地を駆ける手

緋糸 椎

地を駆ける手

「追加融資、厳しいですね……」

 融資担当の坂口俊介は心底困っていった。その前では、おこぜ屋社長・宮川広司が平伏している。

「そこを何とか……」

「大変申し上げにくいのですが、御社の本業での収益は、今後先細りするというのが当行の見解です。新規事業であれば、稟議を出せないこともありませんが……」

「新規事業……」


 おこぜ屋は創業100年の業務用軍手メーカーで、プロの職人たちの高い評価を得ていた。しかし、世の中では専門職人の数が減り、需要も減っていた。おこぜ屋の資金繰りは日を追うごとに苦しくなっていった。


 銀行を出た宮川は、すぐには会社に戻らず、川べりを歩いてみようと思った。その昔、野球少年だった宮川は、河川敷のグラウンドで泥まみれになりながら白球を追っていたものだった。その時に身についた教訓は「がんばればなんとかなる」だった。宮川は行き詰まった時はいつもここに来て、ガムシャラに頑張っていたあの頃のことを思い出すのだった。

 グラウンドに近づくと、カキーンという心地よいバットの打撃音が聞こえてくる。あの頃の自分のように白球を追う少年たちを見ると、宮川は心が熱くなる。

「がんばれよ……」

 宮川は少年たちに小声で声援を送りながら、自分自身をも励ましていた。

 とその時、グラウンド横を駆け抜けるランナーたちの群が宮川の目に入った。彼らは普通の走り方ではなく、まるで獣のように四足で走っていたのだ。きちんとランニングウェアを着用し、タイムを測っているところを見ると、真剣にトレーニングしているようだった。

 宮川は彼らに近づき、練習風景を見学することにした。すると彼らの中で際立ってカリスマ性を帯びた一人のランナーがスタンバイに入った。程よく引きしまった体型のイケメンである。

 そのランナーが走り出すと、宮川は目を奪われた。その走る姿が、ただただ美しかったのである。スポーツは動きの美しさを楽しむ一面もあるが、宮川はこれほどまでに美しい人間の動きを見たことがなかった。

 そのランナーが走り終わると、宮川は彼らに拍手を送りながら近づいた。

「とても素晴らしい! これは何という競技ですか?」

 すると彼らの中でリーダー格の青年が答えた。

「特に競技名はないんですけど、私たちは慶智大学四足走行同好会の者です。さっき走ったのは、スター選手の小木涼真おぎりょうま です」

「スター選手……なるほど、確かに走る姿がとても美しいと思いました」

「そうでしたか。彼はギャロップ走法ですからね……」

「ギャロップ走法?」

「ええ、四足の主流は手を補助的に使い、実質脚で走る走法です。でも、ギャロップ走法では両手を積極的に使い、馬やチーターのように接地しない瞬間があるのが特徴です。運動力学に叶った走法かもしれませんが、あれで早く走るには相当鍛えないといけないんです」

 なるほど、と宮川が聞いているところに小木選手がやってきた。

「キャプテン、新しいグローブ出してもらえませんか。もうボロボロで……」

「なに? さっき替えたばかりなのにもうダメになったのか?」

 小木選手はコクリと頷き、グローブを脱いだ。宮川はそれに興味が湧いた。

「ちょっとそれ、見せていただけませんか?」

 一見それは手の平にラバーを貼っただけの単純な手袋に見える。しかし、軍手の専門家である宮川は、そのラバーが特殊な材質であることを見抜いた。

「これは……摩擦力と衝撃吸収力を兼ね備えている……」

「よくわかりましたね」

 と小木はいった。「ギャロップ走法は趾行性しこうせいの運動ですから、スパイク並みのフック力が必要になります。それでいてシューズ並みの衝撃吸収力が求められるんですが、それに叶ったラバーは摩耗も激しくて、数回走るともう使いものにならなくなってしまうんです」

 小木は残念そうにいった。その時宮川はひらめいた。

「小木さん、そのグローブ、ウチに作らせてもらえませんか?」


 †


 宮川は早速社員たちに四足走行用グローブの企画を提案した。軍手一筋の老舗気質が根強い社風でそれを通すのは一筋縄ではいかなかった。しかし宮川も熱心に社員一人ひとりを説得し、銀行の追加融資も取りつけて開発チームを立ち上げた。そして試行錯誤の末、一か月後にようやく試作品が出来上がった。宮川はそれを慶智大学の小木選手に届けた。そして小木の練習に立ち会ったが、練習を終えた小木の顔は浮かなかった。宮川は恐る恐るきいた。

「グローブはいかがでしたか?」

「耐久性は飛躍的に向上しています。……しかし、フック力が足りません。率直にいって、これでは競技に使用できませんよ」


 小木の厳しいコメントを持ち帰り、宮川と開発チームはプロセスを一から見直した。そして幾つか改良品を作ってみたが、フック力は一向に向上しなかった。チームの一人がいった。

