泥ん娘。<シクロクロス女子は悪路を駆ける!>

草薙 健(タケル)

ぬかるみに足を取られても、障害にぶつかっても……前へ、前へ、前へ走れ!

 目の前で繰り広げられている光景を見て、小学校二年生の神原うさぎが抱いた感想は『泥遊び』だった。


 舗装されていないぬかるんだ道を、何台もの自転車が走っている。背格好や胸の膨らみから、走っているのは女の子達だろうというのは想像出来る。しかし、タイヤから巻き上げられた泥を体全身に浴びているため、最早着ているジャージと肌との境目すら分からなかった。


 兎は、十歳年上の姉である卯月うづきを見上げて言った。


「おねーちゃんが見せたかったものって、これのこと?」

「そう、これが『シクロクロス』よ!」

「しくろくろす?」

「シクロクロスっていうのはね、自転車競技の一つなんだ。シクロクロスバイクと言うちょっと太めのタイヤを装着した専用の自転車に乗って、泥や砂の上といったでこぼこ道で速さを競うの」

「へぇ。だからみんなあんなに泥んこなの! あたし、すなば遊びだーいすき!」

「あはは! 実はお姉ちゃんね、次のレースに出るんだよ。絶対優勝するから、応援しててね」

「うんっ!」


 かくして、卯月は宣言通りに優勝して見せた。彼女最大の取り柄を活かして。


「おねーちゃん! おめでとうーっ!」


 兎はレース直後で泥だらけの卯月に飛びついた。もちろん、兎の服もまた泥だらけになった。


「あ、こらっ! まだ着替えてないのに……。でも、ありがとう。うーちゃん」

「おねーちゃん、走るのとーっても速いんだね! あたしもおねーちゃんみたいになれる?」

「なれるなれる! うーちゃん、私より運動神経いいもん。日本一、いや世界一になれるよ!」

「本当?」

「本当さー。お姉ちゃん、嘘はつかない」

「わかった。あたし、世界でいちばんつよい選手になって、おねーちゃんにみせてあげるね!!」


 しかし、このレースの三年後――卯月は東日本大震災によって亡くなった。


 ■


 バニーホップ。それは、自転車に乗ったまま両輪を浮かせてジャンプするテクニックのことだ。コース上にシケインや障害物が設置されているシクロクロスでは、人よりも速く走るためには必須の技術なのだが、習得するのは非常に難しい。


『さぁ、女子シクロクロス全日本選手権も終盤だぁーっ! 先頭は大学二年生の神原兎! 今日も自分の名前がついた十八番おはこでもって軽快にトラップを乗り越えていく!!』


 レースが始まって三十分強。コースに響くこのうざったいMCも、やっと気にならなくなった。二位とは半周ほどの差を付けている。このまま行けば優勝して世界選手権の代表を掴み取れるはずだ。


「頑張れ、兎!」

「世界選手権は目の前だよ!」


 スタート・ゴール地点を通過したとき、両親の声援が兎の耳に入ってきた。しかし、そこに大好きだった姉の声は含まれていない。


「お姉ちゃん……絶対に世界へ連れて行ってあげるから!」


 姉が亡くなるまでの三年間、兎は徹底的にバイクコントロールのテクニックをたたき込まれた。バニーホップもその一つだ。卯月はバニーホップを得意技の一つとしており、「私、うーちゃんの名前がついてて好きなのよね」とは生前に卯月がよく言っていた言葉だ。兎自身、この技は姉から授かった得意技だと自負している。


『おーっと、神原選手。最終周回を前にバイク交換をするかと思いましたが、ピットには入らず! これは余裕の現れということだろうか!?』


 確かにその通りだと兎は思った。


 シクロクロスはF1フォーミュラーワンのようにピットがあり、周回毎にバイクを交換することが出来る。しかし、前の周回でマシンを乗り換えたばかりだし、機材トラブルが発生している訳でもない。


 後ろのマージンも十分だし、ピットに入る必要性を感じなかったのだ。


 それにしても、かなり疲労を感じる。さきほどまで降っていた雨が予想以上に走路を重くしており、思うようにバイクが前へ進まない。まるで誰かに後ろから服を掴まれて邪魔されているかのようだ。


「うーさぎーっ! 後ろとは一分二十秒差よぉ! ファイトオォォ!」


 そこに、メカニック兼コーチで卯月の親友でもあった角谷奈菜がコース脇に現れた。


「ハァ……ハァ……ありがとう、ございますーっ!」


 全日本選手権のために設定されたコースレイアウトは、相当にハードなものだった。スタート・ゴールラインを越えるとすぐに、パワーのない選手は自転車に乗ったままでクリアすることが出来ないほど急な登り坂がやって来る。

 しかも地面は雨のせいでぬかるんでおり、非常に滑りやすい。トラクションが抜けるとあっさり転倒する恐れもあった。


 兎は慎重に登り坂をクリアすると、林セクションへと突入した。下り基調の連続コーナーは、ハンドル操作をちょっとでも間違えるとすぐにコースアウトして木に激突してしまう。


「主催者も……本当に意地悪よね……!」


 林を抜けて大きく左へ回り込むカーブを抜けた先に待ち受けるのは、ベニヤ板を使った高さ二十から三十センチメートルほどの障害物の数々だ。コース外に出て避けることは失格なので、必ずこれらを越えていかなければならない。


