ひもはきちんと結んだ

狩込タゲト

少しヘンなモノと日常と私

 うちの靴箱に並んでいる靴は、私の足よりもワンサイズ上のものばかりだ。

 薄暗い小さな木製の棚の中から私に履かれることを待っているのは、近所用のサンダルと、まだ数回しか履いていないスニーカー、古くてくたびれているのにまだ履けるからと捨てられずにいるスニーカー。

 つい最近、と言っても最後に靴屋に行ったのは2年以上も前の話だが、その時に買った2足の靴には同じ数字が並んでいるのに、なぜか片方はピッタリで、もう片方はブカブカだった。

 玄関の狭い上がりかまちににどっかと座り、さきほどまで履いていたピッタリとした革靴を簡単に拭いてから靴箱にしまい、代わりに出したお気に入りの青いスニーカーを履く。かかとの周りに新しくできた空間の開放感に、どうして同じサイズが表記されているのに履き心地がこんなにも違うのだろうかと不思議に思う。

 しかし、「そんなもんだ」と思考を放棄して、着ていたジャケットを薄手のジャンパーに着替え、玄関を出る。

 少し余裕がある靴を好ましいと思う私は、ワンサイズ上の靴をよく買う。そのとき試着をちゃんとしないとワンサイズ上であろうときついことがあるので油断は大敵だ。さっき脱いだ革靴は急いで買ったため少し窮屈で、失敗したと思っていたのだが、周りの人間が言うには「キッカリとした装いのときには、自分の体のサイズにピッタリの物の方が良い」から失敗では無いらしい。本当だろうかと疑問を感じないでもないが、しっかりして見える人は、自分のサイズに合った服をよく着ている気がする。


 日が暮れかけたひと気のない住宅街をとぼとぼと歩きながら、スキマの空いた靴の良さについて考える。道端の雑草の小さな青い花を見て、桜の花がそろそろ見られそうだという予報を今朝のニュースで聞いたことを思い出す。たしかに今日は昼間はうっすらとジャケットの下に汗をかくぐらい暖かった。そして今は、まだ冬の名残りがある風が暖まりすぎた体をなでていくのが、ひんやりとして心地良い。


 そこで、はたと違和感に気づいた。

 いつもであれば、靴とかかとのスキマから風が入り込み、汗ばんだ足が涼やかになるのに。

 それがゆったりとした靴の良さの大半を占めていると言っても過言ではないのに。

 風は吹いている、私の短い髪の毛がわずかにゆれているのだから。

 私の足だけ風を感じられない。

 沈みかけている夕日が右側から差し、私の左側には私の影が落ちている。

 私の影だけが落ちているはずなのに、視界の端に見える、私のヒザぐらいの高さの影が。

 何かが私の真後ろにいる。

 一歩分ほどの距離を置いて。

 影の表面が少し動いている。

 それは以前どこかで見たことがある動きだけど思い出せない。

 風に吹かれた毛皮の動きに似ているのかもしれないとひらめいた。もしかしたらどこかから逃げ出した犬なんじゃないか。中型犬ぐらいの大きさだ。毛むくじゃらで見慣れない影の形になっただけかもしれない。

 もっとよく確認しようと首を少し動かして……。気づいたら私は走り出していた。

 影の表面の動きが何に似ているか、思い出したからだ。

 小学校の課外授業で畑を掘り返したときに、土の中でうごめいていた、大量のミミズの動きに似ていたのだ。

 影を置き去りにして、足を必死に動かして、速く速く、前へ前へ、進もうとしているが、ブカブカの靴の中で足が滑り、思うように踏ん張れていない気がする。

 こんなときでも靴のスキマに生暖かい空気の流れを感じた。走ったことで生じた自分の熱によるものなのか、はたまた追いかけてくる影の吐き出す息のせいか。

 ハッ、ハッ、ハッ。

 自分の吐き出す荒い息の音なのか、影の吐き出す息の音なのか、区別がつかないほど距離が近づいた。

 靴の中で足がひときわ滑った。

 そう感じたときには私は転んでいた。

 地面に這いつくばる形で体をひねり振り返る。

 ぐねぐねと動くシルエットを目にとらえてしまった。

 思わず私は目を強くつむった。


 だが、何もやっては来なかった。

 おそるおそる薄目を開けると、なにやら影が、懸命に何かに噛みついているようだ。

 はねまわるようなその動きはなんだか楽しげにも見える。

 ヒューッと冷たい風が足の裏を通り過ぎて、私の背筋を震わせた。そのおかげで、私は靴が脱げていることに気づけた。

 その靴は影のもとにあった。

 影は私の靴をお気に召したようで、遊び道具にしていたのだった。


「ただいまー」

 誰もいない部屋の中へ声をかける。

 いつもこんなことはしないが、なんだか今日はそんなことをしたい気分だった。

「つかれた……」

 全力疾走なんて何年ぶりだろうか。明日はきっと筋肉痛である。

 玄関で片方だけになった靴を脱ぎ、さてどうしようかと思案する。

 私の大嫌いなミミズのようなもの(気持ち悪いので直視していない)と共に、靴の片方は置いてきた。もう片方も置いてきてもよかったのだが、万が一にも噛み飽きてこちらに興味を示してきたときに、もう片方の靴を差し出して見逃してもらおうと思ったのである。ガムのようにうまくいくかはわからないが。

 もともとは捨てようとしていたが踏ん切りがつかなかった靴なので、気に入っていたので少し残念だが、いい機会だったと思うことにした。

 問題は、夕飯だ。

 夕飯の材料を買いに行こうと出かけたのに、あんなことになろうとは。今日はもう出かける気になれない。

 うちに今あるものだけでなんとかならないだろうか。あるのはたしか、調味料各種ぐらい……。悲しいかな、米もパンも切らしている。

 そのとき食品棚の奥にあるものを見つけた。

「あっ、うどんが残ってたんだ!バターと海苔の佃煮を混ぜたらきっとおいしいぞ!」

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