逃げた犬を追いかけて

久世 空気

第1話

「日が落ちる前に、スポットと散歩、行っちゃいなさいよ」

 ミエは思わず「えーっ!」と不満の声を上げた。

「今日はお母さん、忙しいからね。仕方がないでしょ?」

「やだよ。こいつ、すぐオシッコするし、座り込んで動かなくなるし」

 お母さんはすでにスポットにリードをつけながら「めっ」とミエをにらんだ。

「スポット、『こいつ』なんて言わないの。ミエの言うことを聞かないのはミエがお世話しないからでしょ」

(私の犬じゃない)と喉まで来た言葉を止めた。言ったら余計に怒られる。

 そもそもミエは犬じゃなくて猫がほしかった。それが兄のコウジがお父さんを丸め込んで豆柴になったのだ。最初は両親とも猫派だったのに。お父さんが「豆柴にしよう」と言えば、お母さんの意見も「豆柴にしよう」になる。理由は「お父さんがお金を出してくれるから」。

 それなのに飼って1年でコウジは中学受験を理由に世話を放棄。「受験なら仕方がない」と両親はミエに世話を振ってくるようになったのだ。もちろん出来るだけ拒否しているけど、そのせいで今、ミエと両親の仲は最悪だ。

「行けば良いんでしょ!」

 ミエはお母さんからリードと散歩の手提げを引ったくった。後ろからお母さんの苛立った息づかいを感じたが無視してミエはスポットを引っ張って外に出た。

 糞をしないうちに、10分程度で切り上げようと思っていた。だけど、はじめこそ意気揚々と歩いていたスポットもだんだん座り込んだり、突然止まったり、言うことを聞かなくなってきた。

(もう! ちゃんと歩いてよ!)

 近所のおばさんがそんなミエとスポットを見て、笑いながら通り過ぎていく。自分が悪くないのに恥をかかされた。本当にむかつく犬だ。

 とうとう道の端に座り込んでそっぽを向いてしまったスポットに、ミエは爆発した。

「ほんと! きらい!」

 ミエはリードを叩きつけて家の方に歩き出した。小さい頃にミエも同じことをお母さんにやられたことがある。駄々をこねて道に座り込んだら「じゃあ勝手にしなさい!」とお母さんは先をどんどん歩き出し、ミエは慌てて立ち上がりお母さんを追いかけたのだ。きっとスポットもそうするだろう、とミエは考えていた。

 それなのに、振り返るとスポットはいなかった。

「え? あれ?」

 視線を巡らすと一つ向こうの角を曲がる、くりんと丸まった尻尾が見えた。ミエは体がすーっと冷たくなるのを感じた。あの角の向こうは、車通りの多い道になる。年に数回、野良猫も轢かれている。それどころか近所の飼い犬も轢かれたことがある。それも散歩でうっかりリードを離した時だとか。

 ミエは走り出した。スポットに何かあったら、怒られるどころじゃない。きっとスポットとを可愛がっている両親に嫌われるし、コウジには一生いじめられるだろう。そうなったら猫だって飼ってもらえない。

 心臓がドキドキ痛いほど鳴る。

(どうしよう、どうしよう!)

 ミエが角を曲がるとすごい速さで車が向かってくるところだった。慌てて電柱にしがみ付く。車はクラクション一つ鳴らして慌ただしく通り過ぎていった。

 スポットは、いない。

 一瞬ほっとしたが、捕まえるまでは安心してはいけない。呼びながら探した方が良いのかもしれない。だけど近所の人に聞かれてお母さんに伝わったらと思うと恐くて叫べない。

 ミエは小声で「スポットー」と呼びかけながらうろうろと周辺を探し回った。するとコンビニの横を通り過ぎる尻尾が見えた。

(え? あんなところに?)

 いつのまに? だってあそこまで行くなら、途中で姿が見えてるはずだよね?

 考えながらもミエは走り出した。

 そしてまた見失い、探し、曲がり角に消えていく尻尾を見つけ、また走り……。

 ミエは体力はある方だと自分で思っていたが、ここまで振り回されるとさすがにつらい。そう思っているうちに、気がついたら最初にスポットを放置した場所に戻っていた。日はほぼ沈みかかっている。

(本当に、あいつ、きらい)

 塀に体を預け、息を整える。おかしい。今日はそんなに暑くないのに、汗が止まらない。走り回ったからって。

 そんなことより、スポットはどうして捕まえられないんだろう。スポットは走っている様子はなかったのに。

 視界が揺れる。

 めまいなんて、初めてだ。ミエは膝をつく。

 そこに……トトトト……と小さな足音がした。視線をあげると犬の尻尾があった。


 さっきまでずっとミエが追っていた、尻尾と、後ろ足があった。


 めまいが強くなる。

(何これ? 私、?)

 

 ガタガタと震えるミエの前を、後ろ足だけの犬がこれ見よがしにくるくると回る。

(これ、前足は? 上半身はどこ?)

 軽快に回っていた下半身は断面をミエに見せる状態で立ち止まった。それは赤いゼリーのようだった。そこが風船のように膨らみはじめる。どんどん膨らみミエを塀に押しつける。ほんの数秒で犬の下半身より、ミエの体より大きな肉の塊になり、そして真ん中でパカッと開いた。

 押しつぶされていたミエには見えなかったが、それはまるで大きな口のようだった。

 塀に潰され、息も出来ず動けないミエはそのままその口に飲まれていった。


 お母さんは外に出てミエとスポットを待っていた。

 あんなに嫌がっていたんだからすぐに帰ってくると思っていたのが、意外とちゃんと散歩してるみたいね、なんて悠長なことを考えていたのはすでに数時間前の話だ。先に帰ってきたのは放課後、塾に行っていたコウジだった。

「それ、ヤバくない? 交番とかに相談した方が良いんじゃない?」

 そのとき、トトトトと小さな足音がした。二人が振り返る。

「あ、スポット!」

 コウジが呼ぶと、スポットはうれしそうに尻尾を振りコウジに駆け寄る。スポットにはリードが付いたままだった。

「あいつ、スポットをどっかに括り付けて、遊びに行ってるんじゃね?」

 妹を「あいつ」なんて呼ばないの!とお母さんは怒ろうとしたが、それもあるかもと口をつぐんだ。ミエは夢中になると時間を忘れるところがあるから。あれだけ嫌がっていたスポットの散歩だし、途中で友達と会ったとかで忘れているのかも。

「ま、もう少し様子を見ましょうか」

 コウジはスポットを抱き上げ、お母さんはその頭をなでながら、家の中に入っていった。

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逃げた犬を追いかけて 久世 空気 @kuze-kuuki

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