「我々だけでは荷が勝ちすぎです。やはりラバー開発専門家がいないと……」

 宮川には心当たりがあった。以前素材開発に携わっていた加藤だ。だが、加藤に声をかけるのはためらわれた。


 宮川は胸に不安を抱えながら、加藤の住むアパートを訪ねた。呼び鈴を鳴らすと、中から無精髭で赤ら顔の加藤が出てきた。

「……社長? 今更なんの用で?」

 その息にはアルコール臭が混ざっていた。

「酔ってるのか?」

「へっ。誰のせいでこうなってると思ってんです。この歳で会社クビになって、職なんかあるか!」

「そのことだが……加藤、もう一度ウチに来てくれないか」

 加藤は一瞬目を丸くしたと思えば、急に笑い出した。

「どの口がいうんですか。新開発は打ち切るから辞めてくれといったのは、どこのどなたです?」

「本当にすまなかったと思ってる。だけど今、どうしても君の力が必要なんだ。報酬もはずむよ」

 すると加藤は持っていたカップ酒の中身を宮川にぶちまけた。

「ふざけんな、二度と俺に顔見せるんじゃねぇ!」

 加藤に扉を閉められ、宮川は仕方なく引き返した。



 ところがその翌日、加藤が宮川の前にひょっこり現れた。

「昨日の開発の話、受けさせて下さい」

「それは嬉しいが、何か心境の変化でもあったのか?」

「実は借金取りに追われていて……昨日、収入のあてが出来たと、つい口走ってしまったんです」

「そうか……理由は何であれ、来てくれて感謝する。よろしく頼むよ」

 宮川と加藤はかたく握手を交わした。そして加藤はかつての研究室にこもり、毎日研究に没頭した。しかし要求されるフック力を持つラバーはなかなか出来なかった。

「くそっ!」

 苛立った加藤は、思い切り棚を蹴飛ばした。すると、棚から多数の段ボールがこぼれ落ちてきた。その中にはかつて開発してボツになったサンプル品が詰め込まれていた。

「……ったく、こんなゴミ大事にしてないで捨てとけよ」

 とつぶやきながら、加藤はサンプルの一つを手に取った。それは鳶職用に開発した「ニンジャ」という素材で、抜群のグリップ力だったが作業用としては硬すぎてボツになったのだ。加藤はほくそ笑んだ。

「これ……使えるんじゃねぇか?」


 早速ニンジャを使って試作品を作り、宮川がそれを小木に持っていった。試走した小木は、嬉々としていった。

「素晴らしい、これなら新記録出せますよ!」

 宮川は思わずガッツポーズを決めた。それから小木は自分でいったように、次々と自己記録を更新していった。ついにはオリンピック短距離走の選手候補とまでマスコミなどで囁かれるようになった。ところがJOC内で四足走法を認めるかどうかで意見が分かれ、両派間で激しく反目し合った。そして反対派の意見が有力となった時、世界中の四足走行支持者から署名が寄せられた。「シソク」はもはや国際語となり、JOCも東京オリンピックでの四足走法を認めざるを得なくなった。


 †


 そしてオリンピック出場の選考の決め手となる日本陸上競技選手権大会が開催された。100メートル競走のスタートラインに小木選手が立つ。その両手には宮川たちの苦労の結晶であるグローブがはめられている。

 世界中のシソクファンがリモートで見守る中、スターターピストルが鳴り響く!

 小木選手は華麗なギャロップ走法で猛烈なスタートダッシュを切る。これはいける! 

 ……だがそう思ったのも束の間、二足で駆け抜ける選手たちに追い抜かれ、結局小木は最下位で敗退した。それでも観客たちは惜しみない拍手を送った。


 その様子を、はるかドイツからテレビ中継で見ていたESA欧州宇宙機関開発部長ルドルフ・メンガーは、敗退した小木の手袋をじっと見ながら、電話で部下を呼び出した。

「Komm doch mal, ich hab' den Traumstoff gefunden!(来てくれ、夢の素材が見つかったぞ!)」


 それから間もなく、ESAは人工衛星の素材としてニンジャを使用するため、おこぜ屋とライセンス契約を結んだ。それにより、おこぜ屋にはライセンス料という思わぬ収入が舞い込むことになり、株価も上昇した。宇宙素材の開発者としてもおこぜ屋は世界的に知名度が上がり、優良企業へと成長していった。一方、陸上競技界では、小木の活躍により四足走行が一層注目されるようになった。年々研究が進みトレーニングプログラムも開発され、やがて二足走法としのぎを削るほどにまでなった。


 †


 2028年 ロサンゼルス


 100メートル競走のスタートラインに、世界を代表する四足走者・榊新一が立った。彼を手塩にかけて育てた小木涼真コーチの熱いまなざしが、その背中に突き刺さる。客席から「シソク、シソク」と声援が上がると榊は手を上げて応じた。その手にはめられた白いグローブには、OKOZEYAのロゴが輝いていた。

 

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