遠い君へ。

奔埜しおり

駆けてゆく。

 太陽はギラギラとアスファルトを焼いて、蝉はこれでもか、と鳴き喚く。

 そんな中、私としんは、横に並んで立っていた。

 前には急な坂道が、ドンと私たちを見下ろしている。


「用意はいいか?」

「もちろん。進は?」

「いつでもOK」

「よし、じゃあ行くよ。よーい……どんっ!」

 二人分のローファーが地面を蹴った。

 目指すは坂を上った先。

 そこにあるコンビニのアイスだ。



 夏休みと言えば、海、プール、夏祭りに花火にかき氷。

 宿題なんてそっちのけで遊びたいに決まっている。


 だけど現実は無慈悲だ。


 私の高校は長期休暇期間の前半、平日の午前のみ講習がある。

 その講習は、基本的には参加は自由。ただし、特進クラスのみ強制参加。

 つまり、特進クラスに所属している私には、少なくとも前半の期間に夏休みらしい遊びは期待できない、ということだ。

 入学が決まったときに受け取った書類。

 そこにあった、特進クラスを希望するか否かのチェック欄に、私特進なんです、なんて言えたらかっこいいかもな、なんて軽いノリでチェックを入れてしまったが故のこの様である。

 別にいいけれど。後半は遊べるし。


 そんなわけで、夏休み初日。


 クーラーが効いた教室に入って驚いた。

 そこには、特進クラスではないはずの進がいたからだ。

 進はすぐに私に気づいて、よっと手を上げた。

 講習のときは、席は自由に座っていいことになっている、

 だから私は、急いで進の隣の席に向かった。


「なんで進、ここにいんの」

「勉強しようかなーって」

「あんた勉強嫌いでしょ、なんでここにいんの」

「二度も繰り返すなよ」

「え、どうして講習に来てるんですか」

「言い方変えればいいってもんじゃない」


 ムスッと拗ねる小麦色の顔に、ごめんごめんと謝る。


 進とは中学三年間ずっと同じクラスだった、いわゆる腐れ縁だ。

 まさか高校も同じだとは思わなかったけれど。

 一応、この高校は進学校で、進はお世辞にも成績がいいとは言えない。

 だから相当努力したんだろうな、と思う。

 恐らく私が軽いノリで特進クラスにチェックを入れなければ、同じクラスになれていたんだろうな、とも。


 別に、進がいなくて寂しいとか、そういうのじゃない。

 ただ、進がいない教室というもに、いつの間にか違和感を抱くようになってしまっただけ。



 中学の頃。

 私は吹奏楽部に所属していた。


 三階にある音楽室の窓からは、いつだってグラウンドで活動している運動部を見ることができた。

 その中で、軽々とハードルを飛び越えていく進を見るのが、日課だった。

 足にバネでもついているんじゃないかってくらい、トントンターンと一定のリズムで飛んでいく進。

 まるでメトロノームみたいで、見ていて心地がいい。


 私が通っていた中学は、部活の曜日と、完全下校時刻が決められていた。

 だから陸上部に所属している進と、部活のない日も含めて、ほとんど毎日一緒に帰宅していた気もする。



「トントンターン」


 テスト期間の関係で部活が休みだったので、図書館に寄り道した帰りだ。

 部活が休みになれば、必然的に音楽室から進の飛ぶ姿を見ることはなくなる。

 だからたぶん、そのせいだ。意図せず、そう呟いていたのは。


「なに、それ」


 キョトンとした表情で問い返されて、初めて口からもれていたのだと気付いた。

 驚きはしたけれど、でも、聞かれて困るようなものでもない。


「進がハードル飛んでるときの音」

「なに、翔子しょうこ、俺のこと見てんの」

「そうだけど」


 素直にうなずけば、進の目が大きく見開かれる。

 一拍置いたのち、小麦色の肌が赤く色づいていった。

 大きな口が、まるで餌を食べる金魚みたいにパクパクと開閉を繰り返している。


「な、え、なんで」

「メトロノームみたいで、見てて心地いいから」

「ああ、なるほど、メトロノーム。……ってならないからな。意味わからねえぞ」


 どういうことだ、と頭を抱えてうんうん唸る進は、見ていてなんだか可愛くて、思わず笑ってしまったのだった。



 前を走る背中は、もうだいぶ小さい。


 高校に入っても私は、吹奏楽部に入った。

 吹奏楽部にしては珍しく、がっつりコンクールに向けて頑張ります! という部活ではなく、楽器を演奏してみたい人たちが集まった緩い空気の部活だ。

 だからなのか、コンクール直前のこの時期でも、今日みたいに部活のない日がある。


 進も陸上部に入った。

 ただ、音楽室の位置からは、進がハードルを飛ぶ姿を見ることはできなかった。

 帰宅する時間だって部活動によって異なるから、一緒に帰ることができるのは部活が休みの日が重なったときだけ。

 中学の頃はあんなに一緒にいたのに、高校になるとこんなに離れてしまうとは思わなかった。


 黒いリュックを背負った彼を、じっと見つめる。


 あの坂の上のコンビニまで競争な。


 それは、講習の間の休み時間。

 帰りにどこか寄ろうよ、なんて話をしていたときだった。


 じゃあ、負けたほうが勝ったほうにアイスおごりね。


 そんな提案を陸上部にした私は、クーラーに頭をやられていたとしか思えない。

 いろんな競技があるから厳密にはちょっと違うのかもしれないけれど、進は走りのプロなわけで。

