還暦ランナー

上月くるを

還暦ランナー





 街道の両側にずらりと並んだギャラリーから、ひときわ甲高い声援が飛ぶ。

 

 ――がんばれ、4444番!

 

 ってわたしのことだよね。こう見えて、がんばっているんだけど、さっきから。まあ、それはともかく、一応、小さく手を振っておこうか。長い上り坂にかかっているいまは、正直、それどころじゃないけど、そこはそれ出場選手の礼儀として。

 

 ――選手!

 

 なんとまあ、くすぐられる言葉だろうか。わたしの人生で、こんなふうに呼んでもらえるときがやって来るなんて、想像してもみなかったなあ、つい数年前まで。


 マラソン大会に出場する千数百人にはひとり残らず「選手」の称号が与えられるのだが、そして、トップ選手と最後尾とでは兎と亀の大差があって、しかも、自分は亀のなかでも一番遅いのだが、せっかくの晴れ舞台、そんなことは気にしない。


 とにかく、胸にも背中にも堂々たるゼッケンを付けた選手であるのだからして、その辺の道ばたに並んで、地元新聞社から配られた小旗を打ち振っているギャラリー諸君との間には、越すに越せない川が流れているのだよ。はっはっはっはっ。


 言うまでもないが、この場合「はっはっはっはっ」は優越の哄笑であると共に、切実きわまりない息切れでもある。ジムのランニングマシンなら、心拍数160とか180とか、相当ヤバいところに位置しているはずだ。スタートから約1時間、一時は絶好調だったアドレナリンもそろそろ枯渇しているらしい。なんだろうか、ホルモンの分泌量も年齢に比例するのだろうか。がんばれ、わたしの副腎皮質!

 

      *

 

 高校の体育を最後に、走るという野蛮な行為にきっぱり訣別していたレンコが、40数年のブランクをものともせず、還暦でマラソンに挑戦する気になったのは、職場の仲間に誘われたからというだけで、別に深い意味があってのことではない。


 本音を言うと、平素は絶対に着ないピンクやイェローのド派手なウェアを着て、あわよくば着ぐるみやドレスで変装して、いつもの自分とはちがうだれかに化け、大空の下を思いきり駆け抜けてみたいという、いたって不純な動機からだった。


 これまでの半生、恋人の変心、ひとりの子育て、老親の介護などいろいろあったけど、自分なりにがんばって来たんだから、それぐらいの楽しみ、いいよね? 

 

      *

 

 といっても、走り方がわからない。第一、この歳で本当に走れるのだろうか。

 ジムのトレーナーに相談すると「正直、瞬発力はアレですけど、持久力は年齢が行くほど優位と言われていますから」本当に? と確認したくなるような即答で、なるべく体力をつかわないで済む、アディダス走法なるものを伝授してくれた。


 で、いざマシーンに挑戦してみると、勝手にベルトが流れるからいやでも応でも足を動かさないと弾き飛ばされてしまう仕組みなので、これ、意外と楽かも……と甘く見たのも束の間、すぐに息が上がって、ものの数分でギブアップ。表示された走行距離がたったの300メートルという峻厳な事実にはわれながら呆れ果てた。

 

      *

 

 件のトレーナーに「走りつづけていれば自然に距離が伸びますよ」と励まされ、騙されたつもりで週に二度ほど走ってみると、500メートル、1キロ、2キロと本当に距離が伸びて来た。気をよくしてさらに走り込み、21.0975キロのハーフマラソンに出場できるようになったのは、開始から2年後の秋だった。


 それまでにも職場の仲間たちと県内外の大会に5キロ、10キロコースで出場していたが、葡萄郷の絶好のロケーションで行われる大会で初めてハーフに挑戦した。


 順位は気にしていない。というか、これまでも救護車の直前を走っていた(つまり最後尾)のだから気にしようがない。せめて完走を目指したかったのだが、最後の最後に思わぬ伏兵が待ち受けていた。タイムリミット、区間制限時間である。


 ゴールひとつ前の関門で、走って来る選手ひとりひとりに声を掛けていたゲストの女性オリンピック選手がすごい勢いで走り寄って来たかと思うと、レンコの手首を握って猛烈なラストスパートをかけてくれた。だが、わずかに1~2秒足りず、レンコは敗残兵のごとく、すごすごと迎えのバスに収容されることになった。

 

      *

 

 それがコロナの前の話だが、昨年は毎年シーズンの先頭をきって行われる早春の地元イベントを皮きりに、県内外各地のマラソン大会は軒並み中止になっている。


 だから、果たしてハーフを走りきれるのか、それもバスの人とならずに……。

 それがレンコの目下の課題だが、毎朝ルーティンの筋トレや体幹トレーニング、ジョギング、ついでにムエタイのキックやパンチも欠かさないので、さほど筋力は衰えていないはずで、晴れてハーフに再挑戦できる日を、ゆっくりと待っている。

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