 技術のない選手はわざわざバイクを降りて、自転車を担ぎ、自分の足で障害物をクリアしていくことになる。もちろんそれはタイムロスになってしまうので、兎は得意のバニーホップを駆使して、次々と障害物を乗り越えていく。


「楽勝、楽勝――」


 しかし、事件は三つ目の障害物を乗り越えてバイクが地面に着地したときに起こった。雨によって出来たと思われる深い水たまりにバイクが突っ込んでしまい、大きな水しぶきが兎を襲った。


「うわっ!」


 泥が目に入り、一瞬視界が奪われる。


「しまっ――」


 しかし、時すでに遅し。すぐ目の前に四つ目の障害物が現れた。兎はすぐさまバニーホップの体勢に入るが、間に合わない。バイクのフロントホイールが四つ目の障害物に引っかかり、前につんのめるような形で兎は激しく転倒した。


「いててて……」


 兎は体を起こし、強打した背中を右手でさすった。


「うさぎ! 大丈夫かーっ!?」


 そこへ、意外な人が兎の元へ走り寄ってきた。コーチの奈菜だ。


「奈菜さん!?」

「コースの状況を知らせようと思って、スタート地点からコースをショートカットして先回りしてたの。でも遅かったようね……。体は大丈夫!?」

「うぅ……多分、大丈夫です」

「良かった。バイクは?」


 兎は慌てて立ち上がり、自分のバイクの元へ駆け寄った。


「ダメそうです」


 チェーンは外れ、フロントホイールはひん曲がり、バイクは完全に逝っていた。明らかに走れる状態ではない。


 ルール上、その場で修理することはもちろん出来ない。ピットに戻ればバイクを交換してリカバリーすることも可能だが、今は最終ラップだ。それも叶わない。


 絶体絶命。と言うより、試合終了。


「私の夢……お姉ちゃんの夢が……」

「馬鹿っ! 兎! 何弱気になってんのよ」

「え?」

「諦めるのはまだ早いわ。あなたのお姉ちゃんが一番得意だったことを思い出して!」

「得意だったこと……」


 そうだった。

 あたしのお姉ちゃんが一番得意だったことは、ペダリングでも、ハンドル操作でも、ましてやバニーホップでもない。


 それは――


「あなたは卯月の妹。姉譲りの素晴らしい脚を持っていることを私は知っているわ。まだ後ろとは一分差ある! ゴールまで走りなさい!!」

「はいっ!」


 兎はフレームが形作る三角形の空間に右腕を通し、トップチューブを肩にかけるようにして掴み、バイクを担いだ。そして、彼女は


 走れ、走れ、走れ……!


「私、自転車選手じゃなくて陸上選手の方が向いてたかも」


 昔、卯月お姉ちゃんがよく言ってた冗談だ。


 そう、シクロクロスはペダルを漕ぐだけの競技じゃない。バイクで走破できないような悪路は。そういう競技なんだ!


 今までペダルを漕ぐ時間と同じくらい走り込んできた。走力なら誰にも負けない!


 絶対に降車しなければ越えられない十四段ある階段を、兎は一気に駆け上がった。頂上はコース全体が見渡せる。後ろを振り返ると、二位の選手が状況を知ってか猛然と追い上げてくるのが見える。


 ゴールまで残り四百メートル。自転車ならわずか三十秒足らずでいける距離だが、全力で走っても一分強はかかる。


 諦めるな! 走れ、走るんだ、あたし!!


 自転車競技なのにバイクに乗らず、足で走ってる今のあたしは格好悪いかもしれない。そうまでして勝ちたいかって、後で悪口を言われるかも知れない。


 それでも負けたくない。勝ちたい! お姉ちゃんのために!!


「うおおおおぉぉぉ!!」


 不思議と観客の声は聞こえない。その代わり、自転車のギアとチェーンがこすれる音はハッキリと分かる。


 後ろは振り向かない。前だけを見る。栄光のゴールラインはもう目前だ!


 走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ――


 そして、兎の横を一台のバイクがもの凄い勢いで通り過ぎていった。


 ■


 奈菜がバイクの洗車を行っている横で、兎は力尽きたように椅子に座っていた。実際、兎はゴール直後に膝から崩れ落ちてそのまま立ち上がれなかったため、両親や奈菜によってピットまで運ばれていた。


「よく頑張った、泥ん

「ありがとうございます。あたし……勝ったんですね」

「そうだ。卯月もきっと喜んでる」


 一位の兎と二位との差は、僅かコンマ八秒。歴史に残る接戦となった。


 悲願だった全日本を制することが出来た。これでお姉ちゃんに世界を見せることが出来る。そう思うと兎の目から自然と涙がポロポロと流れ落ちた。


「実は、あそこで事故ったとき……お姉ちゃんが『危ないからシクロクロスはもう止めて』って言われた気がしたんです」

「馬鹿、そんなわけないだろう」

「え?」

「『技術に頼るな、根性で勝て』って言いに来たのよ」

「ぷっ……なにそれ。昔のスポ根ですか?」

「冗談だよ。さぁ、そろそろ表彰式だ。シャワー浴びてこい」

「はい」


 表彰台の一番高いところで、全日本チャンピオンを表す赤く太い横線の入ったジャージを着ながら、兎は弾けるような笑顔を見せた。この気持ちが天国の姉に届くことを願いながら。


(了)

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泥ん娘。<シクロクロス女子は悪路を駆ける!> 草薙 健(タケル) @takerukusanagi

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