 それと勝負しようだなんて、本当にどうにかしている。

 正気に戻れ、数時間前の私。



 誰それが告った、振られた、振った、付き合った。


 そんな話は、中学でも高校でも変わらず、何度も流れる。

 恋愛って、娯楽の一種なのかもな、なんて思う。

 きっと、消費するものなんだ。

 初恋さえまだな私は、考える。

 だからこそ、皆使い切ったら捨てて、新しい人に乗り換える。

 その表情はいつだって感情が弾けそうなほどに輝いていた。

 失恋の話をしているときも、片想いや、付き合い始めてからのときも。


 いつか私も、誰かを消費して、誰かに消費されるときがくるのだろうか。



 それは、吹奏楽部がお休みの日だった。


 確か今日は陸上部の活動日だったな、と思い、どうせならちょっと覗いていこう、と陸上部の活動場所へ向かう途中。

 私の耳は、よく知っている声を拾った。

 なんとなく気になってその音を辿る。


 運動部の部活棟の裏。

 ちょうど他の部活動の活動場所から死角になっている場所だった。

 少しだけ覗けば、進と、よく知らない女の子が一緒にいた。

 慌てて部活棟の壁に隠れたのは、女の子がこちらを振り向いたからだ。

 心臓が大きく脈打つ。

 女の子がすぐ真横を勢いよく駆け抜けていった。

 あの様子だと、振り向いたのは私に気づいたからではなくて、この場から離れるため、だったようだ。


 どうして進は、部活の時間なのに女の子と二人きりでこんなところにいるんだろう。

 考えれば思い当たる答えなんてすぐに見つかるのに、脳はそれを拒否するものだから、私にはなにもわからなかった。


「わっ、びっくりしたぁ」


 耳になじんだ声に、ハッと顔を上げる。


「進……」

「……見てた?」

「会話は聞こえなかったけど、姿は見た」


 どうして二人でいたの。


 そんな言葉が喉元まで出かかって、慌てて飲み込む。

 知ったところで、私にはなんの関係もないのに。


「断ったから」

「え?」

「だから、告白! 俺、ちゃんと断ったから」

「……ふーん」

「なんだよ、ふーんって」


 ムスッと拗ねる進に、思わず笑ってしまった。


 別に、拗ねた進が面白かったわけじゃない。

 ただ、進の言葉と普段と変わらない様子に何故か安心していて。

 安心したら、笑ってしまったんだ。


「俺、好きな奴いるから、だから断った」


 だから、そのまま続いたこの言葉に、私はどんな表情をすればいいのか、わからなかった。


「そっか」


 目の前にいるのに、進が豆粒に見えるくらい遠くにいる気がした。



「俺がさ、好きな人いるって言ったの、翔子、覚えてる?」


 進のその言葉は、近くの公園で、ちょうどアイスを食べ終えたときだった。

 勝負は進の圧勝。アイスは私のおごり。

 拒むように心臓が痛むのは、全力疾走したことだけが理由じゃない。


「覚えてるけど」


 ずっと前を走る、大きいはずの小さな背中が頭に浮かんだ。


「あれね、翔子なんだ」

「……」


 顔を上げれば、進は視線を泳がせたけれど、すぐにまっすぐな瞳の中に私を映す。


「俺は、翔子が好き。だから、付き合ってほしい」


 頭に浮かんでいた背中は、もう見えない。

 消えたんじゃない、先に行きすぎて、見失ってしまった。


 あのときの気持ちの答えに、気づいてしまった。


「私は、進との今の関係を壊したくない」


 進の瞳が揺れる。

 そっか、なんて、力のない声。

 ああ、嫌だな、と思った。


「私はまだ、恋をしてないから。それがどういうものなのかわからないし、恋をしている進が、すごく遠く感じる」


 嫌だと思ったから、今気づいたことを必死に脳内で組み立てて言葉にしていく。


「だから、もう少し待ってほしい。もしも私が進の気持ちに追いつけることがあったら、そのときは、私が言うから」


 関係を壊したいわけじゃない。

 それに、進が誰か他の人と付き合うところは見たくない。

 だけど進を遠く感じているということは、この感情は進のそれとはきっと似て非なる物で。

 その気持ちのまま振るのも、付き合うのも、違う気がしたから。


 進はキョトンとした表情をしていたけれど、意味を理解したのか、頬を赤らめながら、わかった、と小さく笑ってくれた。


「でも、俺からしたら翔子だって遠いんだからな」

「どういうこと?」

「この高校入るために、どんだけ頑張ったと思ってんだよ」


 それに、と進は続ける。


「来年こそは絶対同じクラスになるからな!」

「先生に賄賂でも渡すの?」

「特進に入るために勉強してるんだよ!」


 その言葉で、やっと、なんで進が講習に来ていたのかがわかった。


 わかった途端、私は笑ってしまった。


 離れたような気がしていたのは、たぶん、私だけじゃなかったんだ。

 私は精神的に、進は物理的に、距離を感じていたんだ。


「なに笑ってんだよ」

「来年、同じクラスになろう」

「……おう」


 唇を尖らせて返事をする進は、なんだかとても可愛かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遠い君へ。 奔埜しおり @bookmarkhonno

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