカチを目に押し当てて、ありがとうねと呟いた。

 その年の暮れも、タカは町でイクラを買ってきた。正月は2人でイクラ入りの雑煮を食べた。


 雑煮を完食し終えると、明子は大きく息をついた。満足だった。

 タカは80を越えたあたりで畑仕事もできなくなり、自宅と土地を処分して町のアパートへと移った。

 心臓を悪くして、定期的に病院にも通っている。もしコロナにかかったら、軽症で済むとは思えない。

 万が一自分がウィルスを運んでうつしてしまったら、悔やんでも悔やみきれない。

 だからこれでいいと明子は思った。

 田舎には帰れないけど、家族の味を堪能した。明日からの新しい年を頑張れる。


【了】

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